第3話 【タケシ】9月28日(火)

 僕はミキとの同棲を機に初めて就職した。

 三十歳までフリーターだった僕を正規雇用してくれた会社は、まごうことないブラック会社だった。

 僕以外の社員は社長を筆頭に全員が半グレと世間で揶揄される世界の人たちで、当然僕は会社内外問わず思いっきり使いっ走りとされた。

 頭をはたかれるなんてのは日常茶飯事で、いちどお腹を殴られた時は息が止まるほど悶絶した。

 それでもミキとの結婚を夢見ていた僕は文句も言わずに耐えた。毎日、何度も逃げ出したくなったけど、ミキにかっこ悪い男だと思われたくなかった。

 実際のところ他にも逃げなかった理由はある。入社してすぐに先輩社員から笑いながらこんなことを言われた。

「黙って逃げたら、絶対に探し出して殺すからね♥」

 すごくフレンドリーに肩を叩かれたけど自然と両足は震えた。

 彼らの話の中には、人の生き死にの話が平気で出てくる。あくまで知り合いの話だとしてるけど、経験した人しか知りえないような具体的な話が当たり前のように飛び交った。

 ラジオからバラバラ殺人のニュースが流れた時のことだ。社長が「素人かよ」と笑うと、みなが続いて笑った。発覚するような捨て方をしたのが素人仕事なのだそうだ。

 僕は話に加わらずに黙って名簿整理をしていた。すると社長が近づいてきて丁寧に教えてくれた。

 人体の正しい解体方法と、正しい処理の仕方を――。

 もちろんあくまで人から聞いた知識として――。

 このことが決定打となり、僕は完全に逃げることを諦めた。

 絶望的な毎日もミキがいるから頑張れた。でももうミキはいない。

 僕は殺されてもいいから逃げ出そうと考えてもいたのに、皮肉なことにミキとの別れが僕の会社での立場を押し上げてくれた。

 自宅でひとりでいるのが耐えられないので、僕は猛烈に残業をこなした。お金をもらえないとわかっていても仕事をしている時間はミキを忘れさせてくれた。結果、朝一番に来て最後まで働く僕を皆が認めてくれるようになった。事務所の鍵の管理も任されるまでに。

 地獄のような先輩たちのいびりも、いざとなったら殺してやると思えると、不思議と耐えられた。

「なんか肝が座ったな。見た目はただのモヤシ野郎にしかみえないけどな」

 僕より二つも年下の社長に褒められた時は素直に嬉しかった。


 会社における僕以外の人たちのパターンはほぼ決まっていた。六時を過ぎるとそわそわし始めて、八時と同時に皆で連れだって飲みに出かける。僕は残業があるのでひとり残る。飲みに行っても楽しいことなど何ひとつないので、そこに不満はない。

 ただ、今の僕は残業などせずに急いで帰宅準備を始める。八時二十八分ぴったりに会社を出て、身を隠すように駅の改札を抜ける。そしてサリナの電話を待つ錦糸町へと急ぐのだ。

 体は疲れていた。だけど、充実していた。サリナと話していると疲れは吹っ飛んだし、明日への活力が湧いた。

 その日、マンションのエントランスをくぐったのは九時ギリギリだった。電車に飛び込んだやつがいたらしく、ダイヤが少しずれていた。

 急ぎ足でエレベーターを降りると、ちょうど隣室の玄関扉が開いた。

 怪訝な顔を向ける派手なパーマの婦人に軽く会釈を返して部屋に滑り込む。そして、九時ピッタリに家の電話がなった。慌てて受話器をとる。もちろん相手はサリナだ。

「タケシくん、今日もピッタリだね」

 そのひとことでじんわりと胸が温まる。コードレスの受話器を片手に器用にワイシャツを脱ぐ。

「ルールを守るのは当然じゃん。それに、錦糸町の方が職場に近いから実は楽になったんだよね」

「会社って新小岩だっけ?」

「そうだよ。商店街を抜けたとこ」

「新小岩って行ったことないけど、なにげに栄えてるよね」

「そうそう。あの街、飲み屋とかたくさんあるからさ、……今度行こうよ」

 今度――、僕はさらっと今後の誘いをかけてみたのだ。

「いいよ。でも……」

 でも? 僕は黙ってその先を待った。

「一週間後もそう言えるかな、わたしたち」

「言えるよ。言えるに決まってる」

 今度はサリナが黙った。でも僕には頬を染める金髪の美女が目に見えるようだった。

 そこから十分ほど、話を続けた。

 サリナは近所の美味しいお店とか安いスーパーとかの情報をくれた。僕も暮らしに役立つ地域情報を教えてあげたかったけど、思い返すとコンビニしか知らなかった。

 すまなそうな僕をかばうように、サリナは国道沿いのカフェやその奥の向島にある花街の話を聞かせてくれた。彼女はまるで住んでいたかのように僕より詳しいのだった。

 思えば電車路線は違えど曳舟と錦糸町はエリア的にそれほど離れていない。三〇分も歩けば行き来できる距離感だ。自分の無知を恥じるより、サリナの博識が誇らしかった。だって、僕たちは対立する必要はない。共に歩んでいくのだから。


 電話を切っても高ぶりが収まらず、夕飯を求めて外に出た。サリナの街を知ることでより二人の関係は深まるような気がしていた。

 錦糸町に抱いていた危なっかしいイメージと違い、少なくともスカイツリー側は健全に思えた。駅前は多くの人で盛り上がっていたけれど、少し歩けば穏やかな住宅街といった趣もある。

 不動産屋の前を通りかかり、何気なく張り出された物件に目をこらす。いずれのはなし、家族で暮らすには悪くない街に思える。なんにしろ安さと早さだけで決めた今の曳舟のコーポは半年後に取り壊されることになっている。

 視線の先にライトアップされたスカイツリーがそびえ立っている。初めて見たときに横にいたミキの顔がおぼろげだ。よく目を凝らしてみると、その顔は金髪のサリナだった。

 それでいい。そうやって辛いことを忘れていきながらみんな生きていくのだろう。

 僕は夕飯を求めて歩きまくった。サリナから聞いたお店はどうにも入りづらいところばかりで扉を叩く勇気がでない。それに、できればサリナの知らないお店を開拓したい思いもあった。そこで一人でビールを飲んでつまみをつつくことが、サリナと釣り合う男の条件のような気もしていた。

 覗いては怖気づくを何軒も繰り返し、結局入ったのはサリナのマンションにほど近い小料理屋のような店だった。決め手は客が一人しかいなかったことだ。

 カウンターに通され、並びに座る先客が僕を見た。どこか見覚えがあるなと記憶を辿ると、向こうも同じような目をしていた。その怪訝な顔で思い出す。隣人のご婦人だ。軽く会釈すると、おばさんはするすると僕の横に席を移した。

「あの子の新しい彼氏?」

 婦人はいきなり不躾に訊いてきた。

「いえ、彼氏ってわけじゃないですけど…•」

「だって合鍵持ってたじゃない」

 婦人は怪訝な顔を崩さない。どこか尋問されているようでもじもじと言葉に詰まってしまう。

「なに照れてんのよ!」

 どんな解釈だったのか、婦人は急に表情を崩して僕の肩を叩いた。酒臭かった。

 婦人は「良かった良かった」と勝手に喜んで、勝手に話し出した。

 どうやらサリナと前の彼氏の喧嘩は頻繁でかつ激しかったらしく、隣人として心配していたのだそうだ。

「ちゃんときれいに別れられたのかね。あの手の男は根に持ちそうだから」

「詳しくは聞いてないですけど、大丈夫みたいですよ」

「頭はバカそうだったけど力は強そうだったから、逆恨みされたらボクチャン大変だよ?」

 ボクチャン? 僕は背筋を伸ばす。

「それも大丈夫です。いざとなったら殺してやりますから」

 それは本心だ。サリナを守るためなら僕はきっとできる。

 僕の決意を婦人は一笑に付した。どうやら僕を完全に見た目で判断しているようだ。

 しばらくじっと見ていると婦人は、「いやー若いって、怖い怖い」と自分の肩を抱きながら離れていった。

 生ビールを一杯飲んで焼きそばを食べ終えるまで、婦人も誰も僕に話しかけてこなかった。

 帰路につき、タイル張りのエントランスを抜けた時に思った。次にサリナと引っ越す時はオートロックは絶対だなって。

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