第17話 老人と亀


 柊国しゅうこく刺尾しび――。

 はすの少し入りくんだ場所には小さな船着き場があった。柵のようなものはなく丸太で組まれただけの簡素な造りであるが、苔むした丸太はずいぶんと朽ちており、周囲に船も見当たらない。今は誰も使っていない古き時代の産物であるようだった。

 その船着き場のへりに、ひとりの男が座っていた。すでに白くなった眉毛は目を覆うほど長く、口ひげも胸元あたりまでのびた老人だった。少し丸め気味の背中は男の高齢さを物語っているようでもあった。横には魚籠びくが置かれ、手元から伸びた竹竿は湖にむかって放物線を描いているが、なぜか糸は垂れていなかった。どうやら釣りの真似事をしながらただ座っているだけのようである。

 

 時刻は昼五つ(午後二時)。

 風のない穏やかな日であった。

 さざ波がひとつとしてない湖面は青々しい空を鏡のように映している。

 常に柔和な微笑みを浮かべている老人は、そんな湖面を何をするでもなく眺めていた。あまりにも動かないため小鳥が羽を休めにくるほどで、時おり頭や肩にとまっては毛繕いなどをして飛び去っている。

 と、老人の前方で水面が盛りあがり、何かがぬうっと顔を出した。

 尖った顔の形を見るかぎりは亀のそれだが、両目の部分は黒く窪んでおり穴があいていた。

「おお……久しいですな」

 老人がしわがれた声で言った。

 それは湖面をゆらゆら揺るがせながら岸まで泳ぐと、のっそりとした動きで陸に這いあがった。

 水を押しのけて現れ出てきた褐色の甲羅は岩と見まがうほど大きい。

 水かきのある芭蕉のような手足を使って老人のところまでやってきた亀は、おもむろに両目のない顔を魚籠に突っこんだ。


「十年ぶりくらいですかな」

 老人は湖面を眺めたまま聞いた。

「そんなになるのか」

 魚籠に顔を埋めたまま亀は答える。

 端から見ると異様な光景であるが、老人と亀にとってはそうでもないらしい。

「少しくらいは進歩したのか」

 魚籠から顔を出した亀は、眼球のない目を老人に向けた。口のまわりには米粒が沢山ついている。どうやら魚籠の中身は魚ではなく、握り飯であるようだった。

「超えられませんな、己の壁は。今世こんせはここまでですかの」

「さみしいことを言うな」

「いかんせん、とっかかりが遅すぎましたわい」

 老人の目がはじめて動き、湖面から空へと移った。

「いやはや、あの若者がうらやましい」

 柔和な笑みを浮かべたまま、思い出したように呟く。

「若者?」

「わざわざ教えを乞いにりゅうから訪ねてこられましてな。なかなかに気品のある青年で、まだ若いのにわしと同じ域まで来ておったようで」

「ほう、たいした者だな」

「しかし、この域になるともはや知識を入れたとてどうにもなりませんからな」

「そういうものなのか」

 亀はふたたび魚籠に顔を突っこんだ。

「ええ、かえって足枷をつくることにも。それでも教わりたいのであれば、道に達した幻人でないと導きはできぬでしょうな。そう言うと、残念そうに帰っていきましたわい」

 老人はゆっくりとした動きで目を亀の方へ向けた。

「ところで、今日はどうかされたのですかな」

「ああ、懐かしい声が聞こえたものでな。しかし、もういなかった」

「ほほっ、のんびりしておられますからのぅ」

「周りが忙しないのだ。皆がわしのようになれば世の中はもっと上手くいく。ばたばたと走りまわって滑稽にしか思えん」

「わかっていても、抗えぬものですわい」

「抗えぬ……か」

 魚籠から顔を出した亀は、ぬうっと首を伸ばすと下草のひろがる野原の方へ顔をむけた。

 そこには焼け焦げた廃屋の跡があった。


 数刻前のこと――。

 薄明が東の空を染めはじめ、夜の闇が青白く変色しつつあった頃。

 荘厳な静けさにつつまれた草原に、四人の男が向かい合うようにして立っていた。

 梓季しき釣挑ちょうちょうびょう、それに月澄げっちょうである。

『わたしは探しに行こうと思います』

『宛てはあるのですか』

『ありませんが……はやく太子さまを見つけなくては』

 藍銅らんどうが何者かに連れ去られてしまった後のことで、描は少し感情的になっているようだった。

『闇雲に探しても見つかるとは思えませんが』

 梓季は冷静な態度で言葉を返した。

『でも、でも、わたしはあの人に命を救われたので、何としても報いる必要があるのです』

『気持ちは察しますが、手掛かりがないと動きようもないでしょう』

『それは……そうですけど』

 描は頭をおとして落胆した。

 梓季も落ち着いた物腰であるが心中は穏やかでない。行方の知れぬ太子が大事おおごとに巻きこまれている可能性も出てきたのだ。しきりに妥由が太子を求めるのも、このあたりが関係しているのではないかと考えていた。


『おい、あの男は何者なんだ』

 月澄が低い声で聞いた。鼻口を布で覆い隠し、暗い双眸で描を見据えている。

『確かに、あれだけの暴流を一瞬で消し去るなど並大抵ではありませんからね』

 三人の視線を一心に浴びた描は、しどろもどろになりながらここに来るまでの経緯を話した。それは命を助けてもらったことに始まり、主仙の社で見た暴流ぼる氣裂きれつのことなどだった。

せいの王都にそのようなものがあったのですか』

『はい。ですが藍銅さんは、そこにいた暴流もすべて退治して、氣裂も塞いでくれました。あの方は犀にとっても恩人なんです』


『いま藍銅と言ったか』

 ふと描の足元で声がした。

 四人の目が一斉に下草の方へ向けられた。

『えーと……?』

 描は首をかしげてそれの理解に努めた。

『梓季さま、亀です。これは湖亀であるかと』

『そのようですね』

 淡々とやりとりをするふたりのことも理解する必要があると描は思った。

『藍銅と聞こえたが、やはりここに来ていたのか』

 亀が口を開く。描の心はようやく驚くという行為に結びつくことができた。

『な、なんだこの亀、しゃべってるぞ! というか、なんで藍銅さんのことを知っているんだ!』

『すまんが事情を話してくれんか』

『無視か!』

 激しく気落ちする描をよそに、梓季は亀に理由などを求めた。

『あいつとは古い友人でな、声が聞こえた気がしたので来てみたのだ』

 亀には両目がなかったために梓季は真偽を確認できなかったが、嘘ではなさそうなので起きたことを手短に話した。


『なるほど……連れ去ったのはおそらく金剛こんごうだな。だとすると探しあぐねているようだな』

 亀はひとり呟いた。

『察するに、あなたも太子殿をお探しなのですか?』

『太子? ああ、対象者たいしょうしゃのことか』

『対象者……?』

 梓季は目を細める。

『なんだ、なにも聞かされとらんのか』

『なにぶん、お会いしたばかりだったので』

『そうだったか……それは邪魔をしたな』

 何か思うことがあったのか、亀は首を縮めると体を湖へ向けて歩きはじめた。

『あ、ちょっと亀……さん、あなたは太子さまが今どこにいるか知っているんですか。だとしたら教えてください、藍銅さんは私に太子さまを見つけるよう頼みました、私はそれに報いたいのです』

 身振り手振りをつけて必死で訴える描に、亀は言った。

『今のわしにはもう分からん。だが、もし無事であるのなら、対象者は華山かざんへ向かうだろう』

 そう言うと、亀は湖面の中へ姿を消してしまった。


『崋山って……あの崋山?』

 釈然としないのは描だけではないようだった。

『……界壁かいへきの向こうにあるいにしえの山ですね。入山することができるのは確か――』

せんの国だ』

 意外にも答えたのは月澄だった。描は力が抜けたように膝をおとした。

『そんなとこまで、どうやっていけば……』

 今まで一歩も犀から出たことがない描にとっては、一槌を打ち落とされたに等しい現実である。

『ここからだと丹国たんこくを抜けていくのが一番早い。何ならおれが案内してやる』

 この言葉に描の顔は輝いたが、梓季と釣挑のふたりは判然としない様子を見せた。

『あなたが?』

『意外か』

『意外も何も、あなたは徐剛じょごうの刺客であったのでは』

 はじめて聞かされた事実に、描の顔は一転して強ばった。

『あんな奴に恩などない。自由な暮らしを条件に引き受けただけだ。おまえらを殺して金をもらえば国を出ていくつもりだった』

 見据えてくる梓季の目を正面で受けとめながら月澄は言った。

『あなたにも深い事情があるようですね』

 梓季は含み笑った。


『梓季さま、我々はどのように』

『そうですね……太子捜索を続けたいところですが、ひとまず犀に戻るとしましょう。まずは戦を止めるのが先決です』

『あのう、戦って梗猿こうえん柊犬しゅうけんのことですか』

 とぼけた声で描が割りこむ。

『ええ、そうですが』

『だとしたら、なんだか中止になったみたいですよ』

 思いもしなかった言葉に、梓季と釣挑は目を見張った。

『詳しく話してもらえますか』

『ええと、藍銅さんと一緒に柊を目指して香丈こうじょうのあたりまで来たときだったんですけど――』

 そう言って描は話しはじめた。

 

 ふたりが柊との国境に近い香丈まで来たとき、都は梗猿や犀鳥が集まり物々しい雰囲気になっていた。すぐに異変を感じとった描は太子の情報収集も兼ねて、藍銅からもらった氣札を使い梗猿に潜りこんだのである。そこで聞いたのが、梗の主仙しゅせんが急に倒れて意識不明になっているという話だった。そのため梗猿は柊犬討伐を中止、ひとまずは犀の王都へ引き上げて様子を見ることになったという。

 じっと描の目を見ていた梓季は、

『なるほど、それなら取りやめになるのも道理ですね』

 顎に手をやり思案した。もとより沢桔さわきも本心では戦に反対だったため、妥由だゆが倒れたとなれば堂々と中止を宣言できる。梗猿を王都まで引き上げたのは岨采そばなの案と見てよさそうだった。もしも戦が再開したとき、それで時間を稼ぐことができるからだ。


 当面の心配事はなくなった梓季であったが、代わりに別の疑念が浮かんできたのも事実だった。ここにきて妥由が倒れたのは、果たして偶然なのかそれとも――。

『釣挑、あなたは報告と確認のため犀に向かってください』

『梓季さまはどのように』

『私は知来太子を探すため、彼らと共に崋山へ向かいます。いつ妥由殿が意識を取り戻すか分かりませんからね』

 釣挑は何か言いたそうな顔をしていたが、片膝をつくと短い返事をひとつだけ返した。


(そうか……そろそろ改化かいかときが近づいているのだったな)

 亀は長く伸ばしていた首を元に戻した。

 いつの間にか、三匹ほどの小鳥が甲羅のうえで戯れていた。

(集うのは己の意志によるものなのか、それとも定められた運命か。願わくば、前者であって欲しいものだ)

 のっそりとした動きで老人の横を通りすぎた亀は、へりから湖にすべり落ちた。

 どぶん、という音がして水しぶきが飛んだ。

「もう行かれるので?」

「ああ、馳走になった」

「これが今生の別れやもしれませんな」

 柔和な笑みを浮かべているが、うら寂しい声で老人は言った。

「なに、わしもしばらく忙しい身になりそうだ。また会えることもあろう」

 そう言うと亀は、湖面を揺るがせながら水の中に潜っていった。

 水面に映る青い空が、波打ちながら揺れていた。

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