夏の終わりに

@kurourusi

第1話 月の渦潮


 静かな夜だった。波は落ち着き、風は穏やかに潮を撫でていた。月明かりが波間を照らし、踊るように光が跳ねていた。


 海に差し込んだ月光は水面に沈む船の残骸を静かに照らし出していた。やがて、薄く雲がかかり、月光が弱まると、黄色の間に異なる色が浮かび上がりだす。中空に浮き、徐々にその色を強くしてゆく、半時も経てばはっきりと、漁火(いさりび)に似た炎が波間に浮かんでいた。


 踊る焔の先、その揺れが徐々に小さくなるにつれ波音が引いてゆく。

ゆるく吹いていた風が止んだ。


 波山の傾斜が少しずつ緩やかになり、見る間に穏やかに落ち着いていく、潮騒が消え、やがて海面の波が消えた。



 空に薄く広がる雲が瞬く間に散り、空に浮かぶ月が、澄み渡る水面に、その姿を降ろす。


 鏡合わせの空と海、二つの月が煌々と輝き、お互いを映しあう。


 月の周辺ではそれぞれ、空で星が瞬き、海面では火種を持たない数々の赤が、青が、橙が、朧に焔を揺らし、燃え続けていた。


 星の瞬きと炎のゆらぎ、互いに干渉しあうように揺れる。


 風が止み、静寂が満ちる。永遠と錯覚するほどの濃厚な時間、実際は数分が経つと下の写し身の月が逆巻き始め、黄色の渦が炎を飲み込んでゆく。青く、赤く、橙に燃える炎を次々と。


 底の見えない渦が色とりどりの炎を飲み込み尽くす寸前、それは流れに逆らい、水面から跳ね出した。


 丸裸の女を生み出した渦は消え、海上の月は消えた。女が海中に没する。それにより大きなさざなみが立ち、海は波を生み出し、ひいては返す。


 それは視線の先にある光に向かって歩き出した。


 大人程もある黄色の嬰児の前に、立ち並ぶ家屋。迷いもなく木戸に向かうと、触れるでもなく戸が弾けた。木の破片が放射状に吹き飛び家の中にまき散らされる。音に反応し、飛び出してきた人物がそれの顔を覗いた。驚愕、そして唖然とした表情。それの手が迎えた人物に伸びる。間も無く収穫が始まる・・・・・・



 森を抜け、建物の姿がちらほらと目につき始めると行き交う車の数も増えてきた。やがて視界が開け、奥に青黒い海が姿を現す。そのまま突き当たりまで走り、左右に分かれる道に入る。そうして曇天のせいか人影も薄くまばらな海岸を横目に国道を流してゆく。


 からりとした天気だった去年とは違い、今年は湿り気を含んだ風が、体にまとわりつき、不快感を及ぼす。空はどんよりと曇り、今にも地上に涙を落そうとしている。県境のトンネルを抜けるまでは、澄み渡る青空だったのにと嘆いても、太陽は顔を覗かせてくれなかった。

 あと少し道沿いに走れば予約を取ってある宿につくはずだ。

 するとすぐに立ち並ぶ民家の群れの中に目的の宿看板が見えた。

屋根とサッシの間に申し訳程度の大きさの、かすれた文字を覗かせるその看板は、何度足を運んでも一見では気がつきにくい。

 一目でボロ屋とわかるような有様の宿、けれども私は食事付きて料金が安く、満室になりにくいこの民宿を重宝していた。二段ベッドがニ組置かれた部屋が二つあり、共同浴場もついている。寝泊まりできて体を洗えれば万々歳、その上食事つきならば文句などあるはずがなかった。


 バイクに乗ったまま建物裏の砂利が敷かれた駐車場に向かうと車が二台、既にとめられていた。


 黒いバンと白い軽自動車が一台。


 軽自動車は確かここの主人の車だったはずだ。とすると他に客がいるのかもしれない。私は奥の二輪車用の駐輪場にバイクを移動させる。


 そうしていると示し合わせたように、すぐに民宿の入口、ガラス戸が開き、主人が顔を出す。どうやらバイクの音を聞きつけて迎えてくれたようだ。


「いらっしゃい、今年もよく来たね」


汗にまみれた額、日に焼けた真っ黒な顔、目尻や口元にシワを浮かばせ、苦労を滲ませるごま塩頭の五十絡みの主人がそう出迎えてくれる。この主人とは不思議と縁があって、様々な場所で会うことが多かった。私にはそうした人物が何人か存在する。忘れた頃に見かけられる不思議な縁だ。


「今日はあいにくの天気で良くないね。最野さんが来る日は大抵晴れるんだけど、今年は良くないなあ、そうだ、今回は相部屋になるけど、いいかい?」


少し残念に思ったものの、たまには他の旅人と会話を交わすのも悪くないと思い直し、私は二つ返事で返す。


「ええ、全く問題ないですよ」


「そ、そうかい、いや、普段はこんな事聞いちゃいないんだけど、最野さんの泊まられる日にゃあ、これまで人が入った事が無いからね、天気もそうだが珍しいこともあるもんだ、さ、雨が降る前に早いとこ中に入って」


主人にそう答えられ、そういえばと思い返してみると、確かにこれまでこの宿に泊まった日は、他の客と顔を合わせていなかったと気がついた。入る時も出る時もただ一人として顔を合わせていない、そんなことで宿を続けていけるのだろうかと思いつつも、私はそのまま促されるままに宿の中に入り、部屋へと案内される。

扉を開くと、そこにはあの車の持ち主だろうか、筋肉質で痩せている、妙に筋張った青白い肌の男が、片側のベットに腰掛け、窓の外を眺めていた。


見た目は六十代といったところだろうか、髪は薄く禿頭に近い、半袖のシャツを着たその男は腕や頬、首などに引き攣れのような数多くの古傷を、隠しもせずに覗かせていた。


「ああ、こ、この人は佐嵜さん、佐嵜さん、こちらは最野さん。申し訳ないが今日はこちらでお二人ともお願いします。そ、それじゃあ、夕飯は七時になりますので、その時にまた」


主人はそう言って軽く私と男を引き合わせ、紹介を終わらせるとすぐに引っ込んでしまった。男のその恐ろしい見た目に、私は相部屋で大丈夫だろうかと不安になる。主人もこの男を見た目から想像して恐れているのだろうか。

振り向いた男の顔に日焼けの後はなく、白く短いヒゲが顎をおおっていた。綺麗にヒゲも刈り揃えられているのに妙に不健康な印象を受ける。顔にも白い筋が幾重にも刻まれていた。


「ああ、これはどうも、私、佐嵜と申します。まあ短い間ですが、どうぞよろしく。最野さんだったか、こんな面(つら)で気になるだろうが、別にいかがわしい仕事をしていたわけじゃあない、昔ちょいと事故に遭ってね、それでこの有様なんですわ。別にとって食うわけじゃなし、そんなに気構えなくても大丈夫ですから、第一印象が悪くてね、私も困ってるんです」


男は容姿とは違い、そう言って笑うと気さくに話しかけてくる。なんでもこの人も夏限定でこの宿によく足を運んでいるそうだ。

今まで顔を合わせていなことが少し引っかかる、けれども考えてみれば年に数回、数えるほどしか足を運ばない私とすれ違っていても別段おかしくはないのだろう。

そうだ、いつか重なる日が偶々今日だったに過ぎない。程々に挨拶を済ませると佐嵜さんはボストンバッグからカップ酒を取り出して脇においた。


一つどうです、と勧められたけれど、私はあいにくと酒が苦手なので丁重に断り、お互い当たり障りのない会話を始めた。話を続けるうち、緊張が解きほぐされ、いつの頃からだろうか、会話から滲み出る気遣いから佐嵜さんはどうやら、見た目とは違い本当に無害な人柄らしいとわかる。


何故だか顔の傷を気にしなければどこか懐かしさのような、馴染み深い人物の顔に見えてくる、そんな愛嬌のある顔をしていた。しばらく会話を続けなるほどなあと言う会話の折りに合わせて、丁度窓から潮風が入り、鼻を塩の香りがくすぐった。


つい、もらした「懐かしいな」という呟きが不意に重なった。


そうして二人とも海に馴染みが深い場所に住んでいたとわかると、お互いの故郷についての話に会話が移り変わった。


 「灯篭流しってあるじゃない、盆の最後に灯籠に魂を乗せてあの世に送り返す、まあ送り火みたいなものなんだ、ありゃあなんていうか、しめやかに行われるもので、寂しいんだよな。元々そう言うものなんだがね」


 夏の終わり、バイク一人旅で訪れた海岸沿いの民宿で相部屋になった佐嵜さんが、持参したワンカップの酒で口を湿らせながら、そんな言葉を口にした。


 佐嵜さんもまた私と同じで暇さえあれば遠出する旅の人らしい。彼は車旅行が好きなのだそうだ。外に止められている黒いバンが恐らく佐崎さんの車なのだろう。私は何だか長距離運転で疲れていたので気のない返事で「へえ」と返す。


 「今日は涼しいじゃない、ここの所ずっと暑くてさあ、最近やっと夏の終わりが見えてきた。こういう時期になると、どうしても寂しくてね、あれが思い出される。君の故郷には海があるかい」


 「あ、ええ、ありますよ。私も海沿いの町生まれで海が見えるんですが、何だか日本海側だからか、寒々しい海で、海産物以外には何にも無いところですけどね」


 佐崎さんはその言葉を聞いてうんうんと頷き、舐めていたグラスをぐいと口に傾けた。グラスの中身を半分ほど喉の奥に落とすと、ふうと息を吐く。


 「海は好きだ、こうして仕事の合間を見て一年の内何日かを海辺りで過ごす、何というか、潮騒が聴きたくなるんだ。だがな、最近じゃあ昔ほど海が好きじゃあ無くなってしまった」


 額を擦り、言葉を一区切りすると佐嵜さんは私に目を合わせた。そして頭を振るい、再び口を開く。


 「俺の故郷は、君が想像できない程寂しいところだろうなあ。山と断崖に囲まれた峡谷の合間に僅かばかりの浜がある。そこに小さな集落ができて数十人程度の人達が暮らしているんだ。過疎が進んでなあ、特に名産も、観光地もない場所だから移り住む人もない。一時秘境なんぞと言われて賑わいを見せたこともあったが、あそこの住民は客が落とす金よりも静けさを好む人間ばかりでね。そう、何十年か前に一度、大量の魚が浜に流れ着いた事があった。その変事が一時の賑わいを呼び寄せたんだな。今じゃあ寂しいところだろう」


 今まで気のない返事ばかりしていた私だったが、少しこの話に興味が湧いてきた。旅心がくすぐられると言ったらいいか、私のような擦れた人間は秘境という言葉に弱いのだ。


 「へえ、なんだか良さそうな所ですね。車でも行けるんですか?」


 「行けないことは無いだろう、今じゃあ大概、舗装されているからな。ただ落石なんかが多くてね。数日通行できなくなることもしばしばある、長雨の後なんかじゃあ覚悟が必要だ。そうだな、俺がいた頃には村にここのような民宿があったから、まあ数日ぐらいは泊まれるだろう、だが、俺はおすすめはしないな」


 何故佐嵜さんはそんなことを言うのだろう、自分の故郷じゃないか、そう考えていると彼はそれを察したのか弁明を始めた。


 「いや、故郷が嫌いだとか、人に教えたくない訳じゃあないんだ。ただ、俺ももう何十年もあの場所には帰ってなくてな、今どうなっているのか全く想像つかんのだよ」


 「え、なぜそんなことに?」


 知りたいかい、そう言う佐嵜さんの誘いに釣られ、私は自然に頷いていた。

 

 「俺の村はな、灯篭(とうろう)流しをやっていた。少し前に話しただろう。精霊流しのような派手な行事じゃあない。騒ぐわけでもなくただ粛々と自分達の役割をこなす行事だな。ただ、他の村とは少し勝手が違う。


 なにぶん海しかない村だろう、食料にしろ、仕事にしろ、全て海に頼っていた。狭い浜に荒い波、険しい岩場とくれば住むのはたやすくない。だから村は海からの恩恵に頼っていた。通常灯篭流しは盆に家に帰ってきたご先祖を返す際に、船に故人の好きだったものと、魂を乗せてあの世に返してやる行事だ。


 夕刻に皆で海辺に集まり、火の灯された船を波間に浮かべ、それを見送る。沖に帰る海流が浜にあってな、そこに船を浮かべればあっという間だ。柔らかな明かりは波の向うに消えてゆく、あれがなんだか寂しくてね。波と風の音が弱々しい歌を流しているようで、でもな、俺の村の慣習は少し違ってね、ご先祖を返すだけじゃあなく、海の神さんに礼を返す意味もあったんだな。だから食べ物にはご先祖の好きなものだけじゃあなくて山のものも乗せた。海じゃあ取れない物を、な。


 丁度片手で一抱えほどの船に乗せるんだ、芋やらなすやらを。これが受け入れられなきゃあ来年は海が荒れると言うので誰もが険しい目つきでね、何というか、厳かな雰囲気すら感じられる。けれどな不思議と海原に船が揃って出てゆく姿を見ると、なんだか言葉にしにくいような寂しさが漂い始めるんだ」


 話を聞いていると佐嵜さんの言葉がばかに現実的に聞こえ、その風景が目の裏に浮かぶようだった。


 「でもなあ、その行事には一つ禁忌があったんだ。灯篭流しをした日には、けして深夜に浜に出向いてはいけない、という禁じだな。送った魂が戻ってきてしまうからなんだそうだ。俺はね、その村を出る前にその禁忌を破った。正直な話、あまり信じちゃいなかったんだ。幼い頃も何度か破ろうとして死ぬ程殴られたもんだが、その年は少し事情が違って」


 思い出を頭の中から引き出すのが苦しいのか、険しい眼差しを天井に向け、不意に佐嵜さんはそこまで話して言葉を止めた。


 「それで、何が起きたんですか」


私がしびれを切らしてそう聞くと、彼は腕時計に目を落として、そろそろ食事だろう、続きはまた後にしようじゃないかと話を落とした。見れば話に夢中でいたために時間が随分と経ってしまったようで窓の外には暗闇が落ちていた。


すぐに主人が「そろそろ食事にしましょう」と私達二人に声をかけに現れる。


 私達は宿の入口横にある食堂の卓につくと新鮮な魚が豊富に使われた料理に舌鼓を打った。毎年味わう料理なのに飽きがこない。いつだったか主人になんの魚を使っているのかと訪ねたことがあるが、彼はそれをどうしても教えてくれなかった。今年の彼はやけに無口で、私の顔と佐嵜さんの顔を眺めていた。


 料理を食べ終わると佐嵜さんが私に海を見に行かないかと誘った。この宿から五分ほど歩けば浜がある。私も過去何度か足を運んだことのある浜だ。数メートル程で深くなる浜は海水浴向きでなく、荒々しい波風漂う浜は閑散としていた覚えがあった。そんな場になんの用があるのだろうかと考えていると。佐嵜さんはその場所で続きを話したいと言った。


 宿の主人は一瞬物言いたげに私の顔を見たがやがてそれを飲み込んで、夜遅くなると危ないですから、そこそこで切り上げてください、とだけ言い残し、食堂奥へと引っ込んだ。


 私と佐嵜さんが宿から外に出ると、厚い雲が薄く引き伸ばされたように、僅かに空にその切れ端姿を残すばかりとなっていた。歩きながら彼は話す。


 「あの年は天候が荒れてね、大風が吹いた際に私の妹が川に落ちた。丁度隣町に買出しに行って帰る途中だったんだ。狭い道でタイヤを道から外し、立ち往生している車を助けようとして、逆に風に吹かれて傾斜を落下したんだ。あっという間だったらしい、妹は濁流に呑まれて海に運ばれ、亡骸すら上がらなかった。俺はそんなことは知らずに引き上げた網のほつれを小屋で直していたんだ。全ては聞いた話だった」


 重苦しい声音で彼がそう告げる。話のつながりがまだ見えてこなかった。やがて海が見えてくる、静かに打ち寄せる波の音が鼓膜を揺さぶった。


 「戻ると思ったんだよ、俺の妹が戻ると。あの日の夜、俺は密かに家を出て浜を覗いていた、丁度こんな夜だった。俺以外の姿は見えず、周りの家々は堅く扉を閉ざしていた。でもな、一つおかしなことがあった。


 浜に小舟が置かれていたんだ、あれはなんだと訝しんでいたら人の気配がし始めた。俺は影に身を隠すと静かに成り行きを見守っていた。するとどうだ、村長の家の戸口が開いて数人が明かりを片手に小舟を押し出した。松明の灯された船はあっという間に沖へと流されていったよ。その際に耳を澄ませてね、俺は声を聞いたんだ。わかるかい、その時の俺の気持ちが」


 何故そんな問いかけをするのか、私にはわからなかった。その問いかけに何か意味があるのだろうか。


 「妹の声だったんだよ、それは妹の声だった。俺は連中が引き返して見えなくなるとすぐに駆け出した。けどな、もう遅かった。小舟は渦に飲み込まれて何一つ残らなかった。だから俺は復讐することにしたんだ」


 彼の目は悲しそうで、それでいて海を映し、青く燃え滾っていた。私は恐ろしくなり後ずさりしてしまう。


 「まあ、待ってくれ。もう少し付き合ってくれればいい、話を聞くだけだ」


 そう言って佐嵜さんは私の腕を握り、離そうとしない。抵抗は出来るのだが、何故か私はそこから動けなかった。最後まで聞きたかったのか、それとも単純に恐ろしさで身が強ばってしまったのかわからないままに。


 「俺はそれから一年、ずっと村の様子を探ってきた。そしてあの夜見かけた内の一人を金で懐柔して全てを話させた。聞けば毎年、人間を小舟に乗せて流しているらしいというじゃないか。誰かが亡くなればその死体を流せばいい、けれど数年に一度、生きた人間、それも女を流さなければならないしきたりだったらしい。今の時代じゃ信じられんことだよな、でもなあ、戦後すぐのあの頃、公然とは言わないが、あの村じゃあそれが当たり前だった。


 そうしなければ神さんの怒りに触れると、馬鹿馬鹿しくて俺は怒りを抑えるのに必死だった、そいつは俺の目の前で妹が流されたことを知らなかったからな。生きた人間は大概別の場所から攫ってきたそうだが、何故か前の年は妹が選ばれた。理由は知っている、俺の妹が村を出ようとしたからだ。だから俺はその年、沖に予め小舟を用意して置き、連中が姿を消してから流された小舟を塞き止めた。そして浜に戻ろうとしたんだ。


 だが、波が止まり、海面が凍りついたように静まるのを見て、俺は動けなくなった。そうしているうちに水面が回転し始めた。水が逆巻いて渦が広がっていた、海に巨大な穴が生まれていく、その穴その奥から何かに覗かれた気がした。いいや、間違いなく何かが居た、俺は気が付いたら海に向かって駆けていた、とりつかれたように海の上を走ろうとした。


 馬鹿な考えだと思うだろう、今でもわからん、勝手に体が動いた、惹きこまれたんだ。結局の所水面を走れるわけがなく、俺は落ちてしまい、渦に飲まれた。視界が砕けて体が切り刻まれた、渦の中を必死に泳ぎ、もがいていたら、渦の中に妹の姿が見えたんだ。あの真っ黄色の水の渦、その中で妹の姿を。


 俺は逆に渦に身を任せてその妹の体に触れた、流されるままの妹の足に取り付いてそれを抱えて離さなかった。何かが千切れる音が聞こえ、同時に意識が暗闇に引っ張られた。あれは、あれは言葉にならない。焼き付いたんだ、俺の頭に妹の最期の一日の記憶が、その日村の人間に何をされたかを。


 気がつけば俺は浜に打ち上げられていた。体中が血まみれで傷だらけだった。傍らに妹がいた、幼い姿の妹が。だが、そいつは本物じゃあなかった。村中の家が襲われていた、一瞬だ、一瞬だった。あの渦は海面だけに現れるわけじゃあ無かった。その幼い小さな手で扉を突き破り、口からあの渦を生み出して人間を飲み込んだ。


 あれは罰ってわけだ。俺はおかしくて笑ったよ。こんな結末を予感していたわけじゃあないが、結果的に俺の願いは叶ったんだ。最後に俺も飲み込んでくれりゃあ良かったんだ」


 私は余りに突飛な話にばかばかしくなって笑ってしまった。恐ろしさからではなく、心底可笑しさがこみ上げてきた。


 「その日、何人か村を離れてたんだ。夜の間に隣町まで出かけていてね。そいつはひとまず村に俺以外の人間が居なくなったとわかると動かなくなった。


 今更だけどな、俺もそのしきたりを知らなかったわけじゃあない。これまでずっと黙って見てきた。拐うのも、遺体を流すのも役が決まっていた。俺はずっと断ってきたんだ、古い因習なぞ馬鹿馬鹿しいと。でもなあ、止めもしなかった。同罪だよ、だから、俺はあの時妹の姿をしたお前に全てを委ねようと思った。


 しかし、お前は俺の頭に触れただけだった。再び映像が流れ込み、膨大な向こうの世界の情報が頭の中に押し寄せてきた。黄の襞(ひだ)、捻れ、うずたかく積もり翔く羽衣。重なり合う羽虫の羽音、それに合わせて流される嬌声、割るように痛む頭を抱え、俺はそのまま意識を失った。


 気を取り戻してみれば俺は病院だった。大量に流れ着いた魚の群れに沈み込むようにして、俺は気絶していたのだと看護人が教えてくれた。


 そうだ、あの日集落がひとつ消えたんだ。暫くして幼い妹の姿をしたそいつは孤児として引き取られたと聞いた。探し続けたが、結局見つけられなかった」


 得体のしれない可笑しさが私の中で爆発していた。この笑いが抑えきれない。


 「お前だよ」


 言われたことが一瞬理解できなくて、時間をおいて笑いを止める。


 「お前なんだ、成長した姿が妹と同じで暫く直視出来なかった。お前は全て忘れちまったみたいだが、無意識で追い掛け回していたみたいだな。沢山ある中でどうしてあの民宿に泊まりたくなったんだ? 


 目につかない、あんなにわかりにくい場所だ。なのになぜ、俺は数年前にあいつを見つけてからずっと待ち構えていたんだ、あの村の生き残りを探して偶然見かけ、やっと見つけたのがあの宿の主人だった。あの親爺に、俺があの夜に逃げろといったんだ。当時は何も知らない友人だと思っていたから、何が起こるかわからないから逃げたほうがいいと。あいつは村から数人を連れ出して逃げた。


 だが、最近あいつが俺を裏切っていたのだと知った。あいつは俺に、お前が来たことをずっと黙っていて合わないように宿泊日を避けていた。もう耐えられなくなったそうだ、夢を見るんだと、お前に飲み込まれる夢を毎日毎日、疲れたんだと言った。


 そして、あの夜に妹を何人かと一緒に拐ったのだと告白した。流す前にあまつさえ数人で犯したとさえも、俺は殺してやろうかと思ったよ。だが、耐えた。それじゃあ妹がうかばれない。あいつだけじゃないんだ、一緒にいたろくでなしはあいつだけじゃあ。逃げた全員殺さなければ気が済まない。


 あの親爺、河豚の肝やらを食事に混ぜてお前に食べさせたりしたらしいが、お前はなんともなかったそうだ。そして一人でずっと殺されるのを怖がっていた、おかしいだろう、まだ終わってない、お前が終わらせるんだよ」


 私はまたこみあげてくる笑いを止められなかった。ああ、この男は何を言っているのか、なんて愚かなんだろう。


 「今更それが何だっていうんですか、あなたは私があなたの妹だったらなんだっていうんです、何も救われないでしょう、それともあなたが救われるんですか」


 「そうだ、お前が生きているだけで少なくとも俺の心は救われる、生き残った甲斐がある、わかるだろう、さあ、思い出してくれ、俺のことを」


 「なんて、おかしい、私はあなたの妹などではありませんよ。こちらに来てから楽しくて、楽しくて、ついつい楽しみすぎました。あなたは言ったじゃないですか、何かが千切れた音がしたって。あなたが掴んだのは手でしたか、それとも足でしたか、あの時あなたがしがみついていたのは、下半身でしょう、千切れた下半身。私はそれに乗ったに過ぎない、あなたが半分持ち帰ったから、約束は破られ、私はこちらにこれた。とても楽しめました、あなたのお陰です、だからあなたを最後にしようと考えました。でも、もう充分。あちらに戻る前に、送り残しを無いようにしないと。そういう約束でしたから、だからあの村の皆さんはきっちり送らせて頂きます、あなたは最後まで泳ぐと良い、私はあなたを最後と決めていましたから」


 そう言って私は青い顔のまま膝を落とす男を残し、海辺を後にして、宿に向かう。ドアを突き破り、宿の主人を探し出し、彼を目にすると立ち止まる。ああ、今日はなんて良い日だろうか。彼が私を探し出してくれた、待ちに待った楽しみの日がついに訪れた。


 ああ、なんて最高な日。あの村で何者にも認められなかった私を、唯一認めてくれたあの存在のために、私は私の半身が残る向こうに、私が味わった絶望と共に彼らを送り届けなければならない。私は喜びを感じていた、私と私でない存在がやっと一つになった気がした。


 驚愕する男を目の前に私の顔は左右に割れていく、その間に潮が生まれた、赤い赤い、潮の中に渦が生まれて、男の妹の声が聞こえる。


 羽音が響き、渦から手が伸びる。驚愕の表情が一瞬で歪んだ。強烈な吸引力に抗えず、体が軋み、ぼきごきと音をたてて捻れ、人間が巻き付く腕をそのままにして渦に吸い込まれて消えた。



 大漁を約束するために交わされた契約が果たされなかったあの日、私に混じり合うあの存在は収穫を決めた。視界の中全て、浜周辺の建物を端から破り、私の中に村人を吸い込んだ。一人、また一人と進める内に私の心は満たされていった。逃げようとする者がいれば、私は歌った。喉から迸(ほとばし)る音の本流は村人を惚けさせ、簡単に動きを抑えられた。誰もが家に篭もり、何があっても外に出ようとしなかった。彼らはただ、私に刈り取られるのを待っているようだった。


 宿の主人を片づけて海辺に戻ると、男は海を指さして笑っていた。滂沱の様に流れる涙をそのままに男は海にできた渦を見て笑っている。煌々と輝く月の下、渦の底から体を乗り出したのは半身が魚の私だ。その後ろにはあの日送り出した村人達が、満面の笑顔を浮かべ、あの日のままの姿でしがみ付いていた。

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