第33話 忌まれた子(その十)

 地裂に落ちて二日目――。

 岩場を歩くふたりの足取りは重たいものがあった。月澄げっちょう葉清ようしんの体を案じて自分の足で歩くことにしたのだが、それがかえって木雀きじゃくへの到着を遅らせていた。


 陽はすでに中天まで昇っている。夜が明けてすぐに移動を始めたものの、さほど進んでいないことは体感的にわかる。互いが傷を負っているうえ、歩きにくい岩場というのも進行の妨げとなっていた。


 かつん、かつん、と歩くたびに乾いた音が響いている。月澄は歩くときの補助として、太刀を松葉づえのようにして使っていた。「これを杖代わりにしろ」と言われて葉清から渡されたものだ。綺麗な装飾が施された鞘に、紫色の柄糸が巻かれている立派な太刀であった。悪い気がしたので断ろうとしたが、それも断られそうだったので甘んじることにした。


 その葉清の体調は良くない。苦しそうであることは見目にもわかった。呼吸も荒く、顔色もかなり悪い。しかし決して辛そうな素振りを見せることはなかった。それどころか、

「月澄、おまえは何かやりたいことがあるか」

 などと、場の雰囲気を和まそうとしてか、明るい口調で話しかけてくる。

「わかんないよ。そんなこと考えたこともないから」

 少しでも気が紛れるのならと、月澄もあえて普通に言葉を返した。

「葉清さんはあるの?」

「俺か。俺は……崋山かざんに登ってみたい」

 崋山のことは月澄も知っていた。界壁の向こう側にそびえる、天よりも高い山のことだ。しかし、そこに何があるのかまでは知らなかった。

「俺の祖父は登山隊だったらしくてな――」

 葉清の話はこうだった。


 崋山の伝説は多くあるが、中でもよく言われているのは、頂きにまで登るとえんたみが空より降りてきて、どんな願いでもひとつ叶えてくれるというものだった。その出処は不明であるが、おそらくは3600年前に実在した唯一の天下人、覇王である吟桂王ぎんけいおうが元になっているのではないかと言われている。

 現在よりも小さな国であった犀国せいこくが大陸を制覇できたのは、吟桂王が崋山の登頂に成功して、苑の民より強大な仙氣を授かったからだという伝承が「犀王記せいおうき」には残されているからだ。歴史研究家の中には、部族の王を神格化させるための創作ではないかと疑っている者もいるが、他の国々の伝記にも吟桂王の偉業は記されていたりもしているので信憑性は低いとは言い切れなかった。


 そのため、古来より力を求めて崋山を登ろうとする者は多くいた。なにより覇権、不老不死、絶大なる仙氣となれば時の王が欲するのも道理で、今でこそ伝説のために国力を割く王も少なくなったが、昔は国家の一大事業として軍を率いて登頂を挑むことも多々あったという。丹国にはそういった慣わしが昨今まで残っており、葉清の祖父も若かりし頃はその一員だったのである。


「祖父には会ったことないんだが、むかし酒の席で、親父が一度だけ口にしたことがあってな」

 祖父が崋山に挑んだのは三回、しかし登頂を果たせることはなかったらしい。その登山道は筆舌に尽くしがたいほど険しく、多くの仲間を失ったという。ほとんどの者は登山中に戦意を喪失し、中には気が狂って崖から身を投げた者もいたと聞く。挑むたびに届く凶報に当時の王も派遣を中止、やがて情勢のせいもあって登山隊は解散となった。しかし祖父はどうしても諦めきれずに単身で崋山へと挑んだ。国の支援もなく無謀だという家族の言葉を聞きもせず、雪がちらつきはじめた初冬に旅立った。そして、そのまま帰らぬ人となったのである。


「そんなところに、どうして行きたいの?」

 月澄からすれば理解しがたいことだった。聞いているだけで、それがいかに過酷なことかがわかる。

「祖父でも成し遂げることができなかったことをやってみたい――」

 ちょうど横手にあった岩場に体をあずけた葉清は、息を整えながら笑った。

「というのは建前で、登頂して吟桂王のような力を得たいというのが本心だ。自分でも子供染みた考えだと思っているがな」

 意外な言葉に、月澄は少し戸惑った。


「やっぱり、葉清さんも力が欲しいの……?」

「いけないことか?」

 葉清はまっすぐな視線を月澄にあてた。

「別に……そういうわけじゃないけど」

 目をそらした月澄はうつむいた。武人であるなら力を欲するのはわかる。しかし葉清という男は、そういった欲に囚われた者たちとは違う人間だと思っていた。

「月澄、綺麗ごとだけでは誰も守れないんだ。民を平穏に導くには、どうしても力が必要になる」

 葉清は空に浮かぶ薄らいだ雲をながめた。


「知ってるか。吟桂王が即位して数百年の間は、戦など起こらなかったという」

「そ、そうなの?」

「ああ。大陸がひとつの国となり、みながひとつの部族となった。争いもなく国境もない、誰もが自由に大陸を行き来できる。そんな時代が実際にあったんだ」

「もし、いまがそんな時代だったら、丹と柊は仲良くなれるの?」

 胸が高鳴るのを月澄は感じていた。葉清は目を丸くすると息を吹きだして笑った。

「あたりまえだ。丹柊だけじゃないぞ、采も梗も他の国も、すべてひとつだ」

「すべてがひとつ……」

 話が広大すぎて、そこがどんな世界なのか想像もつかない。しかし力を求めるのは悪いことではなく、その力をどう使うかが大事であることは分かった。やはり葉清は他の者とちがう。そう確信した月澄は、今まで感じたことのない躍動が体からこみ上げてくるのを感じた。


「葉清さん、おれやりたいこと見つかったよ」

 相手の目をしっかりと見ながら月澄は言った。

「おれも一緒に崋山にのぼる。頂上まで行くんだ」

「ほう」と葉清は口元をつりあげた。

「かなり過酷だぞ。子供のおまえについて来れるか」

「だいじょうぶさ。もしも葉清さんの方が途中で死んじゃったら、おれが操って頂上まで連れていくから」

「こいつ、言いやがった」

 葉清は笑いながら月澄の頭をこずいた。


 三日目――。

 葉清の様態は悪化の一途を辿っていた。顔色は真っ青で汗が止まらない。息も切れ切れになり呼吸することすら苦痛を受けているようだった。壁を支えにしながら一歩一歩進むのがやっとのようで、足を引きずりながら歩いている月澄よりも歩みは遅くなっていた。

 さすがに会話も減っていた。時おり言葉のやりとりを行うが、話をする気力も底を尽きかけているようだった。飢えも厳しく、この二日間で口にしたのは水だけである。ふたりともが限界に近い状態だった。


 しかし――と月澄は妙な違和感を覚えていた。葉清が地裂に落ちたことは多素にも知れ渡っているはずである。それなのに二日経っても捜索隊が来ないのはどういうことなのか。地裂の底は入り組んだ岩場が多いものの、道はほぼほぼ一本である。木雀より捜索隊が派遣されていれば必ず出会うはずなのだ。

 誰でもいい。何だっていいから。

 一刻もはやく葉清に手当てを受けてもらいたかった。

 しかし祈るような思いも虚しく、中天に昇っていた太陽は西へと傾いていく。

 そして朱色の光が空を覆い、やがて闇が押し寄せてきた。

 

 今日も木雀に着かなかった。

 

 このままだと、本当に危ない。明日まで体は持つのだろうか。持ったとして、歩くことはできるのだろうか。

 そう思いながら進んでいた月澄は、葉清が歩みを止めていることに気づいた。

「どうしたの……?」

 苦しそうに呼吸しながらも、葉清は小さく笑うと道行く先を指さした。

「この先を行くと……地上にあがれる」

 月澄の顔が、ぱあっと明るくなった。

「じゃあ着いたんだね、木雀に」

 葉清は何も答えずに、絶壁に阻まれた隙間に浮かぶ夜空を見上げていた。

「ちょうど……今日は新月か。月澄、地上に登ったら……おまえは暗闇に紛れて歩き続けろ。そうすれば……柊に着くことができる」

「え、なに言って……」

 言葉の意味が理解できなかった。木雀と柊は方向が正反対のはず、それに歩き続けるとはどういうのことなのか。

 

 そこまで考えたとき、月澄ははっとなった。

「まさか、ここって――」

 葉清は木雀ではなく、ずっと遠回りになる多素の西端に向かっていたのだ。それなら捜索隊にも合わなかったのも納得できる。

「なんで……?」

「大人は、子供を送ってやるものだ」

「な、なに言ってるんだよ。木雀に向かっていれば、とっくにもう着いてて、体の手当てもできていたじゃないか!」

「おまえがおれを刺したのを他の兵が見ていた。もし捕まれば……いくらおれでも庇いきれん」

 月澄は目を大きく見開いた。


「嘘……ついたの?」

「そうだ、嘘をついた。おれは……悪い大人だな」

 ははっと葉清は声をあげて笑った。

「い、嫌だよ」

 知れず涙がこぼれ落ちていく。

「別にいいよ、おれ捕まっても。だから一緒にいさせてよ」

 しかし葉清は首を横にふった。

「おまえはその太刀を持って、柊に帰るんだ。それは雪柳ゆきやなぎといってな……雪水家に伝わる宝刀だ。おまえが雪水の葉清に致命傷を与えたことは、その太刀が証拠になる。そうしたら柊でおまえを咎める者はいなくなる」


「でも、でも……」

 言いたいことが口から出てこない。柊での仕打ちや戦の名誉なんて欲しくはない。そんなことはどうだってよかった。

「なあ月澄……戦が終わったら、おまえ多素に遊びにこい」

 やさしく微笑みながら葉清は言った。

「そうだ、妹を紹介してやる。おまえらどこか似てるんだ、きっと仲良くなれるぞ」

「戦が、戦が終われば、一緒にいられるの?」

「ああ、そうだ」

「そしたら……崋山にも一緒に登れる?」

「ああ、登れるさ。きっと楽しいぞ」

 涙をぬぐった月澄は笑顔を浮かべた。

「わかった……約束する。かならず行くから。ぜったいに、これを返しに行くから」

 これ以上のわがままは葉清の負担になる。戦さえ終わればいいのだ。そうすれば堂々と多素へ行くことができる。それなら、それだったら――。


「じゃあ、行くよ。ありがとう……葉清さん」

 覚悟を決めた月澄は、太刀を抱きしめながら言った。

 と、その時だった。

「ソノ刀氣とうき……貰イ受ケル」

 声は月澄の真後ろから聞こえてきた。

 たまらない寒気を覚えて振りかえった月澄の目に、闇に浮かんだ鈍色に光る大きな刀が映った。

「月澄、よけろ!」

 駆けてきた葉清が叫びながら突き飛ばす。

 月澄のすぐ眼前を、人の背丈ほどもある白刃が斬りおろされていった。

 

 ざん、と音をあげながら岩場の地面に刃がえぐりこむ。

 烈風が波状に広がり月澄の髪をなぶった。


「なんだ……こいつは」

 驚愕に見開かれた目で葉清はそれを見上げていた。

 朽ちかけた甲冑に身を包んだ巨体は大人の背丈をゆうに超えており、鎧の隙間から見え隠れする体は骨が剥きだしにされ腐敗した肉がこびりついていた。右手に大刀、左手にも太刀を持ち、信じがたいのは背後に見えるもう二本の腕。ひび割れた手甲に覆われた腕が背中から生えているのである。顔は見えないが恐ろしいまでに赤く光る目だけが兜の奥に浮かんでいる。

「ま、まさか、新月の魔物……」

 月澄の腰は完全に抜けていた。動こうとするも足にまったく力が入らない。


「我ガ名ハ我羅捨がらしゃ、刀氣ヲ求メル者ナリ」

 それが言った。闇夜でもわかるほどの揺らいだ妖氣は、息をするたびに口から漏れだしているようだった。

「離れていろ……月澄」

 葉清は太刀を拾いあげると、顎と肩で鞘を挟んで刃を引き抜いた。

 右手一本で太刀を構える。

「む、無理だ……」

 左腕は折れて使えないばかりか、すでに瀕死に近い状態である。仮に葉清が万全であっても勝てる相手とは思えない。

「かもしれんな。しかし……どのみち逃がしてはくれんだろう」

 その言葉通り、我羅捨と名乗った魔物は大刀を振りあげると、容赦ない一撃を葉清に向かって繰り出した。

 

 地を割るかのような大刀を片手だけで受けた葉清の体が、ずん、と沈みこむ。

 膝をついた葉清は「がはっ」と吐血した。

「葉清さん!」

 悲痛の叫びに葉清の目が動く。

「おまえは逃げろ、月澄……!」

「そんな、できないよ」

「はやく行け!」

「認メヌ」

 魔物の背後の空間に黒い穴が浮かびあがるや、我羅捨は背中に生えた両腕をその穴に突っ込んだ。

「戦イニ置イテ引カバ、命ナキモノト思エ」

 そう言いながら空間から引き抜かれた両手には、ぬめぬめと光る長い刀が握られていた。

「あ……ああ……」

 ありえぬ四刀流を前に、月澄は死を覚悟した。


「月澄、おれの頼み……聞いてくれるか」

 恐怖で震えながらも葉清の目を見たとき、月澄は心臓が激しく脈打つのを感じた。

 葉清が何を言わんとしているのかが、勝手に頭の中に流れこんできたからだった。

「い、いやだ……聞きたくない」

 獣が教えられてもいないのに巣をつくるように、月澄にはその方法がすでにわかっていた。

「このままだと……ふたりとも死ぬぞ!」

「いやだ! やりたくない!」

「だめだ、やるんだ」

「いやだ、いやだよ……だってそれ――」

 言いかけた時、葉清の体が後方にふっ飛んで壁に激突した。我羅捨が足で蹴り上げたようだった。

「はやく……しろ」

 崩れおちながら葉清が言う。

 月澄は声をあげて泣いた。

 泣きながら地面を何度も叩いた。

「月澄……おれを、子供も守れぬ大人にはしないでくれ」

 その悲しくも儚い声は、月澄の心を鋼鉄の鎖で縛りあげた。


「雪水の葉清……おまえはおれと約束して、何でもすることを誓えるか」

 地面に顔を伏したまま月澄は言った。

「ああ、誓ってやる」

 死を直面にしながらも、葉清はどこか嬉しそうだった。

「だったら……」

 言葉が詰まって出てこない。

 これを言えば、これを言えばもう――。

 額を何度も地面に打ちつける。

 鼻筋を流れていく血のぬくもりが月澄の精神を幾分か落ちつかせた。

「だったら、望みを言え。そして自分の命でそれを証明してみせろ」 

「月澄――」

 暖かい声に月澄は顔をあげた。

 葉清は微笑んでいた。

 それはこの三日間、ずっと見せていた優しい笑顔だった。

「おまえはもっと自由に生きろ」

 剣先を胸にあてた葉清は、そう言うと己が手で自分の胸を貫いた。


 裏仙氣うらせんき ― 破滅はめつ盟約者めいやくしゃ


 月なく星が輝く夜空の下、月澄の慟哭が闇夜を引き裂いた。

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