ライトオンザサーカス

徳乃

第1話

 口の中が何ヶ所か切れているのだろう、口の中は新鮮な血液で溜まっている。血液のジュースを飲み込むと自分が生きていることを実感できた。しかし、同時に虚しさが湧いてくるのはなぜだろう。

 音村聡はただねずみ色の冷たい地面の上に座っていて、三人の自分と同い年ぐらいの少年に囲まれて見下されている。

 きっと本気を出せば勝てるだろう。しかし俺の拳は握ることなく地面に力なく倒れていた。

 立つのも面倒でただただ座り込んでいるのだが、これは相手にとって蹴りやすく俺から反撃もされない可能性が高いので相手にとって有利である。

 何も手を出そうとしない俺は大して強くもない蹴りをみぞおちにくらう。普段なら痛みに耐えられるのだが、今は力が入らないため、痛みと気持ち悪さが迫ってきた。とりあえず吐き気がしたので、その辺の地面に胃の内容物を吐き捨てる。

 「汚ぇなぁ」と誰かが言う。お前らのせいだろ、と言わない代わりにそいつの顔を睨み付けた。

 「なに睨んでんだよ」

 堅くまだ革の匂いがするローファで頬を蹴られた。クソ坊ちゃん野郎が何言ってるんだが、と思いながら蹴られた勢いで上半身が倒れる。

 「こいつ、睨み付けるだけ睨み付けておいて弱いじゃねぇか。しょうもねぇ」

 軽く耳障りな笑い声が聞こえる。無抵抗な相手に暴力をふるってるお前らのほうがしょうもない気がしてならない。

 しかしそんなことどうでもよかった。俺はただ何もしたくなかったんだ。

 人を殴れば殴るほどに自分に跳ね返ってくるのではないか、殴っても俺にとって良いことなんてあるのだろうか、殴ったら誰かが悲しむのではないだろうか。

 今の状況から助けて欲しい、なんて俺が言うことは出来ない。しかし本当助けて欲しいんだ。この世界を恨むだけ恨んで、誰かに暴力を振るい、狭い箱の中で飼われるなんてもう嫌なんだ。

 こいつらのような、勉強ができて、お金もあって、暴力を振るっても人生に影響がないようなクズ野郎に殴られるのは、俺が償う罪なのかもしれないと思う反面、こいつらから俺をすくって欲しいという気持ちもあった。

 神も信じていないし誰も信じていない。信じられるのは己自身だし、今まで神に頼ったこともない。

 そんな俺が初めて神に祈った。

 俺を助けてくれ。パンチやキックが痛いからじゃない、無力な自分を助けてくれ。

 何もない空の上に、祈るように俺は目を閉じた。

 「お前らなにしてんの」

 瞼の向こう側から甲高い声が聞こえ、鼻をかすめる甘い香りがした。俺は咄嗟に目を開ける。坊ちゃんたちの視線は俺から声がした方向へと向いた。

 俺自身もつられて声の元を探る。すると、誰もいなかったはずの路地裏には一人の女がいた。ジーパンにTシャツで革ジャンを羽織いスリッポンを履いている。髪の毛は茶髪でメイクもしっかりして、香水なんてつけているので格好や見た目からして大学生だろう。

 甲高い声なのは女だからか、と納得する。しかし女がこんなところへでしゃばっても何もできることはない。

 喧嘩もできないくせに、きっと見るに見かねて声をかけたのかもしれない。だが俺には女神だと確信した。

 彼女は、血だらけの俺と彼女を睨み付ける坊ちゃんたちに対して恐れをなしてない。この状況を見ても自分が優位の立場だと思っているのだろうか。

 彼女は坊ちゃんたちを睨みつけている。すると坊ちゃんたちはケタケタを笑いだした。

 「お前みたいなすぐ人に対して注意するやつ、よくクラス学級委員長でいたなぁ」

 「今日もその役目を果たしにきたのか?ご苦労ご苦労」

 「どうせ最後には泣きついて先生に言いつけるんだろ?ま、そんな先生なんてここにはいねぇけど」

 彼女は何も言わない。彼らの挑発には一つも心に届いていないようだ。

 坊ちゃん達には目もくれず俺を見た。そしてにっこり微笑み「悪いけど、全部お前のせいにするね」

 俺のせい?何が?

 彼女の言ったことの意味が分かったのはその数分後だった。

 彼女は俺に微笑んだあと、すぐに右足を蹴り手前にいた坊ちゃん目がけて左手を繰り出した。

 素早すぎる行動に呆気に取られる。彼女のジャブは見事彼の顎に命中し、その場で目をうろつかせて倒れた。

 残りの二人が何か言う前に彼女は倒れた彼を踏み、蹴り飛ばして道を作る。そしてまた左手で一人の顎を殴り、膝を落とした彼を乗り越え、思いっきり腰をひねり右手で最後の一人の顎を思いっきり殴った。

 一瞬で彼ら三人はその場で倒れて意識朦朧したまま言葉も発せられずにゆらゆらしている。彼女はその隙に彼らのバッグを探り始めた。

 俺は彼女が何をしたのか、今何をしているのか分からなかった。よくいる女子大生が一回り体が大きい彼ら三人を瞬殺したことが信じられなかった。

 「ようし、これで三人ともゲット」

 嬉しそうにしている彼女の手には三人分の生徒手帳が握られていた。そして俺の目の前に自慢しているかのように見せびらかす。

 「へへっ」

 彼女は宝石をゲットした海賊のように笑った。そして俺も彼女につられて力なく笑った。

 神に願った、俺を助けてくれと。そして女神が舞い降りた、はずだった。

 俺の目の前でニコニコしている彼女は女神ではなく、魔女のように見えた。

 彼女はすかさず生徒手帳をハンドバッグの中にしまい込み、俺の手を引き上げる。

 するとサイレンの音がだんだんと近付いてきた。彼女は自分の腕を俺の腰に回す。

 俺は心臓がドクンと鳴った。女子大生に抱きしめられるのは人生で初めてであった。

 「いい?理不尽な喧嘩に巻き込まれたわたしをお前が助けたってストーリーだからね」

 「…生徒手帳なんか奪って、どうするつもりなんだよ」

 俺は初めて言葉を発した。しかし彼女は微笑むだけで俺の質問には答えてくれなかった。

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ライトオンザサーカス 徳乃 @tokuno0202

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