第8話 【リサ】9月29日(水)
数日ぶりに来てみた自分の部屋は、やはり異物の痕跡を残していた。台所にはコンビニの袋が積み重なっていて、テレビのリモコンの置き場所も変わっている。
わたしはベランダに出てたばこに火をつける。そして、今持ち帰るべきものを頭に浮かべる。
ケンジを追ってるあいつらは本物のやばい奴らだ。
だから写真やポイントカードなどわたしの情報がわかるものは全部持ち帰る。他の下着や洋服は、迷ったけれどすべて残していく。あのミキって女もこんな気持ちで全部を残して旅立ったのかもしれない。
ジュエリーボックスの中から、返し忘れたケンジの部屋の合鍵が出てきた。
あの部屋で最後にケンジと会った時、彼は「大金を手に入れてやる」と息巻いていた。付き合い出した半グレ集団をうまく出し抜いてやるんだと。
どうせできるわけないじゃんと軽く聞き流していたら、「俺をなめるなよ」と言い残し、そこから一度も会えなくなった。ケンジは家具一式を残したまま夜逃げするように姿を消した。
しばらくして頭の悪そうな女から連絡がきて、「ケンジと暮らしている」とえらく挑発的な声で告げられた。
それがわたしに対しての、ケンジなりの男らしさを示す方法だったのだろう。もしもそんなところを素直に嫌味なく認めてあげていたら今の環境も変わっていたかもしれない。
それから一ヶ月後、そこそこ仲良くしていた大家のおばさんから連絡があった。滞納している家賃を立て替えるか、せめて部屋の後処理をしてくれとお願いされた。
合鍵はそのまま持っていたし、勝手に部屋でケンジの帰りを待っていたこともあったので、わたしは家財道具の処理を業者に依頼した。
ケンジは財布と携帯だけもって着の身着のままいなくなった。お気に入りの革のコートを残していったのが気になったけど、一千万円を手に入れたと思えば納得だ。コートなんて何百着も買えるだろう。
もぬけの空になった部屋をこんなに広かったかと見回したのを覚えている。一千万らしきものも、それらしきものを業者が内緒で運んだこともなかったと思う。――目に見えた範囲では。
だから今日は、畳を剥がして床下を探す。天井裏にも上がって徹底的に探す。トールには汚れてもいい格好で来てくれと告げてある。
玄関でイパネマのビーチサンダルだけショルダーに詰めて部屋を出た。鍵をかけた瞬間にふと思った。一千万があってもなくてもきっとここには戻ってこない――。
十五時になって、トールがやってきた。
仕事を早退してくれたことに礼を言い、買っておいたケーキをふたりで食べた。とにかくトールには前向きに精力的に探索してもらわねばならない。
わたしはこの部屋に一千万があることを確信していた。それはただの直感だけじゃなくて、そう思える根拠がさきほど生まれた。
タケシの部屋の鍵を開ける時、ついケンジの合鍵を取り出してしまった。そこで、タケシから渡されている鍵と見比べてみると、まったく同じ形をしていた。
まさかなと思いつつ、ケンジの鍵を挿してみると、ぴったり合致した。大家のおばさんは適当なところが気楽で付き合える人だったけれど、鍵穴交換すらしなかったのだ。となると、今もケンジはこの部屋に自由に出入りできることになる。
ケンジとタケシの接点はなにもない。まさか無関係の住人の部屋に大金を隠すなんて誰も思いもよらないだろう。
「それじゃ、頼りにしてるからね」
わたしは笑いかけ、畳を剥がすために用意した千枚通しを、二本トールに手渡した。
「わかりましたよ」
残りのケーキを口に放り込み、トールが気合をいれた。
畳はすごく重くて、剥がしてどけるだけで時間がかかってしまった。すぐにトールに床下に潜り込んでもらい、ヘッドライトを頼りに隈なく探すように指示を出す。なにせ相手は十センチの厚さの紙幣なのだから。
そんなわずか十センチが、たったピンヒールほどの厚さが、人間を狂わせる。人生を変えてくれる。
今はそんなタイミングが来ているのだと感じる。決してそのタイミングは逃してはならない。
ふと気になって庭の方を振り返る。今ここに突然ケンジが姿を現すことだってありえるのだ。庭には誰もいなかったけれど、わたしはなんとなく千枚通しを手元に引き寄せた。
休み休み二時間かけて床下を探しても、なにも出てこなかった。スマホで写真を撮りながらかなり細かく探したので、ひとまず諦めるしかなかった。
時間がもったいなかったけれど、土まみれのトールにシャワーを浴びさせてやった。次は天井裏を探索してもらわなければならない。
トールが天井に上がったのを見届けて、わたしはお店に向かった。また三時間後に戻って来る予定だ。
表に出てアパートを振り返ってみると、灯りがついているのはうちの部屋だけだった。他の部屋は退去済みなのだろう。ますます好都合だ。タイミングはグッとわたしに向いている。
タクシーを飛ばして戻ってみると、トールはテレビを見ながらすっかりくつろいでいた。
天井裏にもなにもなかったとすまなそうな顔で言う。
床下にも天井にもないとなると、ちょっと手詰まりの感もある。でも、ないわけがない。というか、あってくれなければ困る。
トールは残念そうにしているけれど、わたしの目を気にしつつもチラチラとテレビに目を向けている。
「悪いけど、もう一回、床下を探してくれない?」
「え……」
唖然といった顔。そこから言葉は続かない。
「今度はもうちょっと深く掘ってみながらさ。埋まってるかもしれないじゃん」
トールの顔がわかりやすく曇った。
「トールはわからないかもしれないけど、あいつら本当にヤバいんだよ。あたし、殺されるかもしれない……」
テレビを消した。部屋が一気に静かになる。
トールの表情が険しい。ようやく事の重大性を認識したのかもしれない。
でも、続く言葉はまったくわたしが求めていたものではなかった。
「だったら警察に行こうよ。リサさんは巻き込まれた被害者なんだから」
「……バカなの? そんなことしたら、あたしもケンジも報復されるに決まってんじゃん。なんでそんなこともわからないの? あんたは裏の世界を知らないんだから黙ってて」
「だったら言わせてもらうけど、ケンジさんはどうして金を取りに来ないの?」
「それは、ほとぼりが冷めるまで近寄らないようにしてるんでしょ」
「だって、この部屋はノーマークなわけでしょ? 逃げるにしても絶対に金もって逃げるって」
「無理だよ。実際に人が住んでるんだから。こんな風に畳剥がしたりできるわけないじゃん」
積まれた畳に一撃、蹴りを入れてやった。
「できるって。あの人なら、ここの住人縛り上げてでも乗り込んで金持ってくって。そういう人でしょ?」
それは間違いない。しかも、ケンジはこの部屋に深夜でも日中でも自由に出入りできる鍵を持っている。
「トールが言ったんじゃん。ケンジがこの部屋に隠したって」
「だから、この部屋に金はあった。でも、もうないんじゃないの、って言ってんの」
言葉が出ない。そのことがイラつきを増す。なんでこんな男に言いくるめられなきゃならないんだ。
「でもね、取りに来れない事情がある場合は別だよ。ケンジがすでに捕まってるとか、殺されてるとか」
またも言葉に詰まる。その沈黙をどう感じたのか、トールは「いや、ケンジさんが、ね」と言い直した。
ケンジがすでに殺されている――。
ありえない話ではない。だから金の探索に行き詰まったあいつらは、わたしにまで調査を広げているのだ。でも、そのことは確実にどこかに一千万があって、奴らは手がかりがないことを意味する。
「リサさん、警察に行こうよ。一緒について行くから」
「だめ。仮にそうだとしてもわたしはお金を用意しなきゃいけない」
「そうしなくていいように警察に行くんだろ?」
「うるさい! 狙われてるのはあたしなんだよ!」
わたしは千枚通しをトールの足元に思い切り突き刺した。トールが身をすくめたまま動けずにいる。畳は柔らかい奥に硬い芯があるような感じだった。
「絶対にこの部屋のどこかにお金はある。わたしの直感は外れない……」
その時、家の電話が鳴った。
ビクリとして二人で同時に振り返る。時計を見ると、二十一時二分だった。タケシからの連絡だ。
わたしは無理矢理に笑顔を作り、「大きな声を出してごめん。でもね、わたし、本当に怖いの。お願い、助けて」
トールは何も言わなかった。イラついたが放っておいて、タケシに折り返しの電話を入れる。
「ごめん、ちょうどトイレ」
今度は電話の向こうのタケシに向けて笑った。
この部屋には住んでいる人間にしかわからない隠し場所があるに違いない。それを知っているのはタケシだけだ。
わたしはスムーズに話題が隠し場所になるよう誘導していく。
「あたしはね、大きさにもよるけどトイレのタンクの中かな。タケシくんならこの家のどこに隠す?」
お願い、わたしの予想もしないような場所を聞かせてほしい。
「……僕だったら、天井裏とか床下に隠すかな」
怒鳴りたくなる衝動を必死に抑えこむ。
「そんなとこまず探すよ。もっと意外なとこないの?」
つい突き放したような言い方をしたのは失敗だった。タケシは黙ってしまった。
もうこれ以上は時間の無駄だ。さっさと電話を切ろうとした瞬間、あの病んだ男は初めてわたしのためになることを言った。
「……庭、かな」
「庭!」
トールに顔を向けると、大げさに顔をしかめた。
「埋めるのは大変だけど、全部掘り起こすのも難しいし、見つけづらいと思うよ」
「そこは思いつかなかったよ。タケシくん、さすが! 頼れる大人!」
素直に彼を褒めてやった。それはわたしの本心だった。
「そうだよ、僕は頼りない男に見えるんだろうけど、何があっても絶対にサリナを守るから」
タケシは何か話し続けていたが、わたしはどうやって庭を掘り起こせばいいのかだけを考えていた。
「前の男がどんな奴か知らないけど、逆恨みで襲ってくるようだったら、僕はそいつを殺してでもサリナを守るから。嘘じゃないよ」
その言葉はわたしの胸を打った。タケシはあいつらを殺せるだろうか。いや、無理だろう。となれば、こうだ。
「……それって、あたしのために死ねるってこと?」
「もちろん」
「……信じていいの?」
わたしから誘いをかけたわけじゃない。あの病んだ男が勝手に話を進めているだけだ。
「僕もね、裏切られた時の悲しみはよくわかってるから。人を裏切るってことは殺されても仕方ないくらいの重い罪だと僕は思うんだ」
了解。そこまで覚悟が決まっているなら遠慮はいらない。
「タケシくん、もし仮にアイツがうちに来たら、ケンジと名乗って。あたしの兄貴の名前だけど、アイツ相当ビビってるから手を出してこないと思う」
「わかった。ケンジね」
「もうすぐだよ。わたしたちが分かり合えるまで」
これは嘘じゃない。あなたは明日、すべてを知ることになる。
バイバイと猫なで声で電話を切ると、トールがじっとわたしを見ていた。
「その男はケンジさんの身代わりってことですか」
「ご想像にお任せします」
「怖いヒトだよね、本当に」
「なんとでも言えばいいよ。優先順位ってもんじゃん」
「庭、掘るんだよね」
「うん、明日でいいからね」
トールが立ち上がる。思いつめたような顔で瞬きを繰り返している。この人は実は背が高かったんだな、なんてことを思った。
「リサさん、これだけは言っておくよ。俺の中での優先順位は、その男よりケンジさんより、リサさんが上だから」
そう言って口を結んだトールが、初めて年上の男性に見えた。わたしはトールの見立ても間違えていたかもしれない。
二人で一緒に部屋を出た。わたしはタクシーを探し、トールは市川の自宅へ向かう。
思えば、今日はまだ「公衆電話」からの着信がない。また店の前で待ち伏せしているかもしれない。
でもゴールに近づいている実感があるからか、それほど脅威には感じなかった。
明日は庭を掘りまくってやる。
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