アイデンティティ消失
背広姿の男は玄関でしゃがみ込み、慣れた手つきでジェラルミンケースを開けた。
僕はその様子を立って眺めていた。
「最近は、お客様が安全に快適に毎日を過ごせるような道具が沢山出ています。これもそのうちの一つです」
男はケースから取り出した半透明な小箱のフタを僕の目の前で開く。小さな指輪が収められていた。銀色で飾り気はない。
「この指輪の内側にはですね、ナノスケールの微細な管が無数に生えています。装着時には、お客様の指にその管を差し込み、血液中の化学物質の流れをモニターします。常に指輪内部の量子ホールメモリーに蓄えられた膨大な医学情報を参照していまして、異常があった場合はすぐに血管中に治癒物質を放出します……」
僕は指輪から視線を外し、男の顔を見た。口元に笑みがこぼれている。いわゆる営業スマイルというものだろう。
このスマイルも『作られた』ものなのだろうか。
「もう、いいよ。興味ないから」
僕はドアへと視線を移しながら言った。男は話を止めた。最近の訪問販売員は、販売技術の向上のために特定の神経網を再結線しているそうだ。
つめたくあしらって早めに帰ってもらわなければ。
「僕はそういう機械、嫌いなんだ」
「しかし、ウェアラブルコンピューティングは生活を豊かにします。我が社の指輪は、接触部の人体との親和性が高いので、他の会社の商品のような皮膚荒れ等は起こしませ――」
「着けようと考える事自体に虫酸が走るんだよ。帰ってくれ」
僕は男を見据えて、言った。男は僕を見ている。何故と言いたげな目つきだ。
「帰ってくれ。機械が自分の生き死にを決定するなんて、大嫌いだ」
そう言いながら、再びドアの方へと視線を動かす。
数秒後、男はジェラルミンケースの中に商品を詰め込み直し、ドアを開け、出て行った。
「頭の半分が機械のあんたが、いまさら何言ってるんだ」
という捨てぜりふを残して。
居間に戻り、ソファに深々と座り込む。
手を伸ばし、テーブルの上のマグカップを取る。カップの中のコーヒーは湯気を立てていない。両手で包み込み、すするように口をつける。
苦い。
販売員が言ったのは真実だ。僕は脳の半分を機械に置き換えられている。
僕は三ヶ月前、浸食性脳破壊疾患だと診断された。狂牛病のようなものだと医者は言った。そのままにしておくと、半年で脳がゼリー状物質に変わってしまう病気だった。
医者は、十年前でしたら絶対に助からなかったんですよ、とも言った。
病気の進行は止められない。治療薬はない。だから医者は、僕の頭蓋に機械を仕込んだ。機械を使えば僕は生きられる。当時の僕は、どんな手段でもいいから生きたかった。手術は早ければ早い方がいいと言われ、僕は緊急手術に同意した。
頭蓋の中の機械が何を行うものなのか知ったのは、手術後一週間が経った時のことだ
僕の中の機械は、僕の脳神経網を読み取る。
その後、読み取った脳神経細胞を破壊する。
破壊した脳神経細胞を材料にして、等価な機能を持つ生体コンピュータが作られ、周りの神経網と接続される。
マグカップを持ったまま、僕は立ち上がった。台所にあるコーヒーメーカーのもとへと向かう。カップにコーヒーを注ぐ。
立ったまま、僕はその茶色い液体を口へと注いだ。
熱い。
熱さが喉を通り抜けると、口の中に苦さが残った。
苦いと感じているのは、僕なのか。それとも機械なのか。
コーヒーが全然おいしくない。僕の代わりに機械が感じていると考えるだけで、その味が偽物のように思えてくる。
流しにカップを無造作に置き、蛇口をひねって水を勢いよくその上にかける。水しぶきがちらちらと僕の頬に当たる。
冷たいと感じる。
僕は蛇口を締めて外へ出た。
すでにあたりは、夕暮れの紅い光に包まれていた。マンションの十一階からは、遠くまでよく見渡せる。雲間から、直線的な光が漏れている。下方では、人や車が細長い影を伴って往来している。
僕はエレベータを使わずに、非常階段を使うことにした。
底の薄いスニーカーから、階段が微かに揺れる振動が伝わってくる。こんこんという音がゆるやかな風にとばされている。僕は一歩一歩を確認するように階段を降りる。
頭蓋の機械は、脳細胞を破壊して、機械に置き換えている。
僕は何も考えずに同意したことに後悔し、自分なりに、僕の中で起こっていることを文献で調べた。この治療法が使われたのは、僕が最初ではない。年に数例ある。けれど、新しく、そして難しい治療法だったので、僕の事はさまざまなマスメディアで紹介されたらしい。僕は治療法に関することなら何でも読みあさった。
『生体微小レーザー脱離イオン化法を用いてタンパク質を壊さずにイオン化、情報を読み取ったあとタンパク質を分解し、取り出した炭素原子を用いて、カーボンナノチューブをエミッタとした回路を構成している』
専門文献は、何を言っているのかがさっぱりわからなかった。僕が知りたいのはそのような事ではなかった。僕の頭の中でどのような物理現象が起きているかなんて、興味がなかった。
風が冷たい。心地よい風が左から右へと吹き抜けていく。ゆるやかではあるが確実に、眼下の景色が大きくなっている。
手すりに手を滑らせながら思う。
何もしていなければ、僕は今頃歩くことも喋ることもできなかっただろう。脳の半分がゼリー状になっていたはずだから。その代わりに僕は、脳の半分を機械にしてしまった。僕の意識、僕の心の半分は機械でできている事になる。けれど、僕はそのことを認識できない。僕は自分が連続性のある一体としての意識を保っていると感じる。
僕は、いつまで僕なのだろうか。
僕が僕でなくなる境界は、どこなのだろうか。
頭蓋の中の機械は、外部との通信を行う。メディカルセンターへと常に最新の情報を送り続けている。機械に異常があれば、その異常を直す為のプログラムが送られてくる。機械を最新のものにする為のアップデートプログラムも送られてくる。僕は頭から文字通り電波を飛ばしている。
それは、機械に制御されているのと同じじゃないのか?
心を機械に乗っ取られるのは、嫌だ。機械なんて大嫌いだ。僕は機械じゃない。人間だ。電波を飛ばしていても、人間だ。たまたま脳付近が電波を飛ばしているだけだ。義肢を持つ人間は誰でも、同じように電波による支援を受けてるじゃないか?
急に息切れがして、僕はその場にしゃがみ込む。お尻から階段の冷たさが駆け上がってくる。胸を押さえて、吐き気をこらえた。
頭の中で最悪の思考が回り始める。
あと三ヶ月経った時、僕は義肢そのものになってしまうのか?
首を振って、その思考を追い払おうとした。だが、一度回り始めたらなかなか止まらない。思考が負のフィードバックを始めていた。どこまでも続く悪循環。寒気が身体全体を覆う。全身の毛穴が開いてしまったかのようだ。
今、僕は半分が機械だ。でも、僕は僕を一人の人間だと感じている。半分ではないと感じている。じゃあ、もっと病状が進んだら? 僕はもっと機械になる。でも僕は一人の人間だと感じるだろう。進めば進むほど、僕はより機械になる。でも僕は自分が機械に置き換えられていくとは感じない。じゃあ、全部が機械になったら? それでも僕は自分が何も変わっていないと感じるんじゃないのか?
「でもそれは、機械がただ『僕は人間だ』と言っているのと同じじゃないのか……」
僕は口に出してから、その意味を理解し、恐怖した。頭の中に恐ろしく明晰なイメージが思い浮かぶ。
毛穴という毛穴が開き、その穴から電波を受信している、僕。
吐いた。
金属の床に僕の汚物がぶちまけられる。口の中が酸っぱい。過去に食べ物だった固体や、かぎりなく色々なものを混ぜ合わせたような液体が、僕の口から出てきている。
安堵した。
生きている。僕は僕として残っている。機械に奪われてはいない。機械に屈してはいない。人間として活動している。
僕はふらふらしながら立ち上がり、手すりにもたれ掛かった。背中に鉄の棒の冷たい感触がある。冷たさを感じているのは、僕だ。機械じゃない。
両手で髪の毛を掻きむしる。指先で髪を絡め、ぶちぶちとちぎる。僕の髪の毛の一部は、データの送受信用アンテナになっているからだ。
自分のあずかり知らぬところで、自分が変わっていくのは耐えられない。勝手に頭の中をアップデートされるのは気にくわない。アップデートした瞬間に、僕は僕で無くなるのかもしれないから。残っていた僕は消えてしまうかもしれないから。ただの機械になってしまうかもしれないから。
『メディカルセンターへの広帯域接続が切断されました。復旧してください。狭帯域接続では、転送量が不足するためアップデートが受けられなくなります……』
脳の中で、僕以外の声が警告している。
マンションの五階の非常階段で夕闇を背にしながら、僕は笑った。
脳が着実に、連続的に機械に置き換えられていっても、僕は僕自身を保つ自信がある。脳が半分になっても僕は僕を維持しているのだから。けれど、アップデートという非連続変化は、僕を僕でなくするかもしれない。
アップデートさえなければ、僕は僕を保つ事が出来る。
もちろん、狭い帯域でも一応はメディカルセンターへと繋がっている為、僕の異変はすぐに気づかれるだろう。そして、すぐに僕はメディカルセンターにつれていかれ、アンテナの修理をされるのだろう。
でも構わない。
僕には僕を保つ為の方法が残されているとわかったのだから。
僕は階段を降りるのをやめ、昇り始めた。
だが、僕はメディカルセンターにつれていかれなかった。
二日後に、機械が狂ったから。
薄れ行く意識の中、最期に脳内警告を受け取った。
『WORM_BRAINBLASTに感染しました』
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9/20/2003
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