それぞれが背負うもの(5)

 その日の夜、佐竹親娘に連れられて、某ホテルへと向かった。


 会場には報道陣が詰めかけ、今回のことに対する謝罪会見らしかった。——というのは半分で、実際のところ、スポーツ誌の記者の多くは俺の引退に関することや失踪から突然監督業に転身したことへの追求が主だったようだ。事前に用意された質問書が、そう物語っていた。


 俺は佐竹親娘に挟まれ、登壇とうだんし、フラッシュを浴びる。瞬時に鼓動が高鳴る。


 視界がぐらついて、視野が狭くなっていた。


 頭を下げ席に着くと、まず佐竹氏が説明を始める。


「一部週刊誌であった、月見監督のセクハラ疑惑につきましては、反論記事にもありましたように、選手本人が否定しています」


 実は謹慎中、紫苑はマスコミ関係の伝手つてを使って、個人でのインタビューに答えていたそうな。


「——しかし、被害者の選手に対しては来期の契約金がかなり釣り上げられたと聞きます。それは一種の、ではないでしょうか。またこれはクラブの権力を振りかざしたパワハラにも当たるという意見もありますが」


 佐竹氏の頬が引き吊った。


「我々は彼女の選手としての能力を高く評価し、チームにとっても欠かせない存在であると判断しました。移籍を引き止めるために高額条件を掲示したまでです。本件とは一切の繋がりはありません。また、疑惑のことですが、月見監督の説得があってこそ、彼女は我がチームで引き続きプレイすることを決意してくれました。そこに、皆様が憶測するようなやましい事実はございません」


「——ですが、抱きしめるのは監督と選手の立場をいささか超えているのではないでしょうか」


 また佐竹氏はピクリと眉尻をあげた。


「ご存知かと思われますが、わたくしと娘は二人三脚でクラブ経営を行っています。つまりクラブはスタッフから選手を含め、家族の絆で結ばれているとわたくしは考えています。では逆に聞きますが、去り行こうとする娘かあるいは妹を引き止めるために、父かもしくは兄が抱きしめて説得する行為は何らおかしいことではないと考えます」


「——つまり、否定はしない。そして、恋愛感情はなかったと弁明するわけですね?」


「もちろん、突き詰めて言えば他人ですから、恋愛感情が芽生えてしまう可能性は否定できないでしょう。しかし本人から抗議文もしくは警察に対しての届け出はなされておりません。我々クラブの認識では、問題はなかったと考えております」


 噴火寸前だった佐竹氏はなんとか理性を保って、冷静に受け答えた。彼にしてみれば、愛してやまないクラブをいいように言われて腹に据えかねる思いだったのだろう。もちろん俺も同じだ。そして、きっと夏希も。


「——では月見監督、あなたご自身はどうお考えですか?」


 周囲の注目が一斉に向けられた。


 俺はマイクを握る。


 乾いた唇を舐め、口にしようとするが、言葉に詰まった。


 俺の、ここにいる意味は一体……。


「——どうされました? 意見はないということですか?」


 激しく心臓が脈打っていた。


 俺は。


 そう言ったつもりが、音にはならなかった。


 すると夏希は俺に手を重ね、ふと綻んだ。


 彼女はそっとマイクを奪い、矢面に立つ。


「月見選手は故障後、精神的な疾患に抱えることとになりました。それゆえ彼はグラウンドに立てなくなったのです。ゆえに選手としての道を逸れることになった。ですから私は、彼がサッカーに関わりながら、もう一度あの舞台に立てるようにとリハビリを兼ねて我がチームへの監督を要請しました。それはまず第一に、人と接することへのリハビリです。月見さんはサッカー選手です。そしてここにはサッカー選手やサッカーに携わる人間が多く在籍します。我々は言葉を交わし合う以上に、サッカーで語り合ってきました」


 夏希は一拍を置いて、俺に優しい表情を向けた。


「彼が監督としても優れた才覚を持っていることは、今期の我々の成績をご覧いただければ理解していただけると存じ上げます。まさかここにいる皆さんがそれを知らないということはないでしょう」


 若干喧嘩腰。


 非難を覚悟で、身代わりとなってくれていた。


「——ですが、突然の失踪から監督に転身は、ファンの期待を裏切ったことにはなりませねんか?」


「私も」


「——はい?」


 夏希は凛とした眼差しを報道陣に向けた。


「私も月見選手のファンの一人です。彼の姿をピッチで見られないのは残念です。ですが、月見さんが監督として我々に見せてくれるゲームもまた素晴らしいものがあります。皆様にお届けできるのはたった九〇分ですが、その九〇分を勝つために、彼は全身全霊をもって取り組んでくださってます。そこに嘘も欺瞞ぎまんも、あるいは私利私欲の一つだってありません。私が保証します」


「——けれど今時、熱血指導は古いんじゃないんですか? 科学トレーニングが広がった昨今、選手とスタッフが不用意に親密になるのはどうかという意見もありますが」


「あなた、奥さんはいらっしゃいますか?」


「——はい? いますが……」


「今の仕事は好きですか?」


「——質問に答えてませんよ」


「では、たとえ話をしましょう。あなたは今の仕事がさほど好きではない。でも仕事を続けている。それはなぜでしょう?」


 質問をした記者は口ごもる。


「それは家族のため、ではないでしょうか? 好きという気持ち、誰かを愛するという気持ち、それはどんな分野においても膨大なエネルギーを生み出すと、私は信じています。男女の間に生じる恋愛感情だけではありません。我々は心からサッカーを愛し、そしてファンもサッカーを愛してくれている。選手も我々スタッフも愛し合っています。サッカーを、それに関わる人間たちを。私たちはロボットじゃありません。感情的にもなります。熱い思いが生じるのはごく自然なことと思われます。また、我々は人間であるゆえ、時に間違いを起こすこともあります。その間違いを追求することは皆様のお仕事でありましょうが、今回の件に関して間違いはなかった。その一点だけは確信しています。……彼女はプライベートで悩んでいました。でも、月見監督が彼女の心に踏み込んでくれたからこそ、ここ数節、彼女は得点を量産でき、素晴らしいプレイを見せてくれています」


 夏希は今一度周囲を見渡し、


「我々は、月見監督も含めて我々は戦っています。心のことも、サッカーのことも、あるいは人間としても、たくさんのことを学び、そして日々を戦っています」


 深く腰を折った。


「だからどうか、冷静に見守っていただければと思います」


 顔を上げ、彼女は微笑んだ。


 フラッシュを浴びて、まるで後光が差したかのような瞬間。俺は天使を見た気がした。間隙かんげき、震えが止まり、意思とは反して、体が勝手に動いた。


 そうして立ち上がった俺は、決意を露わにする。


「選手には戻らない。俺は求められる限り、監督を続ける」


 カッと、光が弾けた。


 それは精神疾患によるものではなく、フラッシュの瞬きだった。白くける視界の中、記者たちはぎょっとして、マイクを向けると次々に質問を重ねていた。


「……月見さん」


 夏希は少し悲しげにしていたが、マイクを握ると、「会見は以上です」と切り上げた。


 最後に、と彼女は言い残したことを告げる。


「できればスタンドに足を運んでください。そこにのみ真実があります」


 こうして記者会見は幕を引く。





 帰りの車の中、震えたままの俺は、夏希に母親のようにあやされていた。


「よく頑張りましたね」


 何も言えなかった自分がひどく情けなかった。


「この場面を抜かれたら、またいろいろ言われちゃいますね」


 俺は夏希の膝にうずくまり、拳を握る。


 子供だった。俺はサッカーしか知らない子供だ。弱くて、恐れてばかりのどうしようもない人間。サッカーをとれば、何も残らない。情けなくて、ただ強がっているだけで、偉そうなことを言っているだけで、本当はいつも震えている。ホイッスルが鳴るあの瞬間まで、自分のやっていることが、彼女たちに押し付けたことが正しいのかどうかわからなくて。


 でも時々あの子たちは、俺が正しかったと示してくれる。


 それが嬉しくて仕方がなかった。


「大丈夫。大丈夫ですよ。何があっても私があなたを守ります。あなたはただサッカーのことだけ考えてください」


 この人に拾われて、俺は幸運だった。


 情けないながらも、衆人環視の前に立てたし、小さいながらも一歩を踏み出せた。


 夏希の言葉にはきっと嘘偽りのたったの一つもない。この人は本当に俺をコートに返そうとしていた。


 でも俺は、もう見つけてしまったのだ。


 選手よりもずっと楽しくて仕方のない居場所を。


 失くしたくはなかった。


 そのためなら。


「ゆっくり。一歩一歩でも、できることをやっていきましょう。まずは目の前の勝利です。頼まれてください。ね、監督」


 恩を返せるとするのなら。


 俺がここにいる意味は。



 チームを勝たせること以外になかった。

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