落ちていったとしても
「俺に花束をくれないか」と彼は言った。
私と彼は今、宇宙空間にいる。眼下には巨大な青い地球が広がっている。
彼は、いま、私から遠ざかりつつあった。ゆっくりと身体を回転させて、徐々に大気圏の方向へと落ちて行っている。私は二人乗りのクルーザーに片手をついて彼を眺めることしかできない。
彼の父は船乗りだ。五年ほど前に、誤って大気圏に突入してしまい、お亡くなりになった。私たちは毎年彼の父の命日に、大気圏に向けて献花をする。私たちは小型のスペースクルーザーで彼の父の墓参りをしに来たはずだった。
私は手に花束を持っている。
その花束は本当は二人で持っているはずの花束だ。
「ねえ、私もそっちへ行く」
「ダメだ。クルーザーには帰還用の燃料しか積んでいないんだ。君が俺の所に来たら、君も戻れなくなる」
彼の声は無線で聞こえる。二人で隣でささやき合っている時よりも、今の方がはっきりと聞こえた。
私と彼の間には遮るものがないのだから。
彼の宇宙服の姿ははっきりと見ることができた。けれど、バイザーに太陽の光が反射して彼の表情は読めない。今ほど太陽が憎い事は一度だってなかった。
彼はすぐそこにいる。それでも私たちは一緒になれない。彼との距離は徐々に広がっていく。
彼の宇宙服の推進剤が何故か空だったのだ。彼は私の所へは戻ってこられない。私が彼の所へと行って彼を連れて戻ることもできない。彼に追いつくような速度を出すと、私の宇宙服の推進剤ではクルーザーに戻ることができなくなる。クルーザーで助けに行くこともできない。彼の言うとおり、クルーザーは帰還用の燃料しか積んでいない。
彼はあと数十分で大気圏に突入してしまう。救急隊は最低二時間かかるらしい。
「ねえ、お願い、私をそこへ行かせて。あなたが燃え尽きるのを私は見ていたくない」
「ダメだ」
彼の声が私の頭の中に響く。眼下の地球はとてつもなく巨大で、恐ろしいほど美しかった。地球はゆりかごであり墓場であると言ったのは誰だったろうか。
「どれだけ無理なお願いかは知ってる。わかってるわ。けれど、頼むから私をそちらへ行かせてちょうだい」
私はあふれ出る涙で前がよく見えなかった。バイザーをしている為に、とめどない涙を手で拭くことはできなかった。ぐちゃぐちゃした視界の中で、彼が大きく首を振るのが見えた。
「ダメだ」
私はどうすればいいのだろう。彼の言葉を無視して、彼の所に行くべきか。それとも、彼の為に私は生きなければいけないのか。
――彼のいない人生なんて考えられないのに。
私は花束を不格好なグローブで握りしめたまま、何か彼が助かる道がないか考えた。まばたきをして大きく首を振り涙を目から追い払い、ガラス越しにクルーザーの中を見て何か使えるものがないか探した。
クルーザーの中には、彼が読んでいた宇宙工学の本や宇宙食のパックなどが浮いている。私の本も浮いていた。彼に贈るはずだった手編みのセーターを作る為に買った手芸の本だ。本と共に、作りかけのセーターとそれに繋がった赤い毛糸の玉が絡まったまま浮いている。
どれも使えそうになかった。
「俺に花束をくれないか」と彼はまた言った。
「なんで?」
彼はもうかなり離れていて、両手を広げた中に隠れてしまうほどの大きさに見えた。それでも無線がはっきりと聞こえるのが嫌だった。遠ざかるにつれて音が小さくなればどんなに楽なことだろう。
「俺も親父と同じ所でいなくなる。毎年俺と親父の為に君は二つの花束を贈ってくれると思う」
「そんな話、しないで」
私がそう言っても、彼は続けた。
「今、君は一つの花束を持ってる。本当はその花束は親父の為の物だけれど、親父には悪いけれど、その花束、俺の方へ投げてくれないか? 君の最後のプレゼントが欲しいんだ」
つらすぎて、私は彼の方を見ていられなかった。彼に渡すプレゼントは花束なんかじゃなかった。彼に渡すプレゼントはセーターのはずだったのに。
その時、私は気が付いた。
無我夢中でクルーザーのドアを跳ね開ける。エアロックがきちんと作動する前に私はドアを開いた。空気が勢いよく流れだし、中の物がものすごい勢いで私の方へ向かってきた。私は毛糸の玉を掴んだ。
「何をやってるんだ?」
私はこたえない。ただ手元の作業に集中していた。
「おい、返事しろよ。一体何してるんだよ」
「花束、あげるよ」
私は大きく振りかぶり、花束を彼に向かって投げた。花束は勢いよく彼の方へと向かっていく。ほんの少し回転していたが、間違いなく彼に届くだろう。
「何をしたんだ……?」
彼の呆然とした声が聞こえる。
「ちょこっとねじれてて、不格好だけど」
花束の後ろには赤い糸がくくりつけられている。糸は私と花束をつなげている。
「帰ってきて」
糸から切り離された作りかけのセーターが、どこまでも地球に引かれていった。
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2/25/2003
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