慶應4年秋 椿という娘
小川と墨書された表札の家に辿り着くと、椿はすぐに居間に上がり、横たわる父親の様子を覗った。
蝦夷地の十月、それももうすぐ十一月という頃になると、ぼろくなった長屋は寒くて寒くてたまらない。
病で寝込んでいる父親には特に辛いだろう。
「父様、今日ね、メリケン人からすごい知らせを聞いたわよ!」
椿は仕事先でもらった洋菓子を包から出して父親の枕元に熱いお茶と一緒に置いた。
「幕府の軍がとうとう蝦夷地に上陸したんだって! 伝習隊や新選組の人たちがいるんだから、新政府の軟弱な兵士が勝てっこないわよ」
「……箱館港は大混乱じゃないのかい?」
「港には来てないわ。確か、北の方の鷲ノ木に上陸したって聞いたけど」
幕府軍がこのまま南下してくれば、市街地での戦いは避けられるはずだ。父親の病の具合が心配なのは当然だが、椿の心は浮き足立っていた。
椿は新政府の中心となった長州藩を心の底から憎んでいた。そして幕府軍こそが彼女の憎い敵を倒してくれるのだと、椿は信じている。
今でこそ狭くてぼろい長屋に住み、薄っぺらい着物を着て、その日暮しの生活を送っているけれど、元々、椿の実家は江戸の呉服問屋で、しかも幕府や大名、幕府直轄の諸機関との取引が多く、それなりに裕福だったのだ。
椿という名前は幼少の頃、お得意様の奥方がつけてくれた二つ名だ。本名は小川松なのだが、その奥方は幼い松を艶やかで真冬にも輝く椿のようねと言い、それから誰からともなく椿と呼ばれるようになった。
要するに椿は問屋のお嬢様として育ち、幼いながら幕府御用達の店の娘であることに誇りを持っていた。
ところが、世の中が尊王攘夷の風潮に染まり、京も江戸も外国人排斥を目指す過激派が活発な活動を行うようになる。そんな中、文久二年の夏、椿の実家である小川屋は長州藩士によって放火され、逃げ遅れた椿の母親が焼死するという事件が起きた。
なぜ小川屋が狙われたのか。それは、小川屋が洋学教育も担う洋書調所という幕府官立学校とも取引をしていたからだ。
「攘夷の過激派にしてみれば、洋書調所に奉仕し富を得る小川屋は悪の手先と同じなんだろうよ」
事件を担当した与力の一人が部下にそう言っているのを椿は聞いた。
現場から毛利家家紋が描かれた小川屋への告発状が発見されたものの、放火犯自身は見つからなかった。
だから放火が本当に長州藩絡みなのかはわからない。しかし、突然母親と裕福な暮らしを奪われた椿は、長州藩士の仕業だと信じ、そして怒りと憎しみを心に秘めて生きることになった。
その後、小川屋が再興することはなかった。資金繰りが困難だという理由もあるが、何より主人である椿の父親の気力が消失してしまった。
(どうしよう……。父様はあんなに意気消沈してしまって可哀想。私だって悲しいけど、私がしっかりしなきゃ!)
毎日泣き暮れていた十四歳の娘は、生活の糧を得るためにあることを思いついた。生まれてからお嬢様として育った椿はもちろん生きるための労働に従事した経験はない。それでも、商家の女子に必要な教育と技芸は身についている。
椿が向かったのは、かつての取引先であった洋書調所だった。その頃、所は広大な敷地に引っ越しをしたため使用人などを募集していた。
「何でもお手伝いします! 私、裁縫は得意だし、ちょっとなら計算もできます」
連日通って必死に頼みこんだ結果、所の担当者は椿をお針子として雇うことにした。関係があった商家の娘だし、事情が事情なだけに不憫だと思ったからだ。
お針子と言っても、実態は雑用係なので教授たちから色んなお願いを受ける。煙草を買ってきてほしい、教室を掃除してほしいなどなど。
時々、学生たちからも用を言いつけられて、雑用をこなしている間に彼らの会話を聞く機会が頻繁にできた。
(異人の言葉……? 何て書いてあるのかちっともわからないな)
教室を片付けていると、見たことのない文字が書かれた冊子や紙くずに触れることがある。椿は好奇心からそれらをめくったり、開いたりしてみた。
すると中には親切な学生もいて、椿に説明してくれる。
(ああ、とっても綺麗な言葉ね。まるで絹の糸みたい)
やがて椿はある美しい言語に心惹かれるようになった。それはフランスという国の言葉だった。
洋書調所では基本的に実践的な学習を行い、政治的な内容の翻訳を担っているから、どうしても硬い話になりがちだ。それでも、フランス語を学ぶ学生たちの口から紡ぎ出される音は魅力的で、もしこれが甘い内容の囁きだったらと考えると、椿の胸はひとりでに高鳴るのだった。
この学校は不思議な空間を作り上げていた。攘夷の風が吹き荒れる外界とは違って、至るところで英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語が聞こえてくるし、異国に関する情報が溢れている。
もちろん、全ての教授や学生が異国に好意を抱いているわけではなかった。上から命じられたから勉強している者が多数であり、攘夷のために仕方なく外国語などを勉強しているのだ。とは言え、椿にはそんな事情は関係ない。外国を排除しようとする長州藩が親の敵なのだから、俄然、椿は外国に興味を抱いた。
十代半ばの呉服問屋の娘の心を特に揺さぶったのは、西洋での宴の様子と女性の衣装、つまりドレスだった。
呉服問屋の娘として豪華な振袖や婚礼衣装は見慣れていたが、西洋の服は全く趣が違う。ふわふわで流れるような、後方に膨らんだドレスやレースの飾りはまさに夢のように思えた。
男の学生たちは西洋風俗の描かれた錦絵にそれほど関心はなさそうだったが、椿は毎朝その絵を見てはきらびやかな舞踏会にときめきを覚え、今日もがんばって働こうという気持ちになった。
それから三年後の慶応元年、椿と父親は蝦夷地に移住することになった。父親がもう江戸にはいたくないと考えたためだ。
(学校を離れるのは寂しいけど、父様の気持ちを思うと、心機一転、蝦夷地で暮らすのも悪くはないかもしれない)
全く縁のない蝦夷地での生活は予想以上に困難だった。なんとか小さい呉服店を開いたものの、江戸でのような繁盛には程遠い。
そして父親は蝦夷地の厳しい寒さと疲労で病に倒れ、今では椿がお針子の仕事で雀の涙の生活費を稼いでいる。
「すまないね。年頃の娘なのにこんな苦労をかけて」
「父様のせいじゃないわ。全部、長州が悪いの。でも、幕府軍が蝦夷地を治めるようになれば、きっと元の生活に戻れる」
「だといいね」
数日後、幕府軍が難なく五稜郭を占拠したという知らせが耳に入った時、椿はそれを父親に伝えることができなかった。
父親は容態が悪化し、そのまま帰らぬ人となっていた。
(ひとりぼっちになっちゃった……。今更、江戸に戻っても生活できるわけじゃないし……、私の人生は箱館で終わるのね)
不思議と涙は出なかった。不安には思うが、椿の胸にはどういうわけか小さな希望の光が灯っていた。
年来の仇敵に立ち向かえる存在である幕府軍が、身近にいる。それだけで椿の心は慰められたのだった。
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