風已みて

秋風

奪われるだけの国で

死とは、悪夢を覚ます手段

 死とは、唯一夢を覚ます事が出来る手段だ――。

 生とは夢であり、それを覚ますのが安らかなる死だからだ。


 少年は本を閉じた、少年は今読んだ一文をまだ理解する事はない。17歳という若さで既に死を意識するとしたら少々ネガティブと言えないだろうか。今はまだ長い一生を前に若さを謳歌し、やりたい事をすればいい。

 だから少年――ナギは死を遠いものと感じていた。

 日常的に死んでいく者、獣、虫。目にする文面から死という文字、事件、事故という内容がなくなる事はない。情報紙を通して知る、何処かで尽きてしまった見知らぬ命、そんなものは無数にある、一々関心を抱く事もない。

 だから意識する事はなかった、考える事もなかった。

 死が身近に訪れるまで。


***


 赤が塗りたくられる。鉄臭い、生臭い嫌な臭い。まだ生きていた肉体から溢れる赤が髪を染めていく。赤が怖い、赤は悪夢を植え付けた。

 白は赤に塗りつぶされた――。



 少年は早足で帰宅する。

 腰まである碧掛かった白い髪を三つ編みにして背中に流し、瞳は青空のように済んだ色を輝かせる。細身で整った顔立ちをした少年は学校の制服に鞄を下げ家路を急ぐ。

 今日という日は少年ナギの18歳の誕生日。誕生日というのは子供にとっても両親にとってももれなくめでたい一日となるのである。

 ナギは数日前から無性になぜだかケーキが食べたくて、そういえばあと少しで自分の誕生日だったなと丁度よくイベントを思い出し母親に頼んだ。

「白いやつで、いちごがたくさんはさまったのがいい」ナギの注文を笑顔で聞き、直ぐに母はケーキ屋に予約をするべく足を運んだ。


 誕生日当日。ホールケーキを思い浮かべ舌なめずりしたナギは軽快にケーキの待つ我が家に急いだ。時は夕暮れ、夕飯も兼ねた誕生日会は両親とナギだけの細やかな食卓で開かれる。

 どこにでもある普通の一軒家、玄関を潜り靴を並べ鞄を下げたまま居間に向かう。開けっ放しの扉の向こうから明かりの射す居間へ早足で駆ける、暖かな雰囲気が漂い、ケーキと両親がナギの登場を待ち侘びていることだろう。

 もしかしたらナギが姿を見せた瞬間クラッカーが飛び出すかもしれない、あの両親ならやりかねないとリアクションの準備をしてからナギは飛び出した。


「ただい――」


 ま。その一言は喉の奥から出てはこなかった。

 楽しいはずの誕生日、真っ白なケーキ、笑い声。

 赤は全てを塗りつぶした。


 三つ編みが解かれ、ナギの自慢の髪が赤く染まる。両親が手のひらで赤を塗る。制服には生暖かい赤が染み込み、肌に温度を感じさせる。両親二人は壊れたように黒ずんだ赤をナギに塗りたくる。いい臭いなんかしないそれを、恨みがましく手のひらに垂らし髪に撫で付ける。

 ふとナギの指先にぬるっとした感触がした、手を開くと、真っ赤な血液が手のひら一面を覆っていた。


「ああああ」


 膝を崩し床に座り込む。手のひらから視線をあげる。

 その先には……恨みを込めた目でナギを見上げる両親の死体があった。


「うぁぁぁ――!」


 叫んだ。

 滲む視界は一面赤。


 両親の死はナギに悪夢を植え付けた。



***


 お父さん、お母さん、どうして……。

 どうして俺だけを置いていった。


 心が幸せを感じないんだ――。


 ナギが悪夢から覚めたのは惨劇の誕生日から三日後の事だった。

 世間では幸せな家庭が殺人鬼によって壊された事、一人息子だけが助かった事、手口の残虐性等が話題で持ちきりだった。

 ナギは病院のベッドの上に座っていた。体に傷等はなく精神状態も惨劇の時よりは穏やかであった。ただし表面上は。

心の中は真っ赤なままで、死を抱え、恨みを抱いた両親の目が未だに脳裏から離れずに悪夢を見たままであった。

 無関心で片付けていた情報紙の先の、これが生命の死なのだと、最悪の形で知った。人を大切だと思うだけ死は辛い現実として心を苦しめる。ナギの両親はどれだけ苦しい思いをして腸をえぐられたのだろう。恨みの目はどんな人間を見ていたのだろう。

 ナギは泣く、しかし涙は一粒溢れるとそこで止まった。気丈に涙を我慢するだけそこには新しい感情が生まれてくる。

 『復讐』という、どうしようもない絶望の感情。

 殺したい――。

 犯人を殺したい――。

 めちゃくちゃに苦しめて、最後に脳天に刃物を突き立て破壊してやりたい。


 病院は消灯する。暗い色のなかに赤が混じる。月明かりも真っ赤で、こんなものを浴びても癒やされるわけがない。

ナギの目はいかれてしまったのだろう。何もかもが赤く染まり、そこには内臓が張り付き脈を打つ。恨みの眼球が360度全ての方向からナギを睥睨する。

 助けて――。

 赤い涙を堪えるナギの元に羽が一枚落ちてくる。それは月の光に照らされた銀の天使の羽。ナギは顔を上げる、目の前には銀の天使が降臨した。

 天使はナギを抱擁する。美しい銀の長髪がナギに掛り、潤んだ唇が耳元に寄せられる、舌が耳を舐めるようなぞくりとした感覚が背筋に伝う。


「死にたいって言うまでナイフを体に突き立てて拷問してやりたい。だってそうだろう」


 復讐、天使が示す誘いは水のようにすんなり体に染み込んだ。



 ナギは退院して新しい住居に入る。

 何もない殺風景な部屋。誰かの善意かベッドには柔らかな布団、ソファーにはクッションが並べられていた。

 台所に向かう足、憎悪を隠さずナイフを持った。

 殺したい、殺したい――。

 はやくあいつを殺したい

 憎しみで床を刺す、人の善意で与えられたナギの家。その床を、ソファを、クッションを刺す。

 人の善意を踏みにじるように、身を蝕む怒りを見せつけるように。

 殺したい、大切な人を殺したお前を。

 独りになってしまった寂しさを埋めたい。

 ナギはナイフを床に突き立て横になる。目の前で銀に光るナイフに自分の瞳が映る。憎悪に満ちた生気のない目。

 そうだ、殺そう、殺そう。明日殺そう。

 ナイフが唇を映す。


「殺してあげるからね」そうだ、死のう


 ナギはナイフを抱いて眠った。



***


『生きよう――』


 泥と血にまみれた汚い人間が土の中に蹲っていた。

 質の良さそうな服は赤く染まり、本来人目を惹くであろう美しい色合いの髪も土と血が乾きこびりついている。

 彼はうつ伏せになり今にも死にそうになっていた。瀕死の人間が蹲っているというのに、誰も彼に手を差し伸べようとはしない。

 乾いた風が退廃した土地を虚しく撫でる。

 荒廃したこの世界で人は光も希望も宿さない。喜びも楽しみも忘れ、ただ死ぬまで生きるだけ。

 死を定められた場所。

 自分の未来すら失った者達に、枯れかけた花に水をやるような潤沢した者はいない。

 此処は死に行く世界――。

一面土色の、乾いた土地。

 けれどその中で、ようやく彼は美しいものを見つけた。乾いた体に降り注ぐように、汚れた心が洗われていくように。優しく流れる透明な水が彼の目には見えた。

 生きよう――。

 そう言って手を差し伸べてくれた海のように青い髪をした人。

 俺は人を殺した。なのに人の手を取ってもいいのか――。

 生命が終わる直前でも、瀕死の彼は道徳を頭の隅で考えていた。血に染まった手でも貫き通したかった、人格だけは失いたくないと、瀕死の彼は生を拒み、罪に対して死を望んだ。

 それなのに、瀕死の彼は無意識に相手の手を握ろうとしていた。彼はそれに気が付いた時はっとして手を止める。

 結果、瀕死の彼は相手の手を握っていた。相手が彼の手を掴んでいた。


「生きてもいいんじゃないかな、死ぬまでは。それが人の性だよ」

「……」


 こびりついた赤黒い血が落ちるわけもないのに、今だけは、それをも流してしまえるような、赤が白に戻れるような、そんな気がした。

 相手の手を握り、疲れ果て真っ白になった心で彼は泣いた。



「ミズチ~ただいー」

「ただいま、でしょう? そして私はミズガレです」

「小言はなしなし、それに家ん中までそれで居る必要はないでしょ」


 白に近い程薄い碧の髪、瞳は朝の涼んだ空のように青い。淡い色の髪とは反対に真っ黒なフード付きの羽織りを纏い、羽織りから下はフリルやリボンのあしらわれたファッションを覗かせている。

 何処か気品のある彼――ナギは目の前の男に指摘をしつつ、疲れた足を休ませるべく椅子に座った。


「紳士の嗜み、ですよ」

「だから、家の中でまでやる必要ないでしょ」

「そうか?」

「そう、他人行儀みたいでヤダ」


 ナギは足を組みながら手をぶらぶらさせた。

 ナギはあの日人を殺した。

 真っ赤に染まる視界、人を刺した感触が手からじんわりと伝わり、ドクンドクンと血液を巡らす。無音の部屋に秒針と息遣いだけが響く。そのリズムと共に心はおかしくなっていく。

 目的の人物はピクピクと痙攣し床に倒れた。その時ナギは壊れた。

 あはは、ははは。

乾いた笑いが漏れる。

 俺は殺したんだ! ははははは

 そしてそれは返す刃で自らの胸を刺し自殺するという終焉によって幕を閉じた。

 それなのに今、ナギがこうして命を繋ぎ止めているのは何故か。それは奇跡かあるいは業か。答えがあるとするなら、簡単な事


 ――生きようと思ったから。



 ミズガレは黒いロングコートを脱ぎテーブルに乗せる。ナギに家の中まで紳士でいなくていいと指摘されたからだ。

 ミズガレは玲瓏たる容姿を持っていた。綺麗に梳かれた肩までの青い髪、黒い瞳は切れ長。すらっとした体型、背は高く、顔立ちは同性も異性も羨む程に麗質。その容姿に見合うよう上品な服装と品行で着飾る。

 黒いシルクハットに黒いロングコート、白のブラウスにはフリルがあしらわれていて。いつもそれらを着こなし優雅に歩いている様は正に若く麗しのジェントルマン。ただ、ナギとしては品行方正な紳士であるより家族としてラフに接してほしかった。

 あの日泥と血にまみれ死を望んでいたナギに生きようと言ってくれた人。

 何にも替えがたい、大切な、第二の家族。


「夕飯にするから、ウルワ呼んできて」

「あい」


 日も暮れてきた。ミズガレの家では夕食の時間。

 ナギはミズガレの同居者ウルワを呼びに彼女の部屋へ向かう。

 コンコン、ノックをすると中から「はい」と小さな返事がした。扉を開けるとウルワはベッドの上に腰掛けていた。


「ウルワ、ごはん」

「はい」


 ウルワは立ち上がる。ナギはあっと声に出すより早くウルワを支えに部屋に入り込んだ。


「大丈夫、歩けるよ」

「ああ、でも、抱っこしてく」


 ウルワは遠慮しようとしたが、その方が早いしナギの好意に甘えたくて身を任せた。

 ウルワは目が見えない。

 正確にはまだ辛うじて視力はある、だが目の前のものすらぼやける程失明に向けて病状は進行していた。だから彼女は瞳を包帯で覆う、ぼやけた視界は頭痛を引き起こす原因になるからだ。

 どうせ何も見えていない、認識出来ないくらいなら光を閉ざしていても同じ事。

 だからウルワは目が見えない。ナギの顔を一度だけ裸眼で見た時以来、ウルワが瞳を開いた所をナギは見なかった。

 背丈も低く、軽いウルワは力のあまりないナギでも抱き上げる事が出来た。

 歳は15。真っ白なふわっとした長い髪、膝までもあるそれは三つ編みにしてある。服装はナギと同じ趣味か、白と黒、フリルやリボンをあしらったものを好む。ミズガレの家に住んでいるが、ミズガレとは赤の他人だ。ただ、血の繋がり的には他人だろうが心の繋がりではそれ以上の存在だった。ナギがミズガレに助けられ同居するより前から、ウルワはミズガレを慕って共に住んでいた。

 ナギはいつか聞いてみたいと思っていた、ウルワは……ミズガレが好きなのかと。

 ウルワを抱き上げたナギが台所を覗くと、ミズガレは格式張った格好や振る舞いは止め、食事をテーブルに並べる宛ら二人の兄のような顔になっていた。

 ウルワを椅子に下ろしその隣にナギは座る。ウルワの向かいにミズガレは座った。三人の食事、それはとても育ち盛りの少年少女が食べる量には満たなかった。

 粗末な野菜、それも小さく細い、全く栄養のなさそうな見た目。肉やパンといったものはなく、野菜の他には具のない汚い色のスープだけであった。

 この世界は死に行く世界。

 土は干からび、水は渇れ、緑は死滅した。乾いた風が生ぬるい温かさを肌に撫で付け、動物も人間も食糧不足に困窮する。

 全てが憔悴しきった死界。それがこの世界。


「ナギ、もっと食べたかったら私のを食べて」


 ウルワは少食だからとナギに野菜やスープを残り半分も差し出す。ナギは食事の手を止め無言になる。ナギは泣きそうな程頬を緩め、けれど穏やかな声で「俺は大丈夫だから」とウルワの器を押し返した。

 ミズガレが横から「ナギは私達より多めに盛ってあるよ」と嘘を言う。ミズガレがナギに口を合わせると、ウルワは残りの半分を口に運び始めた。


 この世界はどうしてこんなにも残酷なのだろう。



「ナギ」


 食事を終えると片付けをするミズガレを余所にしてウルワがナギに向かう。


「ナギは辛くないの? まだこっちに来て少ししか経ってないから、きっとお腹が空いてるでしょう……」

「うん、まぁ……食料が無いのと水を大事にしなきゃならないのは、辛いな」

「ごめんね」

「なんでウルワが謝んの、確かに食糧難と水不足はここの人達の過剰な摂取によるものかもしれない。でもさ、確かに人間が自然を大事にしてないのは俺達の"元居た場所"と変わらないだろ?」

「……うん。贅沢なくらい水を使って、傲慢なくらい資源を無駄に消費して、自然を壊してまで便利な生活に依存していたね」

「ウルワ知ってた? "元の世界"でもいずれ水不足や食糧難に瀕するって」

「……知らない」

「あまり知られていないみたいだけど、あの世界ももうすぐ此処みたいになる。土は痩せこけ、水はなくなり、気温が上がって人の住めない環境になる。あっちももう、……秒読みだったのさ」


 ナギとウルワは揃って口を噤んだ。


「ナギくんは随分難しい話をするねぇ」


 ミズガレは食器を流しに押し込むと背後で交わされていた二人の会話に入り込む。


「人は強欲さ。その強欲さがある限り破滅は止まらないよ。此処みたいにね」


 ミズガレはこの世界――二夜について話し始めた。


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