「ついに一線を越えたのか、志郎。許されないぞ」
しばらく脂っこいものは食べたくないな、と思いながら目を覚ました。
昨日食べさせられたすきやき(豚)が重い。すきやきといってもすきやき鍋がないので、フライパンで調理しているのだけれど。
「しばらくは、あまり無理しないようにね。勉強したいのはわかるけど」
身支度をすませたわたしに、お母さんは改めて言った。
「あんたはちょっと無理をするくせがあるからねえ」
「そうかなあ」
「そだよ。だいたい前にも……」
「行ってきます」
お母さんが昔話をしだすと長い。そんなときは早く出て行くに限る。
きりきりと朝の日差しが肌を刺す。河本さんは、このぶんだとなかなか出てこないだろう。夏至がすぎても、なかなか昼が短くならない。
「はよ」
「おはよー」
あいさつしてすぐに生あくびが出た。あわてて手で口をふさぐ」
教室へ歩きながら、珠希はたずねた。
「眠いの?」
「貧血らしくて……。なんかだるいんだよね」
「今日は早く帰りなよ。最近ずっと勉強してるじゃん」
「そうだけど」
「そうだけど、何?」
珠希は凄みのある微笑を浮かべた。目が笑っていなかった。
「はい……」
この場面では、素直にうなずいておくのが一番だ。
なんとか一日を終えて、重たい足で自転車置き場に向かう。お昼ご飯を食べて少し目がさえたのに、また、頭がぼんやりとしてきた。
「だるい……」
体はそう叫びながら、、心の底から渇望がわき上がってくる。
会いたい、と思う。一瞬でもいい。彼と言葉を交わしたい。それはある種の儀式のようになっていて、なくなるところを想像できない。
学校を出ると、まだ明るいままだった。夏の太陽は、なかなか沈んでくれない、それがもどかしい。
夏休みになれば、自習室はいっぱいになってしまう。時間をつぶす場所を探さないといけない。
自転車のハンドルをゆっくりと家と反対方向へ向ける。
日没までもう少しだけ待っていよう。
ようやく日が沈み、タイミングを見計らって、家の前にたどり着く。
「河本さん」
「こんばんは」
河本さんは、浮かべかけた微笑を、真顔に戻した。
「どうされました? 顔色が悪いですよ」
「河本さんのほうがいつも悪いですよ」
冗談めかして言うと、河本さんは複雑な顔をする。
ドアノブに手をかけようとして、手が空中を引っかいた。そのまま体の力がふっと抜ける感覚がして、記憶はそこで途切れた。
暗闇の中でゆっくりと意識が浮かび上がってくる。それは眠りから目覚めるのとは違う感覚だった。
いつまで経っても暗闇がひかない。ひょっとしたら、わたしは死んだのかもしれない。
ああ、つまらない人生だった。こんなことならもっと好きなことをやっておくんだった。お金にけちけちして肩身も狭くて、それでいて若い身空で死んでしまうなんて。
「あやねさん!」
強く呼ばれて、やっと目が開いた。LEDの光が目に飛び込んでくる。目の前には焦った表情の河本さんがいる。
砂嵐だったテレビが突然きれいな映像を映しだしたときのように、私は驚いた。
「わたし……」
何か話そうとしても、口が鉛のように重たい。
「気絶していたんですよ」
「どのくらい……?」
「1分くらいですかね。立てますか?」
体に力が入らないのを見て、わたしの答えを待たずに抱き起こした。頭がぼんやりとして、クリアだった回りの景色がかすんできた。
「あの、わたし、ひんけつで」
「苦しいですか?」
「くるしくはない、けど、ねむい……」
「寝ていいですよ」
目を閉じると、やわらかいところに置かれる感触がした。同時に猛烈な眠気が襲ってくる。ふたたび私の意識は途切れた。
ベッドの上でふたたび目を覚ました。知らない天井というやつか。
瞬きすると記憶が戻ってくる。河本さんはどうしているのだろう。謝らないと。目覚めかけた意識に罪悪感が戻ってくる。
ふと横に向けると、なぜか木製の壁がある。そこではっと気づいた。
ベッドだと思ったものは、大きな箱にマットレスをしいたものだった。開けっ放しになったふたが右側に見える。
「……棺桶」
想像と違ってふつうの巨大な箱だった。マットレスがなければ収納ケースの一種かと思うだろう。
ベッドならロマンチックな場面なのに、棺桶だと質の悪いホラーのように感じるから不思議だ。
体を起こすと、乱れた髪の毛がばらばらとまとわりついた。
「おはようございます。どうですか。ましになりましたか」
「はい……」
わたしは重くうなずく。河本さんの顔を直視できなかった。
「すみません。俺は住んでる人に招かれないと家に入れないので……救急車を呼ぼうかと思ったんですが、二回目は気絶というより寝ている感じだったし」
言い訳をする河本さんがちょっと面白くて、口角がつり上がらないようにするのが大変だった。
「水、飲みますか」
うなずくと、河本さんはガラスのコップに水を注いで出してくれた。けだるい体に水分が染み渡る。
「親御さんに連絡した方がいいでしょうね」
「あ、わたしがかけます」
コップの水を飲み干してから、電話帳からお母さんの番号を検索し、電話をかける。コールする間に心拍数が上がっていく。
『もしもし。どしたの?』
「実は倒れちゃって、河本さんに助けてもらって……」
一拍置いて、鋭い怒声が飛んできた。
『このばか! なにやってんの』
「ごめんなさい……」
河本さんが手を伸ばし、代わってくれとジェスチャーする。
『河本さんと代わるね』
「うん」
河本さんはスマホを受け取ると、洗面所に入ってドアを閉めた。わたしに聞かれたくないことを話すつもりなのかと、憂鬱になった。
数分後、電話を終えた河本さんが戻ってきた。
「あやねさんのお母さんは、今日早く帰ってきてくれるそうです。うちには、もう少し回復するまでいてくれていいですよ」
「そんな、すぐ帰ります」
「気にしないでください。ああ、でもコンビニに行ってきていいですか? 何か栄養のあるものを口に入れた方がいいでしょう」
「わざわざ買っていただかなくても」
「うちにはあまり食材を置かないので……」
そうか、河本さんの食事は血なんだった。あまりにも普通に会話しているから、わからなくなる。
「こういうときに何を食べるのかわからないんですが……ゼリーでいいですか」
「あ、はい」
断るのもきまり悪くなってしまって、素直に甘えることにした。
がちゃん、と鍵が回った。帰って来るには早すぎる。忘れ物でもしたのだろうか。
「志郎! ほら、約束のやつ」
しかし、現れたのは別人だった。
青年と中年の中間ぐらいの男性で、髪の毛が無造作にはねている。それは河本さんとは違って、狙って作り出したもののようだ。
その人は、わたしと目が合うやいなや、いきなり怒り出した。
「ついに一線を越えたのか、志郎。許されないぞ」
「あ、あの、えーと」
「これ以上犠牲者を出さないために息の根を止めた方がいいかもな……シキ……かわいそうに」
「落ち着いてください!」
わたしはなんとか彼の独白に割り込んだ。
「そうじゃなくて、倒れたことを助けていただいて……その前に、あなたどなたですか?」
男性は、ゆっくりまばたきした。それから合点がいったふうに手を叩いた。
「島崎美月。きみ、たまにぐりふぉーんに来る子だよね。俺はあそこの店主だよ」
「ああ、なるほど」
ぱっと記憶に出てこなかったのは、ぐりふぉーんの照明がいつも暗かったからだろう。
「なぜ合い鍵を……?」
「用心のためだよ。だって寝てる間に火事とか地震があったらあいつ死ぬだろ。俺らはわけあって共存共栄の関係なの」
次の瞬間浮かべた笑顔は、場所が違えばさわやかに見えただろう。
「で、本題に入ろう。どうしてこんなところにいるの?」
数分後、わたしたちはソファに並んで座っていた。ソファは中古らしく、ところどころにつぎはぎが入っている。島崎さんは勝手にコップを持ってきて、水道水を飲んでいる。わたしもつられて水をおかわりした。
「なるほど、だいたいのところはわかった」
「はい……」
「大丈夫? あいつに言わされてないよね?」
「ええ、いや、そんなことは」
島崎さんは、きれいに整えたひげをなぞった。ひょっとしたら、ひげをそったら案外若いのかもしれない。
「きみはひょっとしてあいつのこと好き?」
コップの水を吐き出しそうになった。
「な、なんですか。関係ないじゃないですか。そんなこと」
「まあ、好きでないのなら、独り言か何かとして聞いてくれ」
島崎さんは、長い説明を始めた。
「あのじいさんはね、昔人間を好きになったことがあるんだよ。彼女を仲間に引き入れようとした」
「でもそれが女の子の両親にばれて、監禁まがいの状況で無理矢理引きはなされたあげく、もう会いに来ないでくれと言われたのさ。悲しいことだけど、吸血鬼を好きになるってそういうことだよ」
わたしはいつの間にか、ソファから立ち上がっていた。
「なぜ、あなたがそんなことを言うんですか。わたしが誰を好きだろうと、関係ないじゃないですか」
島崎さんは目を丸くした。そしてすぐに、悲しげにそれをすがめる。
「……そうか、悪かったね」
扉を開けた河本さんは、わたしたちを認めて怪訝な顔をした。
「美月? なんでお前ここにいるんだ」
「おつかい。頼んだだろ?」
「そうだけど、留守中に入るなよ……」
「出直すの面倒だったんだよ」
わたしは騒いでいる二人がいる、ドアに向かった。
「あの、帰ります」
「え、あやねさん、親御さんに迎えに来てもらう予定なんですが」
「お世話になりました」
背中でばたんとドアが閉じる。逃げるように河本さんの部屋をあとにした。胸が焼けるように苦しい。
数メートル隣のドアまではねるように走る。
もつれる手で鍵を開けて、部屋の中に滑り込んだ。
ずっと自分の中でごまかしてきたこと。もう嘘はつけない。
ああ、わたしは、河本さんが好きなんだ……
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