6章
それぞれが背負うもの(1)
俺はトレーニングルームにやってきていた。
「——なあお前さ」
衝撃的な事件のあった夜。
紫苑は一心不乱にエアロバイクを
彼女の白くきめ細やかな肌には宝石のように玉の汗が浮いていた。あれからそう時間は経っていない。相当負荷をかけていた。あまり感情を前面に押し出すタイプではないが、紫苑自身、思うところはあったのだろう。
規則的な呼吸を繰り返す合間、紫苑は言葉を返した。
「弁解はしないし、謝罪もしない。私、間違ったこと言った?」
「そりゃ、ある意味、お前の考えも間違っちゃいないけどさ、言い方とかあるだろ。あいつらのことわからないでもないだろ? だったらちょっとくらい合わせてやるとかさ」
紫苑は足を止めると、鋭い目を向けてきた。
「ねえ月見。もう忘れたの? 私たち、宮崎に負けたのよ? それでヘラヘラして仲良しこよししてる連中に未来があると思うの?」
「俺の指示だよ。オーバーワーク気味だったから、息抜きさせてやろうと思った」
「昇格しようと考えるチームに、休んでる暇なんてないわ。あいつらが友達ごっこするなら、その尻拭いを誰かがしなきゃならない」
「それが自分だってか?」
また紫苑は睨んでくる。
「自信過剰にもほどがある。敗北の責任を負うのは選手じゃない。監督の俺だ」
「じゃあ、もっと効率的なトレーニングでも提案して欲しいものね」
「誰もが君みたいにストイックにはなれない。俺たちは一人一人違う。ペースも違うんだ」
「そんなの甘えよ。誰よりも上手くなりたくば、誰よりも練習しなくちゃならない。これ以外に方法なんてない」
「なんでお前はそこまで練習できるんだ?」
「私はトッププレイヤーにならなくちゃならない。そのためならなんだってできる」
そう言って、またトレーニングを再開しようとする彼女の手を止めた。
「離して。私は立ち止まっている暇なんてないの」
紫苑の瞳には、執念が浮かんでいた。この子は、他の選手と比べて背負っているものが違い過ぎる。そう感じた。
「一体何が君をそこまでさせるんだ?」
「この際だからはっきり言ってあげる。私は移籍するつもりよ。ここよりもウンと高額条件で契約してくれる。金なの。私は」
紫苑は
「そんな奴が純粋にサッカーやってるあいつらと合う訳がないじゃない。去るチームメイトと仲良くなっても仕方ないでしょ。理解されようなんて思ってない」
どいて、と押し退けられ、それから紫苑は話しかけるなオーラをプンプン漂わせながらトレーニングを再開した。
胸の奥で絡まったモヤモヤを抱えながら、誕生日会場に戻ると、皆が不安げな視線をくれた。
俺は肩をすくめて首を振る。
それから、誕生日会は分解されるように、散り散りに解散した。心美が率先して残飯処理をするのは当然の光景で、木崎姉妹も動じていない様子で食事に取り掛かっていた。元気印が取り柄の真穂や杏奈も残っていたが、その表情は暗かった。
テーブルの一角では人だかりができていて、ひくひくとすすり泣く声が聞こえた。由佳のすぐ隣では、珍しいというか、こういう時、戦争でも仕掛けに行きそうな香苗は彼女の背中をさすって、あやしていた。
由佳は俺の姿を見つけると、涙を拭って笑顔を見せた。
「……ごめんね監督。皆んなも。巻き込んだのに、お節介だったみたい。言われっぱなしで釈然としないから、走ってくる」
弾けだした由佳のあとを香苗が追い、他のメンバーは難しい表情をしたまま部屋をあとにした。
改めて監督の難しさというか、俺はロボットではなく人間を相手にしているのだと感じた。
クラブハウスを出て、香苗の姿が見えた。彼女は由佳を慰めようと追いかけるのだが、意外なことに由佳は持久力があり、香苗を置き去りにして行った。膝をついて息を上げる香苗を俺も置き去りにして、由佳のあとを追う。すると俺に気づいた由佳は速度を上げて逃げの一手。負けじと付いていく。
ぐるぐると練習場を何周かして、二人とも音を上げた。
自販機でドリンクを買って、由佳に渡し、息を整える。
「欲しいものって簡単に手に入らないね」
コンクリートに寝そべる彼女は夜空に手を伸ばし、俺は静かに耳を傾けた。
「紫苑がすごい選手だって皆んなわかってる。あの子が居てくれたら、私たちはもっと強くなれる。でもきっと頼るだけじゃダメだとも。それをわかっているから、紫苑はあんなことを言うんだって」
由佳は拳を握り、目を覆った。
「上手くならなきゃ。強くならなきゃ。私は香苗みたいに背が高くない。紬みたいにドリブルできない。杏奈みたいに早くない。心美みたいに広い視野もない。このままじゃダメだ」
責任感が強くて、自分に厳しい子だった。
「紫苑が移籍しちゃっても、監督がいなくなっても皆を引っ張れる選手にならないと」
唐突に自分が話題に上がって、ハッとする。
どこで聞いたのやら。
「監督はわかってないよ。どれだけ私たちがあなたを頼ってるかを」
自覚のないことを言われて、俺は意外に思った。
「シーズン前、私たちはどこか無理だって思ってた。結城学に仕返ししたいって思いはあったけど、やっぱり自分たちはまだそのレベルにないって皆んなわかってた。でもね、監督がきて、チームが変わり始めて、勝ち始めて、いけるんじゃないかって意識に変わり始めた。でもやっぱり試合前は不安で、皆んないっぱい悩んでたし考えてた。けど、監督の一言がいつも私たちを前向きにさせてくれた」
目を覆ったまま由佳の口元が少し緩む。
「私、あの言葉好き。『さあ始めよう、俺たちのサッカーを』ってやつ。あと、『サッカーは爆発だ』ってやつ」
由佳はお腹を抱えてくすくすと笑う。
「何それって思った。芸術は爆発だぁみたいなやつ? 芸術なの? サッカーって。でも確かに爆発するんだもん。香苗とか紬とか真穂とか杏奈とか、ボカン! ってなるの。そしたら私もやらなきゃ、ってなる。それで試合が終わったあといつも思うんだ。ああ、この人私たちを信じてくれてるんだなって。ちゃんと見ててくれてるんだなって。だから次もいいとこ見せたいって思える。もっと月見監督に見て欲しくて、私たちのプレイを好きになって欲しくなる」
褒められて俺は照れ臭く思った。
「でもね、その監督がいなくなっちゃうかもって思ったらとても不安になる」
キャプテンだから。
全員の考えを、感情を一手に引き受ける。感受性豊かな由佳は、皆の思いを受け取って自分の中で何倍にもして溜め込んでいたのだろう。
「なあ、由佳。思ったことは暴発する前に全部吐き出せ。どうにもならなくなる前に」
俺がそうだったから。
一人で悩んで溜め込んで、どうにもならなくなって、サッカーを辞めようとした。この世界には俺一人。一人で戦い続けなければならない。そう思うとサッカーが怖くなった。
だから俺は日本に帰ってきたのだ。でもそこでも俺は一人だった。
けれど今は。
「一部で優勝。それが俺の監督でいる理由だ。そのためには君の力が必要になる」
腹を括らなきゃな。
いつまでも逃げてられない。
俺はこのチームが好きだ。はっきりとした。選手たちの人間関係など他のチームだったら、自分たちでどうにかしろと思ったかもしれない。でも、俺はこの輪の中で、彼女たちをどうにかしてやりたいって気持ちにさせられる。
「ほんと? 奮い立たせるための方便じゃなくて?」
「ああ」
鼻をすすりながら、「ねえ」と向けてくる。
「紬が戻ってきたら、ベンチに行くのは私でしょ?」
俺は答えられなかった。
彼女は決してネガティブからくる不当な自己評価の低さではなかった。それは残酷なまでに客観視した結果だ。
「わかってた。そうなるかもって思って、プレイ外でのポイントあげようとか考えてた」
由佳は唇を噛んだ。
「チクショウ……キャプテンなのに」
もしかしたら内に秘める負けん気の強さは一番かもしれなかった。
「自分がどうなればいいのかわからない。何になればいいのかわからない」
由佳のクロスは目を見張るものがある。それを除けば、突出した才能があるわけではないが決して低くもない。オールマイティに弱点の少ない選手だ。それは彼女が努力を積み重ねた結果であり、決して自分の弱さから目を逸らさなかった結果だ。だから安心できる。
しかし今日、もう一つ彼女の武器を見つけた。
「左ウイングの俺から見れば、後ろで守備が上手くて走れる選手がいたら、安心して自分のプレーに集中できるだろうな」
いち早く、紫苑をチームに馴染ませようとした由佳ならきっと。
「……確かにこれは、心にズンてくる」
彼女はそっと頬を
「うん、受け取った。月見監督のお説教、確かに響いた」
自分じゃそんなつもりはないのだが。
「立ち止まらない」
由佳は身を起こすと、にこやかに笑って、手を出した。
「私はコートの添え木になる。決して折れない左の支柱に」
「ああ、期待している」
事務所に戻ると、もちろん誕生日会に加わっていたコーチ陣も浮かない顔立ちだ。
「どうしてああなっちゃうんでしょうね。水と油、というよりも、宇都宮くんは一人で爆弾を抱えているようです」
宮瀬が漏らしたあと、真賀田が俺に目を向ける。
「私はあくまでも選手とスタッフとして線引きすべきだと思います。未熟でも彼女たちはプロですし、各々が抱えているものも色々ありましょう。しかし我々の仕事は勝つことです。首を突っ込み過ぎるのもどうかと思います。結果的に、誰も得しなかった」
今回のことに許可を出した俺への批判だった。
「しかしメンタルの問題は厄介です」再び宮瀬。「サッカーに対しての意思統一は容易とは言いませんが、やり方はいくらかあります。しかし今回の場合〝黒い羊〟がはっきりとしてしまっている。そこまで考えたかはわかりませんが、もし自分が去る前提であえて厄介者の立場を選んでいたとすれば……」
その時、夏希にツンツンと肩を叩かれて振り返る。彼女はタブレットPCを持っており、俺に宇都宮紫苑の選手プロフィールを見せたのだった。
……あのバカ。
「なあ、佐竹さん。ちょっと相談がある」
俺は〝このチームでの優勝〟を一層強く思うのである。
「ええ、私も同じことを考えていました。お父様を呼んでおきますね」
そう言って彼女は受話器をあげ、佐竹氏に連絡を取った。
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