----- クロトキリトル -----

悠木 泉紀

三月

第一話 特別な一日をキリトル

 高校に入学する一カ月前、お父さんにカメラを買ってもらった。



 英語の授業で使う予定になっていた電子辞書を、近所の家電量販店に探しに出かけていた。

 道のりで自宅に届いたチラシを読んでいると、裏面のカメラの大特価セールが目に留まった。

 少し前にが流行したけれど、今年の三月、もうその波は去ろうとしている。

 私は随分と価格の下がったミラーレス一眼レフに、少しの嫌悪感を抱いたが、カメラに興味はあった。

 欲しい。ほぼ直観的に私は思った。


 鷹那で唯一の家電量販店はいつも賑わい、この町では突出して大きい建物だ。

 家電量販店に着くと、さっそくエスカレーターで建物二階の電子辞書売り場に向かう。

 二階は事務系機器が陳列している。今日はあまり混んでいない。

 多言語対応、タッチパネル対応、インターネットに接続可能……

 多機能を持った製品が売れ筋だ、と愛想が良い若い店員さんが教えてくれたけれど、私が欲しいのはものだ。

 そのなかでは、それが最も価格の低い製品だった。

 先月、生産が終了してしまったらしく、在庫がなく、展示品のこの白いモデルしか置いていなかったけれど、とくにこだわりがないため、購入することにした。

 さっきの店員さんを呼び、購入意思を伝える。

 レジでお父さんがゴールドのクレジットカードを店員さんに手渡し、手慣れた動作で暗証番号を入力する。

 こちらを見ずにお父さんが言う。


美久梨みくり、さっきチラシに載ってたカメラ見てたろ」

「うん」

「一度見てみるか」


 三階のカメラ売り場には、運動会の五〇m走で活躍しそうなビデオカメラや、プロが使うようなフルサイズ一眼レフ、私にはまだまだ縁が無さそうな製品がある。

 黒とシルバーで彩られるその空間は、何処となく私には場違いな気がした。

 そのなかにチラシのミラーレス一眼レフがあった。


 小さい。可愛い。と私は思った。

 カメラと言えば、大きくて重くて、女子には向かないものというイメージが強かったけれど、一気に払拭される。


「これ買ってやろうか。入学祝いに」


 そう言ってお父さんはニッと笑った。

 迷った。正直なところ、最近になってようやくローマ字を覚えた私に使いこなせる気がしなかった。

 興味はあったけれど、欲しいと思ったけれど、こんなに簡単に買ってもらっていいのだろうか。すぐ飽きてしまうのではないか。

 そう思うと怖かった。


「ちょっと待って」


 そのミラーレス一眼レフは一昔前のフィルムカメラを思わせるデザインが施されていた。

 光沢のある黒のボディにズームレンズ。

 でもどこか可愛い。

 カメラを持った自分を想像してみる。

 違う……?似合ってない……?

 大丈夫、ちゃんと似合ってる。

 写真が撮れる……。

 そうだ、何気ない日が特別な一日に変わる。

 とくべつ?

 そう、いつもが特別な一日に。


 決心した。五分だった。


「お父さん、これ欲しい。ちゃんと大事にするから」


 お父さんはさっきみたいに笑って、強面な中年の店員さんを呼んできてくれた。

 その店員さんによると、このカメラはタッチパネル対応でインターネットに接続可能だとのことだった。

 心が弾んだ。


 先ほどみたく、レジでお父さんがゴールドのクレジットカードを店員さんに手渡す。

 そして、手際よく暗証番号を入力する。


「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしています」


 帰り道、お父さんは何も話さなかった。

 私も何も話さなかった。

 道路を走る車の音とカラスの鳴き声、私とお父さんの足音だけが聞こえていた。

 その日は天気が良く、水彩絵具で描いたような紅く焼けた夕空がとても綺麗で、地面には紙袋を二人で持つ姿が影に写っていた。


 愛着が湧くように、このミラーレス一眼レフをクロと名付ける。


 何かが始まる。そんな予感がした。

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