魔人譚 溝鼠の孤独

クロイワケ

第1話 溝鼠の魔術

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 コルゴス歴421年ミルスの月(*旧暦の5月)、穏やかな季節の始まりのことである。


 陽が落ちて、暗くなった石造りの塔の最上階に、三人の男が立ち尽くしていた。彼らはみな、一様にうなだれ、もごもごと口の中で怪しげな呪いを唱えている。三人はみな、向かい合うような位置にあり、中心には水晶の玉が置かれていた。


 頼りない蝋燭の灯りだけが唯一の光源であるように思われるのだが、どうしたことか部屋の中はまるで昼間のように明るく照らされていた。それは、魔術師たちの怪しげな魔力によるものであるのであろう。だからなのか、彼らの姿は何故か芯を捉える事ができない。


 男たちのうち一人だけ年老いた風体のものが、呪いをやめ顔を上げた。年齢は、50を過ぎたころであろうか。脈々と刻まれた深い皺に、白々とした毛髪。それだけをみると、有り触れた高齢の老人のようにしか見えない。

 ただ、眼が違っていた。


 青く、爛々と光るその眼には、一転の曇りも見当たらない。万物の理のうち、間違いなく何か一つを極めたもの特有の、抑えきれない魂の炎が見え隠れするようであった。


 老人は、枯れ枝のような手を、対する二人にむけてそっとさしだした。

 それを見た二人も、ゆっくりと顔を上げる。


 その顔は意外に若い。まだ15いや16といったところか。少年と青年のハザマに位置するような、危うい時期の子供たちである。


彼らは、この老人を師と慕う魔術師の見習いであった。つまり、老人は魔術師であり、今はその秘匿とされる何とやらを、二人の若き弟子に伝えんとする、その最中であった。


 「わかるか」


 老人は、言葉少なくつぶやいた。

 弟子たちは声を上げず、ただうなづく。


 「名を『溝鼠どぶねずみ』という。下水を這い回る、哀れな連中から名づけられた魔術だ」

 「それは比喩でしょうか。それとも実際の鼠を指しているのでしょうか」


 どこか軽やかに、若者の一人が師に尋ねた。若々しく、輝くような金髪が目立つ弟子である。自信に満ちた顔つきで、はつらつと話すこの若者は、どうも師に対する恐れというものは無いようであった。


 老人は、それには答えず二人に向けていた手を、そっと下ろした。


 「師よ。この魔術はどのような威力を持つのでしょうか」


 先ほど軽口をたたいた若者とは異なる弟子が、師に尋ねた。この地方では珍しい、黒髪をした若者である。うって変わって、頼りなさけな、細々とした声であった。しかし、妙に耳に残る、独特の声色をしている。


 今度は老人も、質問をした弟子に目線をむけ返事をした。

 ただしそれは答えではなく、質問であった。 


 「さて。貴様はどのような効能であると推察する」

 「……私には分かりかねます。どのような変化も起こったように思えません」


 少し考えた後、やはり黒髪の弟子は首を横にふった。

 老人は、その反応を分かっていたように、何もいうことなくもう一人の金髪の弟子に向き直った。


 「では、お前はどうだ」

 「はて。どうにもこうにも。尾も生えてはいないようですし、髭も変わりません。わたしにもなにがなにやら」


 相も変らぬ軽口で、金髪の弟子も首を横に振る。

 その様子をみて、なぜか老人は満足そうにうなづいた。


 「しかし、貴様らともに、『溝鼠』を使っておるではないか。実に見事なものだ。儂が、弟子として魔術を開いたのは貴様らが初めてではあるが、それでもこれまでに多くの魔術師を見てきた。どのような優れた者たちも、一度で『溝鼠』を使ったという話は聞いた事がない」


 それは、二人の弟子からすれば聞き違いかと疑いたくなるような、師からの賞賛の言葉であった。見た目どおり、いわおのように厳かなこの師は、二人がどれだけ見事な魔術を披露しても、「良し」の一言さえつぶやいた事がなかったのである。


 「ありがとうございます。しかし、師よ。どうして、私たちが魔術に成功していると分かったのですか?」

 「うむ。もっともな疑問である」


 金髪の弟子にうなづいて、老人は黒髪の少年に向き直った。


 「では一つの秘鑰ひやくを授けよう。貴様は、我が名を明かせるか」

 「師の名前でありますか」

 「左様。儂の名前である。ここで申してみよ」


 古い黒魔術では、真名とは決して明かしてはならぬものとされていた。しかし、昨今の魔術革命によって、真名はわざわざ明かすような真似こそしないものの、敵に伝わった所でなんら効果のないものになってしまっていた。


 しかし、そこは伝統を重んじる魔術の本家である。効果があろうがなかろうが、その名を軽々しく他人に教える事は良しとされていない。二人の弟子が、正式に師の名前を拝聴したのも、わずかに数年ほど前の事であった。


 だからこそ、この防聴の魔術も加護も用意していないこの場で、師の名前を読み上げる事に、一瞬躊躇したわけである。少なくとも、黒髪の弟子はそう考えていた。しかし。


 「師の名は……。師は。……そんな、莫迦な」

 「何をしているこのウツケものめ。自分の師の名前すら覚えられんのか」


 戸惑う様子の黒髪の弟子へ、金髪が怒号を上げる。老人はその様子を、うっすら笑みを浮かべて見守っているだけだ。


 「申し訳ありません、師よ。忘れたわけではないのです。忘れたというよりも……そう、まるではじめからなかったかのような」

 「とうとう頭がいかれたか。魔術の師の、名がなかったはずがないであろう。ましてや、名を拝聴した場には私もおったわ」

 「では、お前は答えられるかね」


 黒髪の弟子は、とんでもない失態をしてしまったと師の顔を仰ぎ見る。だがその表情は、どう見ても悪戯を企てた、童のそれでしかないように見えた。


 「当然です。我が師のご尊名は……いや、これは。な、なぜだ」


 そして、とうとう金髪の弟子もまた自らの師の名前を答える事はかなわなかった。

 なんということだろう。若かりし二人の弟子が、そろって同時に師の名前を喪失してしまったというのである。いや、無論そんなことはありえない。すなわち、これが魔術「溝鼠」であった。


 「名を忘れさせる魔術ですか」


 狼狽しながらも、金髪が師に尋ねる。


 「一側面として、それも正解である。しかし、全貌ではない」

 「それでは、もしや。我々そのものの存在、それ自体が薄れているというのでしょうか」

 「そのとおりだ」


 黒髪の弟子の言葉に、老人は満足げに頷いた。


 「貴様らは、溝を行く鼠の区別がつくかね? やつらはみな、一様に汚く、汚泥にまみれ、その体色すら分からぬ。ましてや、区別をつける必要すら感じ得ない。もって、この魔術は溝鼠と名づけられた。その権能は、自らを、まさしく溝鼠へと貶めるものである」

 「なんという。名を思い出せないのも、その一つというわけですか」

 「うむ。儂も貴様らの名が、ついぞ思い当たらぬ。まだ呆けるには些か早いとは思うのだがな」


 老人は、惚けた声色で二人に笑いかける。


「どうも二人とも見事な魔術であった。『溝鼠』は、物陰で使えばその姿を目に映すも難く、走り去ろうと音一つ気にも留めなくなるであろう。暗がりの魔術なのだ」

「暗がりの魔術。通りで……」

「クラゥマ(*当時の暗殺者。その蔑称)の連中にうってつけの魔術と言えますな。小汚く屍を漁る彼奴らに相応しい」


 2人の弟子は、今自らが学んだ魔術に、それぞれ思いを馳せた。暗がりの魔術は、かつての黒魔術に繋がる、忌避すべき魔術とされていた。故に、師が使った事が2人の弟子には衝撃であったのだ。


「だが、魔術とは。そもそも明るみのわざでは無い。光の道を、歩んで来たものでは無いのだ。とは言え、十把一絡げに扱って良いものでも無い。分別をつけることだ。必要な暗がりを、時として用いる事が、真の魔術師としての、在り方である。そして、真なる魔術師の研鑽が導く果てに、我が永遠の願いが、魔人へと至る道が、あるのだ」


 老人は、一息に言い切った。軽口を叩いていた弟子も、怯えていた弟子も、ただただ押し黙って、師の言葉を待つ。老人は、手元に置いてあった水差しから、少量の水を宙に浮かせ、ゆっくりと飲み干した。大きく息を吸い、そして吐き出す。そうしてから、漸く2人の弟子に目をやった。


「さて、儂の名前が言えるかな」

「「……はっ。師、デフルド様」」


 すでに、魔術は消えていた。2人の弟子も、それに合わせて、暗がりの魔力を霧散させる。途端に、魔力の発光が失われ、仄暗い蝋燭の灯りのみとなる。暗くなったはずの部屋で、しかし彼らの姿は先ほどよりもはっきりとそのカタチを露わにした。


3人は、深い紺色のローブを羽織っていた。老人のものが最も古く、金髪のものが最も新しかった。黒髪の弟子は、背丈以上に幼い顔立ちをしていた。目は丸く、肌は白い。金髪の弟子は、年相応の幼さと、大人になりつつある危うさをその表情に含んでいるようであった。目は鋭く、鷹を思わせる。


 デフルドと呼ばれた老人は、始めに金髪の弟子を見て、次に黒髪の弟子をその眼におさめた。そして、それぞれ2人の弟子の名前をゆっくりと読み上げた。


「ガルド」

「はっ!」


 意気揚々と、金髪の弟子が師の問いかけに応える。


「マハク」

「はっ」


 静かに、それでも力強く、黒髪の弟子は頷く。


「これが、儂が授ける最後の魔術である。では、今日より7日後に試練を与える。それが、魔術師としての始まりの扉であると知れ」


 その言葉に、2人の弟子は片膝をつき頭を垂れた。デフルドは、なにを言うわけでもなく、そのまま踵を返し、部屋を退出した。扉が閉まり、古くなった木製の階段を、師が降りていく音が聞こえなくなるまで、2人の弟子はじっと佇んでいた。


「……これで、お前と共に過ごすのも、残りフリフルの時(*1週間の意。リンフの寓話より)となったわけだ。さて、そう思うと多少の空虚さも生まれるというものよ」

「お戯れを」


 沈黙を破ったのは、金髪の弟子、ガルドであった。片膝立ちをやめ、背を伸ばし窮屈だった空気を払いのけるように体を弛緩させていた。


 対する黒髪の弟子、マハクは従者としての様態を続けたままである。それは、2人の関係性を表し、そして、ガルドのある種の自信へとつながっていた。


 彼らの魔術師の系統は、コールンの国、キリギスに端を発している。低く見積もっても、800年の歴史がある大魔術の系譜だ。そんな彼らの修行は、かねてより些か特殊なものであった。端的にいうならば、それは蠱毒にも似た修行方である。


 1人の師に2人の弟子がつく。弟子はそれぞれ、共に研鑽し合う仲というよりも、競い合い奪い合う相手として常に師によって裁定され続ける。そして、魔術師としての一歩を踏み出さんとするその日に、どちらか一方は切り捨てられ、もう一方だけが、真なる魔術の継承が許されるのだ。


 そして、今代の弟子において、常に優秀なのはガルドの方であった。魔力量も、術式展開も、ガルドが常に一歩先んじている。さらにもう一点、ガルドが師に選ばれるであろう正式な理由が存在する。


「ふん。いつまでそのような仮面をかぶっておるのだ。我が師に、いや、我が父に取りいり、その生き血を啜るような寄生虫としての、本領を、はてさて、どこで見せてくれるのやら」

「私は。愚かなるマハクは、今日まで生かしてもらった恩義、それのみに応えたいとばかり考えております。私には大それた望みなど御座いませぬ。まして魔人ならざらんにも」


 ガルドは、師デフルドが歳を召してから生まれた直系の息子であった。幾人もの妻を迎えたデフルドが、ようやく授かった胤である。彼に、自らの魔術のあらゆるを伝えたいと考えることに不思議はない。

 対して、マハクはどこぞのものとも分からぬ戦争孤児の養子であった。競い合い育てる修行のために拾われたマハクは、心の底よりその恩義にのみ応えることを最上としていたのであった。


 それは、ガルドに伝わらなかったが。


「魔人。父ですら、未だならぬその超越を。おいおい、ずいぶんな口ぶりではないか。俺はお前のそういうところが、気にくわないのだ」

「申し訳ありません」

「荷物は、とくまとめよ。また、修練所はよく掃除するように」


ガルドもまた、デフルドと同様に、退出するまで一度たりとも振り返らなかった。そして、等しくマハクは、ガルドの足音が遠ざかり聞こえなくなるその時まで、ついぞ頭をあげることはなかった。


濁った黒刻石を丹念に磨いて造られた、そびえ立つ魔術師の塔にも、漸く夜が訪れた。

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