世KAI鍵
桜人
第1話
この世界には神が存在する。
あらゆる人間の無意識を共有する「集合無意識」の奥底で眠り続けている神は、ある時、全知ゆえにこの世のすべてを夢に見てしまう。
しかし神は全能であるゆえに、眠りの邪魔となるその夢をすべて切り離して捨ててしまった。
――甲田学人『断章のグリム』
◆◇◆◇◆
今、この世の中で純粋に神様なんてものを信じている人間が、果たしてどれくらいいるだろうか。一つだけ言えることは、少なくとも今ここで記者をして生計を立てている俺は、神様の存在なんてこれっぽっちも信じていないということだった。
だってそうだろう?
〝地球が、遅くともあと十年以内に滅んでしまう〟
およそ一年前、NASAは世界へ向けてそう発表した。五十億年は保つとされていた、太陽の核融合に使われる水素の残量が異様に少なくなっているというのだ。それはつまり、太陽の活動が終わりに近づいているということを示している。燃料の尽きた太陽は、まるでロウソクの炎が燃え尽きる最後に一際大きく燃焼するように、巨大化する。地球を飲み込んでしまうほどに、だ。
そう唐突に人類全員が余命を宣告されて、キリスト教やイスラム教の信徒の中で、裁きの時が来るのだと歓喜に打ち震える者がいたか? 天使のラッパに耳を澄まして待っている者がいたか? 結局のところ、本気で世界の終わりを考えていた信者などほんの一握りで、残りの大多数は大して何をするでもなく、ただ普通の生活を送っていたのであった。こういった時にこそ宗教は人心を落ち着かせるのに役立つと思うのだが、今のところ目立った功績はない。神様がもし本当にいるのだとしたら、この影響力の低さを許すはずがないだろう。やはりこの情報社会において、神様などという存在は消滅してしまったのだ。
……いや、待てよ?
限界は見えていた。そう、確かに見えてはいたのだ。世界中の誰もがそれに気づきつつも、まだ未来のことと先延ばしにしていただけのことで、実際我々の世界は徐々に徐々に歯車がズレていって、そしてある時に、とうとうそれが取り返しのつかないほどズレきってしまったという、それだけのことだった。
兆候はどこにでもあったのだ。
終わらない紛争、度重なりすぎて、もはや日常のこととなった異常気象、停滞する経済、蔓延する誹謗中傷、行き詰まった芸術……
NASAの発表に、やっとこれで全てから解放された、とこれっぽっちも安堵を感じなかったとは言わせない。今ある生活を消し去ってしまうかもしれない不意打ちは、きっと誰もが心の奥底で望んでいたに違いないことだ。だとすると、深層意識の所では、みんな滅びを望んでいて、もし、この世に神様というものが本当にいると仮定するならば、この唐突な太陽の燃料切れは、そいつが起こしたとは考えられないだろうか。
何だ。
やっぱり、神様はいるのかもしれない。
――という思考実験は置いておいて、俺は運転手の声に目を覚まされた。
浅草から東武線を伝って赤城まで北上し、あとはタクシーを使って一時間ほど行けば、そこはもう人里離れた群馬県の山奥だった。
運転手にお礼を言い、タクシーから降りる。今回は一日契約なので、ここで待っていてもらうことにした。老齢の運転手はもう少し近くまで送ろうかとこちらを気遣ってくれたが、ここのところ運動不足気味だったので丁重にお断りする。スマホに地図を表示して、俺は早速目的地に向かって歩き出した。
「お気をつけて」と運転手。
たとえあと何年か後に世界が滅びると宣告されようと、タクシー会社も、IT会社も、みな通常通りに運営されている。
そう、いつ滅びようとも、それまで世界は回るのだ。
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