第12話 交わした契り


 犀暦せいれき2780年(820年前)――。

 はぎの国、とある山間(現・榴国石赤りゅうこくせきせきの近辺)。

 

 ざあざあと音を立てて振る雨は、ぬかるんだ地面に水の通り道をつくっていた。日が落ちたばかりの山中は薄暗く、乱立する木々は不気味な影になりつつあった。

 そんな山中の下草に挟まれた小道を、ひとりの男が歩いていた。

 一見すると熊とも見まがうほど大きな体躯をした、薄汚れた僧衣姿の男だった。雨を凌ぐように菅笠すげがさを深くかぶり、手には黒い棒を持っている。それを杖代わりにしながら、男は道なき道を進んでいた。

 

 ちょうど二股に差しかかった時、男は血相を変えて走ってくる農民と出会った。

「あ、あんた旅の僧か」

 農民は男の大きさに驚いたようであったが、すぐにはっとした顔になり、

「悪いことは言わねえ、す、すぐに引きかえした方がいい」

 自分が来た道を指さしながら言った。

「何があった」

 男は野太い声で聞いた。

「ば、ばけものだ。こ、ここ、子供を喰ってやがった……!」

暴流ぼるか」

「いや、ちがう。あれは獣だ、見たことねえほど大きな。と、とにかくこっちへは行かない方がいい」

 男はしばらく考えたあと、農民がやってきた方へ足を向けて歩きはじめた。

「ばかやろう、おれは知らねえからな!」

 農民は吐き捨てるように言うと、一目散に走り去っていった。

 

 しばらく進むと、少し斜面を登ったところに風化の進んだ大きな岩が転がっていた。ずいぶんと昔に崖から転がり落ちてきたのだろう、その大きさは男の背丈のふたまわりを軽く超えていた。

 

 それは、その岩の横にいた。

 灰色の体毛に覆われた、犬のような姿をした大きな獣だった。大柄の男と変わらないほどの体をしたその獣は、お座りした格好で空を眺めていた。降りしきる雨が獣の毛を伝い、その滴が下で横たわっている子供らしき者の上に滴り落ちていた。

いち対象者たいしょうしゃ……の末裔か」

 男は言った。


 獣は顔を上に向けたまま、眼だけを動かして男を見た。まるで海を思わせるような青い目だった。

「ぬしらは何をやっているのだ」

 その獣が、言った。聞いた者を震えあがらせるような威圧感のある声だった。

「対象者の運命を哀れみ、改化かいかときまでは苦しまぬようにするというのが、われの先祖とぬしらが交わした契りではなかったか」

 菅笠をつまみ上げた男は、驚いた様子で子供を見やった。

「まさか、その子供が今の対象者だというのか」

 ぬかるみに足を取られながらも岩のところまで来た男は、子供の傍らで屈むと様子を伺った。 

 

 手足は線のように細くなり、痩せすぎた体には骨が浮き上がっていた。まだ息はあるようだったが、生氣はほとんど見られない。風前の灯で、最後の時を迎えているようだった。

「ありえん、なぜこのようなことに」

「明日の飯すら食えぬ家に生まれたようだ。親に捨てられたのであろうな、我が見つけた時はすでに遅かった」

 男は低いうめき声を漏らした。目の前のことを理解しかねているようでもあった。

「おそらくこれが初めてではない。ぬしにもわかるであろう、この者が持つ生氣の脆弱さが。同じ苦を何度も体験しない限り、このようにはならぬ」

 やがて、わずかに灯されていた火は、すうっと風に運ばれるかのようにして消えていった。子供の顔が、少しばかり安堵に微笑んだかのように見えた。

 獣は空に向かって遠吠えをあげた。

 その声に順応するかのように、子供の体は肉がなくなり骨となり、そしてその骨も霧のように消え去っていった。


「すまなかった。このことは報告しておく」

 男は立ちあがると、菅笠を深くさげた。

 四足で立った獣は、巨体をものともしない軽々とした動きで大岩の上まで駆けあがった。

「ぬしらの考えに口を出すつもりはない。だが、このようなやり方がいつまでも続くと我は思えぬ」

 男を見下ろしながら獣は続けた。

「しかし改化の刻は行わねばならぬ。我も対象者を見守ることにしよう」

「おまえさん、名はなんという」

「我は青海せいかいえんじゅを統べる者だ」

 獣は体の向きを変えると男に背を向けた。

「我の寿命といえども刻までは持たぬ。そのおりには頼んだぞ」

 返事を待たずして、獣は山の中へと姿を消していった。

 しばらくその場に立ち尽くしていた男であったが、やがて子供がいた場所に目を向けると軽く頭をさげ、自身もまた暗がりにつつまれた小道へと戻って行った。

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