第十五節 彼女達の意志
異形の大群が近くに迫っている。
その報告を受けたエレオノーラは、直ちに領内にいる全戦力を集め、迎撃部隊を組織した。
しかし、ディッカーが連れていったこともあってかその数はもう百にも満たず、それでは避難民が脱出する時間を稼ぐこともできそうにない。
「エレオノーラ様。ここは我等に任せて、お逃げください」
あの時、集落で出会った若い兵士が覚悟を秘めた瞳でそう言った。
「ならぬ。妾はオルタリアの王族だ。そなたらを、民を護る義務がある」
「……ですが、たったこれだけの戦力ではここが落ちるのも時間の問題。姫様、正直に申し上げて、ここでの死は無駄死にです」
「無駄死になどと! ……死ぬなど、言うでない……。誰も死にに行くのは許さぬぞ!」
「……姫様」
エレオノーラは兵士に背を向けて、駆けだした。
彼女が向かった先は、エトランゼ達が集まる一区画。そこの広場には、この危機に対してなおも行動を起こそうとしないエトランゼ達が、大勢で屯していた。
彼等はエレオノーラがやって来たことで一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、すぐに関心を失う。
そんなことよりも彼等にとっての問題は、広場の中心で地面に敷かれた布の上に座って、勝手に食料を食べている一人の男にあった。
「……お前は……」
「よぉ、姫さん! なんだ、わざわざお礼を言いに来てくれたのか? 意外と律儀なんだな」
「何故妾がお前に礼を言わねばならぬ!」
「なんだ、まだ聞いてないのかよ。お前さん達が見捨てて逃げてきたヨハンの奴を連れて来てやったんだよ。今頃あっちで美人のねーちゃんに看病されてるぜ」
「ヨハン殿を?」
小さな希望が灯るが、エレオノーラはすぐに頭を振ってその楽観を打ち消す。
大怪我をしているのなら、すぐに戦線に出れる状況ではない。それになにより、これほど事態が切迫してしまっては、ヨハンが目覚めたところで何も変わりはしないだろう。
恐らく、彼もエレオノーラに逃げろと進言する。そんな予想ができた。
「それは、助かった。しかし、何故ここにいる?」
「何故って……。まぁ、俺はもともと風来坊だからな。面白そうなことがありそうだからイシュトナルに行ってみたのさ。そしたら驚いたぜ、まさかあんな化け物がいるとは思わなかったぜ」
「ウァラゼルと、御使いと戦ったのか?」
「ああ、戦った。つってもまぁ、情けない話だが」
手に持っていた干し肉を噛み千切り、飲みこんでからヴェスターは言葉を続ける。
「全然、俺の自慢の魔剣じゃ話にならなかったぜ。仕方ねえから適当に攻撃して、相手が防御に回ってる隙にヨハンを拾って逃げてきたってわけだ」
目の前の男でも、ウァラゼルには敵わない。
本人がそう宣言したことで、広場に一瞬だけ生じた前向きな空気は霧散した。
「……何故、お前はここに来た? 逃げるのならばもっと遠くへ行かなければ意味がないのではないか?」
「あん? なんで逃げる必要があんだよ? あの阿呆が転がってた所為で気が散って本気が出せなかったんだよ。次は本気でぶっ潰す。で、腹減ったからここに来ただけだ」
腹が一杯になったのか、今度は樽から酒を注いで勝手に飲み出した。
限りある食料を勝手に奪って行くような凶行にも、他のエトランゼ達は口を出すことができない。
それだけ目の前の男が恐怖だった。魔剣士ヴェスター。エトランゼも何も関係ない、どちらにも平気で手を掛ける狂犬。
そこでようやく、エレオノーラは目の前の男と会話をしている場合ではないことを思い出した。
ヴェスターから視線を外し、エトランゼ達の方を真っ直ぐに見る。
「今、異形の大群がこの地に向かっている。それに対して妾達の出せる戦力は百名にも満たない。頼む、そなた達エトランゼの力が必要だ。オルタリアを……いや、違う。ここにいる民達を救うためにも、力を貸してくれ!」
エレオノーラの良く通る声が響き渡る。
それはその場にいた全員に届いたはずなのに、返事はすぐに来なかった。
「戦って、何になんだよ」
人の間から、そんな声が聞こえる。
それを言ったのは、かつてヨシツグと一緒に戦っていたエトランゼの男だった。
彼はその場を代表するように歩み出てきた。
「俺達が戦って、連中を追い払って、何が変わる? 何も変わらねぇ、また差別される日々に戻るだけだ! そうならないために戦ってきた、なのによぉ……!」
ヨシツグの裏切りが彼等に与えた影響は余りにも大きい。
彼は間違いなくエトランゼ達の纏め役であり、心の支えだった。彼の語るエトランゼの国こそが、彼等が立ち上がるために必要な目標だった。
それを失ってしまってはもう、どうやって自分の足で立てばいいのか判らない。
「それは、約束する! もしこの戦いが終われば、妾の名に賭けてエトランゼ達に悪いようにはしないと……」
「口だけでそう言われたって信用できるかよ!」
粗野なその男は、吐き捨てるように言い返す。
「……ならば……。ならばどうすればいい? 地に頭を擦り付けろと言われればそれをしよう。身体の一部を差し出せというのならば持って行くがいい!」
だが、エレオノーラとてここで引き下がるわけにはいかない。
その迫力に押されたのか、男が一歩後退る。
「エレオノーラ様!」
焦った様子の兵が走ってきたことで、エレオノーラは状況を察した。
もう残された時間は多くはないと。
「判っている。そなた達は各自で防衛線を敷いてくれ」
「……判りました」
指示を受けた兵士の不安そうな顔がエレオノーラの瞼に強く焼き付く。
それでも彼は彼女を信じて、恐怖を押し殺して戦場へと向かって行った。
「もう時間がないのだ……!」
その声は涙声になっても誰も発言しない。この嵐の時が過ぎ去るのを待っているかのように。
だが、この時間は過ぎ去らない。もし終わりがあるとすればこの場所が異形の大群に蹂躙される時だ。
発言がないなか、ヴェスターが飲み食いをする音だけが響く。そんな静寂を打ち破ったのは、この場に似つかわしくないほどに軽快な足取りで近付いてくる誰かだった。
「エレオノーラさん! ……って、なにしてるの? なんか帰りのホームルームで先生が怒ってるときみたいになってるよ?」
そんな能天気な声を上げてカナタがその場に現れる。
「ヨハンさん、助かったって! サアヤさんが必死で治療してくれたから何とかなったよ! あ、そもそもまだ報告してなかった……。えっと、そこの人がヨハンさんを連れて来てくれて……」
「そこの人ってのは随分だな」
「ボクまだ怒ってるんだからね! ちゃんと謝るまで許さないから!」
「おっかねぇ。悪かったよ。からかい甲斐がある奴みるとつい、な」
「つい、じゃないよ! やっぱり許さないからね! ……って、そんなこと言ってる場合じゃないよね。敵が来てるんでしょ?」
気合いを入れるように、カナタは右手を振るう。
細く頼りない、しかし不思議と人を惹きつける輝きを持つ極光の剣が、彼女の手の中で煌めいた。
「カ、カナタ? そなた、何をするつもりだ?」
「なにって……。ボクも手伝うよ! ヨハンさんとか、逃げてきた人達とか、この人達とかがいるんだもん、頑張らないと!」
「いや、それは……」
――この少女には、敵わない。
勝算とか、そんな話ではない。
彼女はただ、目の前に護らなければならない人がいる。護りたい人がいる。
ただそれだけの理由で、勝ち目など全く考えずに駆けだすことができるのだ。
「……怖くないのか?」
「え、うーん……。怖いけど、それはこの世界に来てからずっとだし……。何より、それはみんな一緒でしょ? 兵士さん達も、エトランゼも、誰だって怖いけど一生懸命やってる。ボクだけが逃げるわけにはいかないよね」
どれほど愚かで、どれだけ真っ直ぐなのか。
彼女の言葉を聞くだけで、溜まっていた泥が綺麗に洗い流されていくような、そんな気がしてきた。
「……おい、てめぇ!」
エトランゼの男が荒い声を上げる。
「え、何ですか!? ボク、何か悪いことしました!?」
「ここで戦って何になんだよ! 結局あの御使いとかいう化け物には勝てねぇし、そもそもここを護りきれるかも判らねぇ。何より勝ったとしてもな、俺達エトランゼには何も残らねえかも知れねえんだぞ!」
「あー、うん。……そうかも」
「そうかも、じゃねえよ! お前馬鹿か!」
「馬鹿じゃないよ!
……ちょっと考えるのが苦手なだけです」
カナタは頭を抑えて、考え込むような仕草をしてから、
「残るとか、残らないとか、そんなのやってみるまで判らないじゃないですか。少なくとも死んじゃったら全部なくなっちゃうし、ボクはそんなの嫌だから、戦うって決めました」
「戦うって……。あの化け物にどうやって勝つんだよ!」
「判りません!」
「ふざけてんのか!」
「ふざけてません!」
睨まれても、怒鳴られても怯みもせずにカナタはそう言い返した。
「勝つ方法も、どうすればいいかも判りません。だから、ボクはボクにできることを精一杯やります。きっとヨハンさんがあいつの倒し方は考えてくれるし、戦いに勝った後のことは……」
一瞬だけ、カナタはエレオノーラを見る。
「エレオノーラさんが頑張ってくれます!」
きっぱりと、そう言い切った。
「だから、それが信用できねえって言って……!」
「なあ、嬢ちゃん」
ヴェスターの静かな呼びかけに、男は言葉を失う。
「随分とヨハンのことを信用してるじゃねえか。もしあいつが何も思いつかなかったらどうする?」
「え? ……うーん、そしたら一緒に考えればいいんじゃない? その時はみんなで」
「それでも思いつかなかったら?」
「そしたらその時また考えれば……」
「つまり、なにも考えてないってことじゃねえかよ」
その突っ込みに返す言葉をカナタは持っていない。
「う、そうかも。で、でもヨハンさんなら大丈夫です! 絶対、きっと、多分……」
「なんでそんなに前向きなんだよ? 何がお前さんをそんなにさせるんだ?」
「……いや、知らないよそんなの」
含みのある問いに対しての答えは、白けたものだった。
「あん?」
「ボクはこうだからこうなの。別に根拠もないよ。なんとなくできるって思ってるだけで、諦めたくないだけだもん。っていうか普通、そんなことにいちいち理由なんかつけないし!」
それを聞いて、一瞬きょとんとした顔をしてから、ヴェスターの表情が歪む。何かを堪えるように俯いて、しかし数秒も待たずに決壊した。
「く、ははははははっ! あーっはっはっはっはっはっはっはっは! 嬢ちゃん、お前さん最高だ! いや、本当、俺はてっきりヨハンがロリコンになったのかと思ったが違ったわ!」
腹を抱えて、地面を転がり回って、ヴェスターはようやく笑いを止める。
「いや、そりゃそうだ。ごもっとも! お前さんは正しい!」
カナタの傍に寄り、その頭の上に手を乗せてぐりぐりと振り回す。
「うわわっ、なに!? ボクまだ許してないって言ってるでしょ!」
「謝ったじゃねえかよ。ったく、細かいのは師匠譲りか?」
「確かにヨハンさんは細かいけど……。って、ボクは全然細かくないからね! エレオノーラさんの命狙ったことも忘れてないから!」
「ああ、悪かった悪かった。その代わりってわけじゃねえがよ」
地面に転がっていた柄を持ち、一息にその大剣を持ち上げる。
剥き出しの禍々しい刀身を肩に担いで、ヴェスターはいつもの凶悪な笑みを見せた。
「手伝ってやるよ。そこの腰抜け共に変わってよ」
「いや、別に要らないけど……」
「要らないってこたねえだろ? こいつら全員より俺の方が強いぞ?」
「だって怪しいじゃん! なんで急に仲間になってくれるのかも判らないし」
「いや、判れよそのぐらい! ……お前さんのことを気に入ったからさ」
バンと、強く背中を叩く。
「いったぁ! やっぱり来なくていいよ! セクハラおじさん!」
「背中はセクハラじゃねえだろ……なぁ?」
戯れにヴェスターが男にそう尋ねるが、答えは返ってこない。
事態の急激な変化に驚いているのはエレオノーラも同様で、ようやく正気を取り戻したところだった。
「カナタ、それからお前も……。協力してくれるのか?」
「さあねぇ。どさくさに紛れてあんたを殺すかもな?」
「ほらね! 信用できないし、いいよ。ボクだけで行くから!」
「待て、カナタ!」
駆けだそうとするカナタに手を伸ばして、その足を止める。
一度大きく息を吸ってからゆっくりと吐きだし、エレオノーラは自らの決意を口にした。
「妾も行く」
「えっ? いやー、それは……。やめておいた方がいいんじゃないかなー?」
「いや、妾は間違っていた。言葉で語る前に、行動で示さんとするならば、真っ先にやらねばならぬことがあったことを忘れていた」
エトランゼの男の前に歩み出ると、エレオノーラは改めて彼に、彼等に深々と頭を下げた。
「すまなかった。人々の規範となるべき妾が、言葉を弄するだけでそなたらの命を預かろうなどと、傲慢にもほどがあった。思えば、まずこの世界のことは自分達で何とかして見せねばいけなかったのだな」
「お、あ、いや……」
「おかげで目が覚めた。安心してくれ。この地にはあの異形共を一歩も踏み入れさせはせぬ。だからもし、そなたらが妾の心を信じてくれるというのならば……。その時は、力を貸してほしい」
勝てる勝てないではない。
いや、勝たねばならぬ戦いだからこそ、全てを賭けなければらない。
エレオノーラにはまだ、支払えるものがあった。自分の命、多くのエトランゼ達がそれを対価にして日々の糧を得るように。
半分だけとはいえエレオノーラもエトランゼ。彼等に倣い、そうして見せることが、今この場で最も必要な行動だった。
「よし。これで迷いは晴れた。行くぞ、カナタ!」
「うん! ……エレオノーラさんはボクの傍を離れないこと! 絶対護って見せるから!」
「おいおーい。俺を忘れんなよ……。本当に協力すんのやめちまうぞ?」
駆けだす二人に、その後ろからヴェスターが歩いて付いていく。
背を向けてゆっくりと距離が離れていくと、不意に彼は立ち止ったエトランゼ達を見た。
「決めろよ、臆病者。臆病者のまま死ぬか、それとも違う何者かになって死ぬかだ」
「し、しかしよ……! 俺達エトランゼは……!」
「ばーか、関係ねえよ。剣で斬られりゃ死ぬ。炎に焼かれりゃ死ぬ、化け物に踏み潰されても死ぬ。エトランゼもこっちの世界の人間も変わらねえ。おんなじ人間なんだよ」
その獣は、大勢を殺してきた。
魔剣を振るい、多くの命を奪い、魂を消しさった。
その結果として知ったことは余りにも単純で、阿呆らしい事実。
全てのものには等しく死が訪れる。誰もが、一生懸命に今日を生きて明日を求めて、力が及ばないものが散っていく。
だからヴェスターは区別するのをやめた。エトランゼを差別しない相手にはそれなりの態度で接し、差別により不利益を被ることになったら容赦なく暴れる。
それは相手がエトランゼであるかどうかは関係ない。ムカつく野郎がいたから殺しただけの話だ。
それはずっと変わらない。
今度は「気に入った」奴がいたから助けるだけの話だ。それがエトランゼであるかどうかは、この際関係ない。
がしゃりと金属音がする。
男の背後では、エトランゼ達が武器を構え、鎧を纏って戦う準備を整えていた。
「へっ。単純なこった。だが、俺達はそんぐらいでいいさ。確かにあの嬢ちゃんの言う通り、面倒なことはそれができる奴に任せときゃいい。俺達は全力で生きるだけさ」
ヴェスターの視線は屋敷を見る。
彼が連れて来た、奇跡的に命が助かった旧友が眠るその場所を。
▽
「……ここは、何処だ?」
ヨハンが目覚めたのは、ディッカーの屋敷の一室。以前カナタが寝かされていた部屋だった。
大きなベッドの横には椅子が置いてあり、そこに座ったままサアヤがベッドに上体を倒すようにして眠っている。
「おい」
その身体を揺すると、サアヤは最初こそ寝ぼけて「おかあさぁん、もうちょっとぉ」などと言っていたが、薄っすらと開いた目と目が合って、たちまちに意識を回復させた。
「はっ! あ、あの……! ごめんなさい、その、リザレクションの連続使用で、疲れて……」
「いや。状況はなんとなく判る。どうやら助けられたようだな。……どうやって俺はここに?」
「あの、ヴェスターさんが運んできてくださいました」
「ヴェスターが……? それで、奴は今どうしている? いや、それ以前に今の状況は……」
開け放たれた窓かららは月が覗き、夜風と共に血の匂いがこの中にまで漂ってくる。どうやらこの近くで戦いがあったことは間違いないようだ。
「それは、その……。他の方から説明してもらった方がいいと思います。それじゃ、わたしちょっと呼んできます!」
立ち上がって、サアヤは部屋を出ていこうとして、扉に手を掛けておずおずと顔だけで振り返った。
「あの、わたしの……。寝言とか、聞いてませんよね?」
「……母親に長く会えないのは辛いものだからな」
「聞こえてるじゃないですか!」
素早く扉から出ていってしまうサアヤ。
「礼を言う暇もなかったな」
もう痛みは殆どない。身体中に包帯が巻かれているが、出血も止まっていた。相当長時間を治療に費やしてくれたのだろう。
しばらく待っていると、部屋に入ってきたのはエレオノーラだった。何故か鎧姿で、それも血と泥に塗れている。
「ヨハン殿! ……よかった、無事だったか」
「エレオノーラ様……。その恰好は?」
「三日前、ヨハン殿がここに運ばれてきた日に、異形達の大規模な進軍があってな。どうにかカナタやヴェスター、エトランゼ達の協力もあって退けたのだが、未だこの辺りには残党がうろうろしている。そこで、妾自ら指揮を執ってその殲滅を行っていたのだ。安心していいぞ、先程蹴散らした連中を最後にこの辺りの……うん?」
ヨハンはベッドの上で頭を抱えていた。
「……まさか、姫様自らが最前線で戦ったと?」
「うむ、どうだが? しかしカナタのあのセレスティアルは凄まじいな。あれを盾にして張り巡らせれば、どのような攻撃もこちらに届くことはなかった。もっとも、攻勢に焦ってしまいこの様ではあるが!」
誇らしげに、頬についた小さな傷を見せつける。治癒魔法を掛けずともすぐに消えてしまう程度の傷だが、彼女にとっては名誉の負傷なのだろう。
「……ふぅ」
「な、なんだ? 拳骨は駄目だぞ、妾はできる限りのことをしたのだ、称賛こそあれど、怒られるなどと言うことは……」
「本来ならば、拳骨を落とすところですが」
「なんと!」
「この事態を招いたのは半分は俺の所為なので、今回は勘弁しましょう。それよりも、状況の説明をお願いします」
それからエレオノーラから簡潔な説明を受けて、状況は大方把握することができた。
一先ずこの辺りは安全になった。戦力的に大きく劣った状態で異形を押し返せたのは、ヴェスターの驚異的な戦闘力と、何よりもエレオノーラが直接参戦したことによる士気の高さが大きい。
「この辺りはしばらく安全として、問題はディッカー卿とトウヤか。余計なこと、とは言えませんが」
「どういうことだ?」
「北部は放っておいてもよかったかも知れないということです。もっとも、民の被害を考えればディッカー卿の判断も正しいのですけどね」
「ふむ……?」
首を傾げるエレオノーラ。
「カナタとヴェスターはどうしてます?」
「なんぞ、剣の特訓をしているぞ。二人だけでなく、エトランゼや兵士達も参加してちょっとした催しになっているな」
「なら、この辺りはお任せして大丈夫そうですね」
ぐっと身体に力を入れて、ベッドから立ち上がる。
「病み上がりで無茶をするな!」
「無茶をしないでどうにかなる状況ではありませんね、今は」
「それはそうかも知れぬが……。と、言うことは何らかの策があるのか?」
「あるにはあります。そのためには北部にいるであろうある人物に会う必要があります」
「ある人物? ディッカーか?」
「違います」
流石にローブも荷物もウァラゼルにやられてぼろぼろになってしまったようで、ヨハンが見に付けられそうなものは何も残ってはいない。
「ハーマンはいますか?」
「あの怪しい商人ならいないが、選別にと幾つか荷物を残していっておる。それから、もし戻って来ることがあったらそなたに宜しく、などと言っていた」
「そうですか。ならその荷物を改めさせてもらいます」
どうしようもない状況と判っていながら、もし全てが解決した時のために僅かな恩を売っておく。
ハーマンという男は抜け目のない商人のようだ。
「北部に行くのだな?」
「はい」
「ならば妾も……!」
「駄目です」
「ヨハン殿ぉ……!」
以前もあったようなやり取りをしながら、ヨハンが部屋を後にしようとすると、思いの外強い力でそれが止められた。
「エレオノーラ様?」
エレオノーラは両手でヨハンの腕を掴んでいた。
目に涙を溜めてこちらを見上げるその姿は年相応というか、むしろそれよりも幼い子供のようにも見える。
「心配したのだぞ」
「それはまぁ……。申し訳ないことをしました。少し、軽率でした」
「大変だったのだぞ」
「……でしょうね」
ディッカーの姿がなく、エレオノーラ一人でこの場をどう収めたのか。その話を詳しく聞いている時間的余裕はないが、恐らく大変な苦労をしたであろうことは簡単に想像できる。
「だから、妾も連れて行け」
「それは駄目です。苦労をするのも貴方の仕事のうちですから」
「だったら!」
握る手に力が籠る。
振り返ると、エレオノーラの目から落ちた涙が床を濡らしていた。
「約束してくれ。妾の家臣として、決して命を粗末にしないことを」
「……判りました。エレオノーラ様の家臣として、決して命を粗末にしないことを誓います」
この命を心配して、泣いてくれる人がいる。
それは何と幸福なことだろう。
死に損ねた残骸が得るには、至上の幸せだ。
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