越えて、朝を迎えに。

屋根裏

六本の弦

 あなたはつくづく、私に必要なものしか持ち合わせていない。

 昨日だってそうだ。暖かい日差しとそよぐ風が行き交う同じ部屋にふたり。あなたはギターの弦を優しく弾く。私は文庫本のページをぱらぱらとめくる。

 

 確かに。

 

 恋人に気軽に声をかけるくらいのことが、できないものだろうか。小説の世界に入り浸っている私を、引っ張り出すのが億劫なのだろうか。そうかもしれない。

 

 確かに。

 

 無理を言っているのは分かっている。何も語らぬ私の心中を察してくれなど、広い海に沈めたビー玉を拾ってこいという程に無謀なことだろう。

 

 確かに。私は満ち足りている。あなたがいるこの空間に。満たされている。部屋に満ちる暖かい光とそよぐ風のように、あなたは私の中に注ぐ。

 

 緑色だった心に、少しのオレンジが滲む。

 たまらなくなって、一人で家を出た。

 思っていたよりも、涼しい日だった。照りつける光を遠くへ運ぶように、冷たい風が吹き抜ける。

 すれ違う人々は、風を追うようにスタスタと靴音を響かせる。何をそんなに焦っているのか。緑とオレンジの混ざり合った心の私には、今や誰の気持ちも理解できやしなかった。

 赤いヘッドホンをした女性。ゴツゴツとしたあのヘッドホンから流れるのは、昔の彼女を歌う男性の薄い声と薄いギター。

 腕時計に目をやるスーツ姿の男性。きっと彼は電車の乗り換えに間に合わず、待ち合わせに遅れて相手に気を使うところから始まるデートに辟易する。

 そんな卑屈な想像を働かせながら街を歩く。目的地はない。ただ、この気持ちの正体を見極めるために。自分の気持ちに置いていかれないように。

 

 ふと、ガラス張りの店に群がる人々が視界に映った。新年の福袋だったり、野球チームの優勝だったり、ことある毎にお祭り騒ぎをしているタイプの電気屋だ。

 この時期お祭り騒ぎするような出来事なんてないはずだろ、と内心毒づきながら近づいていく。

 左右で繰り広げられるひそひそ話の先に目線を向けると、いくつもの大型のテレビ画面の向こう側に同じキャスターの顔がいくつも並んでいた。何人もの同じ顔のキャスターが、同じスピード、同じ抑揚で報じているのは、明日、人類が滅亡するというニュースだった。どうしてそんなにも単調に語れるのか。"じんるいめつぼう"という八文字が、目の前をぐるぐるとまわる。やがて一文字一文字が歪み、滲んで、視界を覆い尽くしていく。

 緑とオレンジの半々の心、視界はブラックアウト。オレンジも緑も、黒が全部覆っていく。全部全部、飲み込んでいく。

 その場に崩れそうになった脚になんとか力を込め、倒れそうになった惰性のまま、自宅に向けて歩いていく。歩みは次第に早くなり、気づいた時にはもう、たったっ、と軽やかに足音を響かせて駆けていた。

 頬を撫でる風も、道端の雑草も、いつの間にか雲の多くなった空も、全部が明日を信じて疑わない。

 風は、旅を楽しむように。

 雑草は、雨を待ちわびるように。

 空は、明日見せる表情を思案するように。

 結局人間は、自然には敵わない。敵わなくて、ひとりが怖い。だから私もこうして、あなたの元へ急ぐ。人類滅亡。原因はなんだったっけな。地震だったろうか。それともそれに伴う二次災害。わからないけれど、そんなものは関係ないと思った。人類滅亡が本当に起こりうることなのかも、私にはわからない。

 あなたの元にたどり着いて、同じ布団でくっついて眠る。そのまま人類が滅亡するなら、それはきっと私にとって最善の選択だろう。死ぬ時にそばにいてほしいのは、あなただ。もし人類滅亡が嘘で、今まで何度もあった宣言たちと同じように忘れられていくなら、それはそれで構わない。あなたの腕の中で、いつもと同じ朝を迎える。

 問題は、この心だ。全体を包み込んでいた黒はすっかりと消えてクリアになったものの、緑とオレンジの混ざり合った色は、奇妙にさえ感じた。こんな奇妙な心のまま、消えていくのは嫌だな。たとえ消えなくても、この色の心で迎える朝は、梅雨の空気ようにじっとりと肌に張り付く不快感を伴いそうで、嫌だった。

 心の色を模索するうちに、自宅のドアの前まで辿り着いた。

 まるで私は画家のよう。パレットの上で納得のいく色を作り続ける。ふと気づくと鳥のさえずりとともに、朝が訪れる。そんな時間を忘れる感覚と手を繋ぎながら、ドアを開ける。

 部屋からは、あなたのギターの音が控えめに聞こえてきた。白くて長い指が奏でる、優しい音。六本の弦一本一本が、踊るように跳ねる。ギターとあなたの指は、良すぎるほどに仲良しだ。ちょっと妬ける。

 私の姿を認めると、あなたはゆっくりと目を細め、おかえり、と呟く。

 あなたはギターをギタースタンドに立てかけ、息の上がった私にお茶でも、と冷蔵庫へ向かった。

 途中まで読んだ文庫本が、フローリングの上でぐったりとうつ伏せに横たわっている。文庫本を手に取ったところで、あなたは麦茶の入ったコップを私に手渡す。ありがとう。よく冷えた麦茶は、彩度を増して心に注ぎ込む。オレンジ色の比率が、また少し増える。

 その後は穏やかに流れていった。刻一刻と迫るタイムリミットに焦ることもなく、意識すらしていなかったかもしれない。ただひたすらに静かで滑らかな流れに身を委ねていた。

 あなたという存在は、私を、時間という流れから切り離し、中和する。苛立ちも焦りも、不快感も全部を取り除いた、居心地のいい芝生のよう。それでいて飽きないのは、私自身も不思議だと思う。

 あなたはつくづく、私に必要なものしか持ち合わせていない。だからだろうか。私とかっちりとはまる。パズルのように、隙間なく。

 布団に潜りながら、私はひとりそんなことを考えているのだが、とうのあなたは起きているのか眠っているのか曖昧な呼吸を続けている。

 変化し続ける自分の心に置いてかれることも、追いつくこともなかった私は、朝の慌ただしい街で見かけた人々を思う。

 ゴツゴツとした赤いヘッドホンからは、ゴツゴツとした男性が歌うパンクロックが流れていたかもしれない。彼女は何を思っていたのだろうか。

 スーツ姿の男性は、ただいつもと変わらず会社へ向かっていただけなのかもしれない。髪型がなかなか決まらなくて時間ギリギリになってしまったのかも。彼は何を思っていたのだろうか。

 卑屈な思いはもうどこかへ消えた。私は満ち足りたこの空間を、もうほとんど満喫出来ていた。それなのに、あと少しの緑がどうしても無くならずにいて、心はまだ、完成していない。人類滅亡は、もう目の前かもしれないというのに。

 なにが、足りないのだろう。なにを、求めているのだろう。

 

 おやすみ。

 

 優しい声が聞こえる。ギターの弦よりも仲の良い、私に向けて。

 オレンジが、満ちて、溢れる。

 

 あなたはつくづく、私に必要なものしか持ち合わせていない。

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