「プライベートで若い女の子の相手をしていると、親御さんに怒られますからね」

 塾への出発前にネット講義の動画を見ていると、にわかに雨の音が聞こえだした。身支度をしながら天気予報を見ようとテレビをつける。人狼向けの月齢予報を流していた。待っていられないのでパソコンで天気予報を検索する。

 パソコンはお母さんが職場の詳しい人に譲ってもらったものだ。しかしお母さんは表計算ソフト以外のパソコン情報にはうとく、わたしが四苦八苦しながら設定をした。スマホとセットの安い通信会社なのでネットはいまいち早くない。

 身支度を済ませ、傘立てからビニール傘を引っ張り出して、マンションのろうかを歩き出す。窓から見える空はうっすら明るい。ふと、まだ河本さんは起きていないだろうと考える。なぜ彼のことを考えたのかよくわからないけど。


 

 今日は数学の授業だ。まずは課題の答え合わせから始まる。

 自分のノートに目を落とすと、微分積分のグラフを何度も書き直した跡がある。答えとしてはありえない数字になってしまい、何度も首を傾げた。

 先生は几帳面な文字で課題を解説していく。そこで根本的な間違いに気づき、心の中で舌打ちした。

 先生の話を聞いていると理解はできる。しかし一人でやろうとするとつまづくことが多い。

 これが苦手と言うものなんだろう。公立大学には数学は必須なので、投げ出すこともできやしない。


 授業が終わって教室を出てすぐ、大きなあくびが出た。誰かに見られていないかとはっとする。


「ぶんちゃん」


 聞き慣れた声がして、振り返った。ひやりとした気持ちは、すぐに消滅した。


「珠希、来てたんだ」

「ちょっと休憩していかない?」

「いいよ」


 エレベーターで休憩室に上がる。予備校の休憩室は、ただ机やいすがおいてあるだけのシンプルな場所だ。ただし、長居をしないようにいすはやたらと背が高い。飲み物の自動販売機があり、何か飲みたければそこから買うことになっている。

 珠希は自動販売機で飲み物を買っていたが、私は持ってきた水筒に入った麦茶を取り出した。


「ずっと聞きたかったことがあるんだけど」


 珠希のひとみが金色がかって輝く。カラーコンタクトでは出せない美しさに、一瞬何を話していたのかわからなくなった。


「ぶんちゃんはどうして努力しないの? もっといい学校に行けるのに」

 しかし、その輝きはすぐに終わり、現実に引き戻される。

「ぶんちゃんはきっともっといい人生を送れる。才能がある人が努力しないのは怠慢だ」


 頭に血が上るのを感じた。


「わたしの人生に口出ししないで」

「文音……」

「どうしてそんなこと言うの。私が何も苦労していないとでも? どこに行くにもマ

イボトルを持って出かけなきゃいけない理由わかってる?」


 珠希の顔がさっと暗くなった。


「そんなつもりはなかった。私はただ……」

「わかってる」


 珠希は、少しほっとした顔をする。


「わかってるからもう何も言わないで」


 勢いよくいすから立ち上がった。バランスを崩したいすががたりとたたらを踏む。

 休憩室の生徒たちが次々に振り返る。わたしはそれを無視して走り出した。ここにいたくなかった。どこに行きたいわけでもないけれど。



 家の前にたどりつき、かばんの中をさぐる。そこでやっと家の鍵を忘れたことに気がついた。

 スマホを確認すると、お母さんは夜の家事代行のバイトに行っていた。


「もう! なんで!」


 近所の迷惑も考えず毒づいた。それが引き金になって、せきを切ったように涙があふれてくる。

 なんであんなことを言ってしまったんだろう。珠希に悪気はなかったのに。

 いや、違う。悪気がなかったからこそ苦しかった。悪意なくあんなことを言えてしまう彼女が憎かったのだ。学校の制服を買うお金に困ったことも、夏場熱中症ぎりぎりまでクーラーをつけられない経験をしたことも、珠希にはない。本当はそれがずっとずっとねたましかった。

 そしてそれ以上に、自分の心の醜さが悔しくて、涙が止まらなかった。

 ドアノブが回る音がして、河本さんが現れた。

 河本さんはわたしに気づくと、あからさまにぎょっとした。微笑み以外の表情は初めて見た。


「どうされたんですか?」

「なんでもありません」

「なんでもなくはないでしょう」

「あの、わたし、家の鍵を忘れて……」


 恥ずかしくてそこで言いよどむ。河本さんはそれを聞いて小さくうなずいた。


「じゃあ、ちょっとそこでお茶でも飲みませんか」



 そして、わたしたちは喫茶店ぐりふぉーんのカウンター席に座っていた。目の前にはSサイズのアイスコーヒーが置かれている。

 恥ずかしさのあまり私の涙は引っ込んだ。むしろ恐縮している気持ちの方が強い。どこを向いても落ち着かず、視線は店の中を漂い続けた。

 河本さんはコーヒーを一口飲んでから、切り出した。


「どうして泣いていたのか、は聞かない方がいいのですか」


 わたしはできるだけ冗談めかして、簡潔に答えた。


「友達と喧嘩しちゃって」

「そういうこともありますね」


 さらりと流されて、うれしいような悲しいような気持ちになった。彼に理解してほしいのか、何も知られたくないのか、自分でもわからない。この場面を切り抜けたいことだけはたしかだ。


「河本さんには友達いますか?」


 話すことに困った私は、またくだらないことを聞いてしまった。河本さんは少し考え込む。


「友達……と言っていいのかわかりませんが、まあ、いざというとき頼る相手ならいます」

「けんかしたりします?」


 河本さんにいやがる様子がないので、わたしはまた質問してしまう。逆に言えば、自分の話をするのが嫌だった。河本さんに自分の中の醜いところを見られたくなかった。


「生まれた環境が違えば考え方が違うのは、仕方のないことです。種族が

違えばなおさらです。人間は本質的にわかりあえないものです」

「傷ついたときは、相手に期待をしているときです。だけど、相手はそんな期待を知りもしないのだからどうしようもありません。期待はあまり持たないべきですね」

「冷たいですね」

「吸血鬼ですからね」

「でも期待しなければ、ちょっと優しくされただけで喜べるからいいですよ。一種の処世術ですね」


 河本さんは立ち上がる。気づくと河本さんのコーヒーはすっかり空になっていた。


「では俺はこれで。あやねさんはゆっくりしてください」

「えっ、もう行っちゃうんですか」

「プライベートで若い女の子の相手をしていると、親御さんに怒られますからね。コーヒー一杯分は休憩していってください」


 これは河本さんの完全な善意であって、教師としてのものではない。それを知ると、なんだかむずむずした。


「では、また」


 ぐりふぉーんの重たいドアから河本さんが出ていくのを、ぼんやりと見送った。


 わたしは頬杖をつき、『鍵を忘れちゃった。ぐりふぉーんでお茶してる』とお母さんにメッセージを送る。

 『なるべく早く帰るね』とシンプルな返答が来て、そこでスマートフォンをスリープモードにした。

 単語帳をぱらぱらめくっても、ひとつも頭に入らなかった。



 その日はひとりでお弁当を食べた。ひとりであることが必ずさびしいとは思わないけれど、やっぱりふたりがひとりに減ってしまうとつらいものがある。

 なんとなく、教室にいるのが嫌で、人のいないベンチを探した。ようやく裏庭でそれを見つけ、冷凍の唐揚げが入った不格好なおにぎりをもそもそとほおばる。

 噛んでも噛んでも味がしない。うちの炊飯器は性能がよくないが、それ以上に私の舌の性能が下がっていた。

 育ちすぎたキャベツの堅さが際だつサラダをかき込もうとすると、向こうから誰かが駆けてきた。


「ぶんちゃん!」


 珠希だった。ぜえぜえと息を荒くしている。走って探していたらしい。その姿を想像し、他人事ながら恥ずかしくなった。


「ど、どうしたの」


 言いたいことを察しているくせに、わたしはわざとらしくうろたえてしまった。珠希の頭からぴょこん、と耳が生えてきた。しかし耳は、生えるやいなや下の方に向く。

 珠希は、スカートを押さえてベンチに座った。


「出会ったときのこと覚えてる?」

「まあ」


 びっくりして口には行ったままだったサラダを飲み込んで、わたしは相づちを打った。


「中学のときは学校が違って、地域の科学クラブで会ったよね」

「そだね」

「科学よりドラマの話で盛り上がって」

「そうそう」


 思い出話をしに来たのか、と皮肉っぽい言葉を言おうとして、次の言葉に絶句した。


「私、高校に来るまではずっといじめられてたの」

 開きかけた口を閉じるのも忘れていた。珠希はなぜか笑い出した。

「私のお母さんってほら、狐でしょ? だから……結構変な力もあるのね。すごく勘が良かったり、自分の意志じゃなくて勝手にそうなるの」


 珠希は話しながら、自分自身を笑う。


「本当は、一緒の学校に来て欲しかった。それだけ」


 珠希の頭に生えた耳が垂れる。


「ごめん。子どもみたいだよね。嫌いにならないで」


 わたしは珠希のことを知らなかった。珠希はわたしのことを知らなかった。

 それなのに、わたしは一方的にまくし立てるだけだった。彼女がどうしてそう思うのか聞いてみようとしなかった。

 珠希がいじめられていたことを黙っていた気持ちは、痛いほど分かる。わたしに特別扱いをされたくなかったからだ。当たり前の友達として過ごす時間を壊したくなかったのだろう。


「ごめんなさい」


 自然にそう口に出ていた。珠希は、笑ったまま涙をこぼした。 


 コンビニにコピーを取りに行こうとすると、河本さんがマンションの下の郵便受けで、新聞を取り出していた。


「河本さん」


 話しかけると、河本さんはこっちを向いた。薄くいつもの笑みを浮かべる。


「あの、ありがとうございます」

「俺は何もしてませんよ」


 自動ドアの向こうに戻っていく河本さんを、わたしは見つめていた。はたと自分の

やっていることに気づき、あわてて歩き出した。

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