第八節 エトランゼの軍師

 ソーズウェルとディオウルの間に広がる平原に野営用の天幕が幾つも並べられている。

 そこに幕屋を広げ、待機中のエーリヒ軍精鋭部隊の間を縫って、全身に戦の傷跡を刻まれたラウレンツ率いる先遣隊が合流した。

 部下達に休憩をとらせたラウレンツは、兵士から水を受け取るとそれを一気に飲み干して、ろくな休憩も取らずに真っ直ぐに軍団の最奥へと向かって行く。

 見張りの兵士達を押し退けるように退けて辿り付いたテントの中には、普段通りの飄々とした顔で地図を眺めているエトランゼの男がいた。

「戻ったか、ラウレンツ殿。本来ならば手前自慢のスイーツで出迎えたいところだが、生憎と今は用意していない。許せ」

「そんなことで怒るかよ。軍師殿、質問があってきた」

「ディオウルから撤退させた件についてか? あれ以上あの場所で戦っても益はないと判断してのことだ。事実、あの場所に戦略的価値はない」

「そりゃそうかも知れんが、それ以外の価値があるだろ。ディオウルを奪われたとあってはモーリッツ卿からエーリヒ総大将への追及は避けられん」

「それについては問題ない」

 長身痩躯の男、ルー・シンが目配せすると慌てて控えていた兵士が椅子を持ち、疲れているであろうラウレンツに座るように促す。

「すぐに取り返せば済むだけのことだ。ラウレンツ殿は兵達に休息の命令は出しているな?」

「ああ、そりゃな」

「流石、迅速な指示には感心させられる。簡単な食事と傷の手当ての準備は整えておいたので心配するな」

「……そりゃ、こっちとしてもありがたいけどよ」

 椅子に深く腰掛けて、ラウレンツはようやく一息ついた。少なくとも目の前にいる男はさして焦ってもいない。それはまだこの戦いに勝機があるということなのだろう。

 だが、ルー・シンが落ち着いている理由は全く別のところにあった。

「で、軍師殿。恥ずかしい話だが、こっちはもうこっぴどくやられてる。ここからどう逆転するんだ? ……そういや、あいつは何処行った? カーステンとか言う狂信者は?」

「カーステン殿は先にこちらに合流し、丁重に領地にお帰り頂いた。彼の上にいる者の書状を受け取っているので、素直に従って貰えたよ」

「こういうことは言いたくねえが、この戦いあいつの所為で負けたんだぜ? よくもまぁ、ぬけぬけと帰れるもんだ」

 そうは言っても、これ以上カーステンが前線にいたところで敵味方共に不要な犠牲が増すばかりなので、複雑なところではあるが。

「あれはあれで重要なのだ。心を痛めず自国民を殺せる者など、そうはいない」

「願うことならそんな奴は一人残らずこの国からいなくなって欲しいもんだね」

「違いない」

 カーステンの上にいる者、恐らくは五大貴族の誰かであろうが、今後ともヘルフリートに進言し彼のことを使わせるだろう。

 信心を盾に汚れ仕事を実行できる。それはそれで充分に使いようのある駒なのだから。

「それで本題だが。逆転の手はない。というよりも、最早この戦は負けているのだ」

「あぁん!?」

 思わずラウレンツが大声を出して、その迫力に傍に仕えていた兵士が身を竦ませる。

 一方のルー・シンは全く驚いた様子もなく、冷静に話を続けた。

「それはそうだろう。侵攻を開始した第一陣は打ち破られ、防衛を許したばかりか反対に三つもの街を失った。こちらは何一つ目的を達成できず、イシュトナルは充分に果たしている」

「じゃあどうすんだよ? 軍師殿はまさかそれを言うためだけにここに来たのか?」

 元々この戦いに関してはラウレンツも本意ではない。全く意味のないものとすら思っているのだが、負けっぱなしで帰れるものでもない。

「違うとも。負けは負けなりに得るものを頂いていく」

「得るもの?」

「ラウレンツ殿からして、今後国の情勢はどのように推移していくと考えられる?」

「そりゃ……。この戦いが負けって言うなら、イシュトナルは勢い付くだろうよ」

「だが、奴等に王都侵略の意志はない。奪った街と捕虜の返還を条件に和平と自治区の独立を認めさせるだろうな」

「それをヘルフリート陛下が断ったらどうなる?」

「断れぬよ、今はまだ。ヘルフリートは貴族達を掌握しきってはいない。後数ヶ月もすれば判らんが、現状でそれをすることは反乱を招く恐れもある。事実、今ですらイシュトナルに呼応して旗を上げる貴族達がいるのだから」

「そりゃ初耳だぞ? そいつらはどうなってるんだ?」

「エーリヒ殿が手ずから説得を試みている。五大貴族の一人、武門のヴィルヘルムに睨まれては気勢も削がれるというものだ」

「全部、あんたの掌の上ってことか」

「ならばいいのだがな。生憎と手前にも予想できないことはある。この度の件も手前が参上する前にはラウレンツ殿が勝負を決めていると思っていたのでな」

「耳が痛いぜ」

 そう言って、両耳を塞ぐ仕草をするラウレンツ。

「そういう意味ではない。カーステンの暴走は読めなかったし、何よりも敵方の新兵器は全くの予想外だ。ここまで言えば、手前が万能でないことは理解してもらえたかな?」

「お、おう」

「結論を言えば、イシュトナルは自治を認められるだろう。そして南側は今まで以上に発展する。ここまでは別に問題ない。同じ国なのだから、ヘルフリートが妹に頭を下げればそれらを纏めて吸収することすらできる」

「……それをやるかね、ヘルフリート陛下が」

 ラウレンツはヘルフリートとまともに話したこともないが、その苛烈な性格は耳に入っていた。

「無理だろうな。となれば何年の後かにもう一度戦だ。そうなる前に取り除かなけえればならない者達がいる」

「『ネフシルの悪魔』って呼ばれてる奴か?」

 ラウレンツが直接対峙したわけではないが、凄まじい戦いぶりからそう渾名されたエトランゼが、兵士達の間で話題になっていた。

 実際に彼が最初に悪魔と呼ばれた場所はエルプスなのだが、兵達の間ではネフシルでの虐殺が原因で生まれた恨みによって生まれたなどと、そんな与太話が通るほどに兵達の間で恐怖として刻み込まれている。

「やはり、ラウレンツ殿は武人なのだな」と、ルー・シンは笑う。

 この軍師殿が人を食ったような態度を取るのはいつものことだが、敗戦の負い目もあるラウレンツは少しばかり卑屈な態度を取る。

「へーへー、所詮前線で槍振るだけの男には軍師殿の考えは理解できねえよ」

「卑屈になられても困る。それを言えば手前とてラウレンツ殿の戦場での判断力を真似することはできないのだから。……ネフシルの悪魔ともう一人。今回の件を描いた男だ。奴があれだけの兵器を用意し、その運用を学ばせ、そして戦いの全容を組み立てた」

「相手にも軍師殿みたいな奴がいるってことか? やれやれ、エトランゼってのは戦に特化した種族なのか?」

 ラウレンツはエトランゼを差別しないが、同時にあまり理解もしていない。他の世界から来るとは聞いているが、感覚的には不思議な力を使う余所の部族と言ったところだ。

「そうでもない。イシュトナルにある様々な資源を運用し、短期間であれだけの精兵を育てた手腕は称賛に値するが、戦に関しては素人が兵法書を読んだ程度の手際。平時であれば優れた男だが、戦には向かぬ。事実、手前ならばろくな防御もないディオウルに留まったりはせぬ」

 ルー・シンが同じ状況にいたとするならば、正面三方を敵に囲まれるディオウルには留まらない。ヨハンがそれをしてしまった理由は恐らく、本人の中でも無意識のうちに、これ以上の結果を望んでしまったことだろう。

 その欲を、ルー・シンは的確に付こうとしていた。

「なるほどね。俺にもようやく判った。そんな奴に平和な時間を、準備をする期間を与えちゃならないってことか」

「然り。今後もヘルフリートが南方と戦を望むなら、それは大きな障害となるだろう」

 エレオノーラがイシュトナルに居を構えてからの南方の発展は目覚ましいものがある。元々広大な農地が広がっていた土地なのだから、むしろルー・シンからすればそれを放置していたオルタリアの正気を疑うところではあるが。

 やがて都市が建ち、兵力は増え、エトランゼ達を迎え入れた強い軍が出来上がるだろう。国内にそんな危険な連中が異なる政府で存在しているなど、それは国として破綻している。

 だが恐らく、ヨハン一人がいなくなればその活動は大きく遅れる。幾らでも付け入る隙もできるだろう。

「で、軍師殿。ディオウルにいる連中を打ち取る作戦はもうあるんだろ?」

「既に準備も八割方な。我々は深夜にここを立ち、朝日と共にディオウルを包囲する。後はそのまま殲滅するだけだ」

「……それだけか?」

「その通りだか?」

 ルー・シンの口から出た作戦は、拍子抜けするほどに単純なものだった。それこそ、ラウレンツですら思いつく。

「もっとこう、軍師殿ならではの奇策とかを披露してくれるもんだとばっかり」

「期待に応えたいのは山々だが、生憎と兵法は然るべきときに的確な手段を取るのが最上。兵力でこちらが勝っている以上、下手に凝ったことをして敗北の可能性を上げては、むしろ愚策というもの」

「……まぁ、そりゃそうか」

 多少がっかりした部分はあるが、それでこそエーリヒが信頼を置くエトランゼだと、ラウレンツは改めて感心していた。

 確かにルー・シンの言う通り、状況の打開に奇策が必要なことはあるだろうが、今はもうその段階ではない。

 ディオウルという檻に閉じ込められた敵軍を仕留めるのに余計な策は要らない。むしろ確実性を期すことこそが最も重要だった。

「ではラウレンツ殿。仮眠でも取った方がいい。そちらの兵にも最大限、動いてもらうのだからな」

「……そりゃそうか。今日戦場から戻ってきたばっかって言っても……」

「遠慮はできぬ。敢えての奇策というのなら、本来あらば休養を取らせるべきであるところを破り、酷使していることだからな」

 そう言って酷薄に笑うルー・シン。

 その嫌な笑顔に見送られながら、ラウレンツはふらふらと天幕を後にするのだった。


 ▽


 次第に夜も深まった時間帯。

 占領し間借りしている街の広場と、その横に建てられた講堂で今後のことについての事務作業をしていると、外が妙に騒がしい。

 何事かとヨハンが仕事を切り上げて、執務室を出ると、普段は芝居や弁論大会などに使う、百人程度が入れるホールで、イシュトナル軍の兵達が酒を飲み騒いでいた。

「あいつら……」

 吹き抜けになっている二階部分からそれを見下ろし、咎めようかとも思ったがすぐに思いとどまる。

 ヴェスターが中心となって、エトランゼとオルタリアの国民達が騒いでいる。

 それは戦いが一段落したことに対する安堵が大きいのだろうが、それでも確かにエトランゼとこの世界の住人が融和している姿だった。

 一階に降りると、階段に腰かけて駄弁っていたオルタリア人二人のうちの片方がヨハンに気付いて、酒の入った盃を差し出してきた。

「ようやく出て来ていただけましたな、大魔導師殿」

 酒で赤ら顔になった中年のその男は、にこやかにヨハンにそう声を掛けた。

「大魔導師殿はやめてくれ。あくまでも弟子に過ぎない」

「それは失礼。それでは大魔導師の弟子殿でよろしいか?」

「お前、そりゃ長すぎるだろ。ここは一つ兵達の間で流れている噂に乗っ取って、婿殿というのは如何でしょうか?」

 そう言ったのはもう片方の髭面の男だ。こちらも随分と酔っているのか顔は赤く、酒臭い。

「婿殿?」

「いやぁ、我々兵卒の間ではやはりエレオノーラ姫のお相手なのだろうかと、そんな噂と共にこう、やっかんでおりましてな。あんなお美しい姫君といい仲になるなど上手くやったものですなぁと」

「おいこら! それを本人に言う馬鹿があるか! へへ、すいませんね、ヨハン様。こいつ酔っぱらってあることないこと言ってるだけでして……」

「別に構わんが、それは根も葉もない噂だ。俺とエレオノーラ様の間には何もない」

 既に風呂場で何杯か飲んでいるのだが、受け取ってしまった以上無下にはできぬと、盃になみなみと注がれた麦酒を一息に飲み干す。

「おぉ! いい飲みっぷりだ! ヨハン様は結構イケる口ですなぁ!」

「ささ、もう一杯もう一杯」

「いや、すまないが遠慮しておく。まだ少しばかり仕事が残っているからな」

「はぇー。流石偉い人は違うなぁ。俺達の何倍も働いてるや」

「そんなことはない。……戦場で命を賭けているのは、貴方達だ」

 エトランゼではない彼等は、巻き込まれただけの人々だ。

 エレオノーラの理想に共感したのかも知れないが、それが彼等に目に見える利益をもたらすのはもっと先の話。

 こうして戦場に出ていれば、それを受けることなく死んでしまうことだってありうる。

「そりゃ言いっこなしですぜ」

「そうそう! 俺達はヨハン様には感謝してるんですから」

「それはお互い様だ。貴方達の協力がなければイシュトナルは実現しなかった」

「だったらそれ以上はなしにしましょうや! 俺達はエレオノーラ姫と、ヨハン様を信じた。お二人が作るこの国の先が見たいんですよ」

「半信半疑でこっちに来たけど、向こうにいたときよりもいい生活ができてるしな?」

「そうそう! エトランゼの女は美人も多いし! ただちょっと身持ちが固すぎるのが欠点だな」

「そこんとこ、ヨハン様のお力で何とかなりませんかね?」

「無理だな」

 にべもなく言われて、それでも何が愉快なのか二人は笑い転げていた。

 その間にヨハンは二人の傍を離れ、ホールの隅っこの方を通って外へと向かって行く。

 それを発見できたのは、その中では唯一酔っていない一人の少年だった。

「おい、何処行くんだよ?」

「……トウヤか。使いに出している密偵からの話を聞いて、今日の仕事は全部終わりだ」

「そっか……」

 トウヤに声を掛けられて立ち止ったはいいものの、特に何かを話すわけでもなく、二人は並んで小さな宴を見つめていた。

 そしてヨハンがその場を立ち去ろうとすると、トウヤが意を決したように何かを口にする。

「……いい光景だな」

「……? ああ、そうだな」

 トウヤの意図は判らないが、悪い意味で口にしたのではないだろう。

 ヨハンはそう判断して、一言だけを返すとその場から去っていく。

 残されたトウヤは、二つの世界の住人が入り混じるその光景を、黙って見つめ続けていた。


 ▽


 ヨハンの元にエーリヒの軍がディオウルを包囲しているとの知らせが届いたのは、夜も明け始めたころの時間だった。

 仮眠を取っていたヨハンは飛び起き、伝令の兵を叱咤する。

「斥候はどうした?」

「そ、それが……。敵の動きが迅速で、それに……懐柔された者もいたようで、情報の伝達に不備が……」

「すぐに兵を起こせ。民間人を避難させ、街の中で防衛戦を行うぞ」

「はっ!」

 返事をして伝令の兵が駆けていく。

「……これは、俺の落ち度か」

 何故、ディオウルに留まってしまったのか。

 攻めるにしても退くにしてもすぐに選択していればこんな事態は起こらなかったというのに。

 この状況からすれば、その僅かな隙を狙える将を相手にしているということが、ヨハンにとっての不幸だったと言えるかも知れない。

 だからと言って油断するべきではなかったのだ。ヨハンはそれらの人物に一度会っているのだから。

 五大貴族にしてオルタリアに仕える武門の家柄、ヴィルヘルム・ホーガン。そして彼が重用する切れ者、ルー・シン。

 それを相手にして隙を見せた、このままいけばソーズウェルを牽制し、モーリッツと交渉する機会が得られるかも知れないと欲をかいた結果がこれだ。

 その責は、ヨハンが取らなければならないだろう。最早作戦は成功している。後はどれだけ兵達の命を救えるかだけに注力すればいい。

 後は掛けておいた保険が、どの程度機能するかにかかっていた。

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