先輩と僕

春屋りすも

先輩とハンカチ


その日、僕は焦っていた。


週が明けた月曜日の朝。

いつもより三十分以上早い電車に駆け込む。


この時間帯の電車は僕の読み通り空いていて難なく座ることが出来た。



「これで移動時間を活かせる」



席に座ると同時にカバンから数学のテキストを取り出す。


今日の朝礼時に提出の週末課題である。


この期限に遅れてしまうと如何に正当な理由があろうとその日は部活動に参加することが出来なくなる。

結構真面目なバスケットボール部に所属している僕はかなり困ることになるのだ。


過去にこっそり部活に出た命知らずがいたが、学年主任が直々に顧問の元に部活へ参加させないよう頼みに行き、結果その生徒は顧問からもこっぴどく叱られるハメになった。


とにかく、僕が通っている高校はそこそこの進学校(笑)なだけあって色々とかなり厳しいのだ。もう本当、課題の量とかマジで頭おかしい……。


静かな駆動音でゆっくりと電車が加速を始める。



駅まで走ったのが悪かった。

額から滝のように汗が吹き出してくる。


まだ四月なのに車内はサウナのごとき蒸し暑さで、シャツの下に着たタンクトップが背中に張りついてくる。

真夏の方がクーラーがガンガンにかかっている分、確実に今より涼しくて快適だ。



汗が首筋にまで流れてきてとても気持ち悪いが、それに構っている暇はない。


僕はひたすらに答えを写し続けた。


ただ写すだけではバレる――先生がいちいち細かくチェックしている――ので、少しだけ式変形を飛ばしたり日本語の言い回しを変えたりしている。

この作業に意外と時間が掛かる。


「あー、答え写しちゃってるー」


「は?」


かなり切羽詰まっていた僕は向かいの席からの突然の声に頭の悪そうな反応を示してしまった。


顔を上げると僕が一方的に良く知る、というか校内で知らない人はいないであろう一人の女子生徒が僕の向かいの席に座っていた。


松本まつもと……佑佳ゆか……」

驚きのあまり声を漏らしてしまう。


肩にかかるほどの位置で柔らかく外にはねた特徴的な黒髪。それとは対照的に白磁のように透き通った白い肌。


スッキリと均整のとれた顔立ちに、大きな瞳。


そう。彼女は僕の通う高校の生徒会長であり、美人と有名な松本まつもと佑佳ゆかだった。


え、これなんて清涼飲料水のCM?と言ってしまいそうなほど清らかな美少女が僕にジト目を向けている。


「松本でしょ?」


テキストから学年を割り出した先輩が僕の言葉をにこやかに正す。


「す、すいません。松本先輩」


「うん。よろしい」


まさか見られているとは。しかもよりによって生徒会長に……


もう遅いと自分でも分かっているのに反射的に答えの載っているテキストを閉じてしまう。

「もう。写してちゃ君のためにならないよ?」

少し低めの落ち着いた声で先輩が語りかけてくれる。

集会などで聞き慣れた、一音をはっきりと発音するような優しい話し方だ。


顔を上げると先輩が困った顔をして僕を見ている。

すっげー可愛い!もっと叱って!もっと!…………ってそうじゃねぇだろ。


もう暑いやら緊張するやらで全然頭が回ってくれない。


「昨日ソファーで寝ちゃって……部活は休みたくなくて……」


僕は正直に白状する。


「私も放送部に入ってるから気持ちは分かる。でも、課題は自分の力でやらなきゃ意味がないでしょう?」


噛んで含めるような口調で先輩が話す。


そうだった。今思い出した。

先輩は放送部のコンクールで入賞とかしてるすごい人だった。文武両道を地で行く人だった。部活を言い訳に出来るわけがなかった……。万策尽きた。


先生から同じ事を言われた所で無視していただろう。


でも、先輩が赤の他人である僕に注意してくれたことが嬉しくて僕はそれに報いたかった。


「分かりました。課題は自力でやります」


「そうね」


先輩がニッコリと微笑む。

思わず目をそらしてしまった。うん、可愛すぎるとしか言えない。なんだこれ、語彙が奪われている!


「よし。じゃあほら、その汗拭いて。もうすぐ駅着いちゃうから」


「えっ?」

もう着くの?と窓の外を見ると電車は川に掛かる橋を渡る所だった。


この橋を渡り終えると電車は減速に入る。


僕が窓を見ている内に先輩はポケットから何かを取り出した。

先輩の手にはピンク色のハンカチ。


「はい。これ」

いやいやこんなの汚せるわけねぇ……というか、これ他の生徒に見られてたらガチであとで刺されそう。いや、今は幸い誰もいないけど。


「じ、自分のあるんで大丈夫ですから!」

と自分のタオルを出そうとカバンに手をかける。

しかし、

「だからもう降りなきゃでしょ?もう……」

先輩のハンカチが僕の首の汗をやや強引に拭う。


「ちょっ、と、まって……」


柔らかいく暖かい生地の感触が首を滑っていく。


「ひゃっ……」


「はい、拭けた」


「…………」


放心状態の僕に構わず電車は減速を始め、やがて完全に停車した。


プシューと音を立て扉が開く。


それじゃあね。と言って電車から降りる先輩。


「先輩!」

このままではダメだ。直感でそう思った僕は勢いで先輩を呼び止めていた。



ん?と振り返る先輩。

ホームには僅かだが内の学校の生徒もいた。

「そのハンカチ、洗って返します!」


「ふふっ、そんなこと?別に私は気にならないよ?」


「いや、違くて。課題は自力でやります。でも部活にも行きます」


「……どういうこと?」


先輩が首を傾げる。

「明日までに必ず自分で解き直して来ますから……」

説明しようとする僕に被せて先輩が口を開く。

「あー、そういうことー」

先輩が納得した様子でハンカチと僕を見る。


え?これだけでわかったの?理解力やばくない?


「つまり、明日ハンカチと一緒にその約束も果たすってことね?」


僕がポカンと口を開けている内に先輩はさらりと僕の言いたいことを言い当てた。


「まぁ、そういうことです」


「そういうことなら。はい、どーぞ」

先輩からハンカチを受け取る。

柔らかい生地、そして暖かい……ような気がする。


よしっ、これを我が家の家宝として受け継ごう。

今何人かに見られてたし明日からお腹にジャンプも仕込まなきゃ。


「私は明日もこの時間の電車だから、それじゃ」


手を挙げて改札へと続く階段を降りていく先輩。


「通学路同じなんだよなぁ」


僕はしばらくその後ろ姿をただ呆然と眺めていた。



って、おい!

まだ課題写し終わってない!

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