吸血鬼と狐の予言

 教員室でコーヒーを飲んでいると、少女に名前を呼ばれた。


「河本先生。記述式の問題を答え合わせしてたんですが、ここの部分をマルにしていいか悩んでて」

「どれ」


 彼女は授業を受け持っている生徒のひとりだ。俺は質問スペースに移動し、彼女と向かい合った。設問と答えを交互に見ながら、答えの正しさを検討していく。

 胸元からかすかに立ち上る、獣の血のにおい。だがそれに細かくつっこまないのが大人の対応というものだ。こんなに若くてきれいでも、


「微妙ですが、意地悪な先生だとバツにすると思います。もっと具体的な名前を出して、丁寧に書いていくことを目指すべきですね」

「なるほど」


 彼女の鼻がひくひくと動いた。ぱちぱちと大げさにまばたきをして、何かを確認している。


「どうしたんですか?」

「文音のにおいがする」


 俺はテキストを取り落としそうになった。危うくキャッチして胸に抱える。

 彼女の瞳が、金色に光った。


「どうして?」


 狸、狐などの人間に化ける獣の、動物的能力は非常に強い。たとえ人間と混血していても、その能力は侮りがたいものがある。

 そして通常の感覚だけではなく、第六感ともいえる勘のよさがある。かつて占いや予言で名を馳せた人間たちは、狐の血が混ざっていたという。


「マンションの隣人なんだ」

「先生って吸血鬼なんですよね」

「それがどうした?」


 ささやくような小さな声で言った。俺が吸血鬼でなければ、聞き取れないだろう。


「私の友達にひどいことをしたら、ただではおかないから」


 彼女、夏目珠希はいすから立ち上がると、きびすを返して立ち去った。



「何を言っているんだ、あいつは」


 しばらく呆然としてから、ごく小さな声でつぶやく。

 しかし狐の予言は、何の心当たりもない俺にすら、不安を起こさせる。

 もやもやした気持ちを振り払おうと、家から持ってきた新聞を開く。それとほぼ同時にスマートフォンが振動した。


『ばんわ』

『美月、今は仕事中だ』

『どうせ暇だろ。この間ぐりふぉーんに連れてきた女の子、マンションの子だよね。彼女?』

『違うに決まってるだろうが』

『よかった。彼女だったらどうしようかと思った。淫行だもんな』

『疑いすぎだ』

『志郎には前科があるからなあ。用はそれだけなんだけど』


 チャットルームから退出してやろうかと思ったが、今後のつきあいのことを考えてやめる。俺は大人でありたい。


『あの子母子家庭だよね』

『そうみたいだな。というかなぜお前が知ってるんだ』

『まあ、お客さんのことって結構覚えるんだよね。あとは噂』


 ぐりふぉーんにはマンション内のあらゆる噂が集結する。雑談している女性たちも、まさか美月がほとんどの会話を聞き分けているとは知らないだろう。


『そろそろ終わるぞ』

『じゃあ、次の授業で開口一番に噛め』

『何の嫌がらせだ年上は敬え』

『だって志郎子どもっぽいんだもんなー』


 美月はそれ以上何も言わなかった。


 時間になり、準備したテキストと板書用のノートを抱えて教員室を出た。

 生徒たちが座ったのを見て、俺は口を開く。


「えー授業をはじゅめま」


 ……人狼には他者を呪う能力があるのだろうか。

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