エクスチェンジ
大橋慶三
タケシの場合
第1話 【タケシ】9月26日(日)
僕の初めての一人暮らしは最悪の結末を迎えた。ミキとの始まりの地となるはずだった東京の下町は、忌まわしき暗黒の地として僕の記憶に刻まれた。
でも、そんな僕に神様は奇跡の出会いを用意してくれた。あの時、あの場所に、たまたま僕がいたことで、サリナと知り合うことができたのだ。
「一週間だけ、お互いの部屋を交換しませんか?」
彼女が口にした突然の誘いは、僕の暗黒の記憶をきらめくブロンド色に塗り替えてくれた。
僕とサリナは観光地でもなんでもない住宅街の公園で出会った。
その朝は夏の復活を疑うような蒸し暑い日で、僕は池のほとりのベンチに座り、遠くに見えるスカイツリーをぼんやり眺めていた。
この場所からは池の向こうに並ぶ木立の隙間から奇跡的なアングルでスカイツリーを見上げることができる。いわば地元民だけが知る穴場のスポットだ。
この町に暮らし始めた三ヶ月前、ミキと二人でこの場所を見つけた時は興奮した。観光客の知らない「地元民だけが知る」という響きが嬉しかった。
「いずれどっかの雑誌に感づかれて観光客が押し寄せるかもね」
ミキはすっかり地元民面して迷惑そうだったけど、彼女にとってそんな心配は無用だった。彼女がこの場所を訪れることはもうない。
断言できる。二度とない。
ひとつ深い息をついて視線を落とすと、踏みつけられたたばこの吸い殻を見つけた。肺いっぱいに煙を吸って思い切り吐き切る爽快感を思い出す。エアーで再現してみると、それはただの深呼吸で、ニコチンはなくてもなんとなく気分は良くなった。
そんな時だった。
「ここ、穴場ですね」
突然、背中から声がして、僕は息を詰まらせた。とっさに身構えておそるおそる顔を向けると、艶やかなブロンドの長髪が目を惹く若い女性が僕の後ろを見上げていた。
それがサリナだった。
彼女は白地のTシャツにデニムのショートパンツ、足元はビーチサンダルという軽装で、まだまだ夏を引きずっているようだった。そのせいだろうか、僕には彼女がすごく眩しく映った。
僕は「そうですね」なんて、冴えないことしか言えずに、彼女の整った顔を控えめに覗いていた。
派手な髪色や攻撃的な格好に比べて、彼女の顔は見事にノーメイクだった。それでも十分に美しいのだけれど、僕は彼女が嘘のないありのままの生身をさらしてくれたように感じてグッときたのだった。
その後もサリナは立ち去ることなく「地元の方ですか?」とか「いつから住んでいるんですか?」とか、隙間を埋めるだけの他愛のない話を続けた。僕はいちいち丁寧に事実を答えた。なにせ僕は、とにかく誰かと他愛のない話をしたかったのだ。
ただ、彼女に何か思惑があるのは感づいていた。警察や探偵のような雰囲気はなかったけれど、何かの勧誘であることは覚悟していた。だって、それ以外に今の僕と会話を続ける意味がわからない。宗教か、それとも金の無心だろうか……。
他にも嫌な言葉が浮かんだけれど、なんでも構わないと思っていた。その時の僕はそれほど疲弊して精神的にまいっていたのだ。
なんとなくの流れで池の周りを散策した。サリナとの会話は初対面とは思えないほどスムーズで、彼女は勧誘において優秀な実績をあげているのだろうな、なんて訝しんでいたのは正直なところだ。
一周してベンチに戻ってきた時に、彼女が急に振り向いた。その時「くる」と身構えたのを覚えている。
「タケシさんにお願いがあります」
サリナは悩ましげに眉をひそめた。僕はすでに心の準備を終えていた。でも、彼女の誘いはまったく予想をしていないものだった。
「一週間だけ、お互いの部屋を交換しませんか?」
その謎だらけのミステリアスな誘いに、僕は「はい」と即答した。瞬時に疑問がいくつも浮かんだけれど、僕はサリナのありのままのすっぴんを信じたのだ。
夕方にあらためて落ち合う約束をして、僕たちはいったん別れた。明日からお互いの部屋を交換する準備をしなければならない。取り繕った部屋にするのは禁止だと言われても、片付けておかなきゃならないものはある。
サリナからの不思議な誘いは『ホーム・エクスチェンジ』というもので、欧米では珍しくない旅行の形だそうだ。異なる場所に住むお互いが部屋を交換しあうことで、異文化をそのまま体験できるのが魅力で、それを題材にした外国映画もあるのだという。
だが僕とサリナは曳舟と錦糸町という同じ墨田区内で暮らしている。となると、彼女の目的は異文化の体験ではなく、「エクスチェンジ」するところにあるのではと思う。
「エクスチェンジ」とは、交換する、取り替える、両替する、取り交わすとの意味がある。
僕は今の現状を交換したいし、取り替えたいし、そのことで新たな生活を始めたい。きっと彼女も同じようにとにかく何かを変えたいのだろう。
別れ際のサリナの言葉を思い出す。
「ホーム・エクスチェンジって、本当のお互いを知り合えるって面もあるよね。ぜったいに家ってその人の性格が出ちゃうものだから」
その通りだ。
僕はミキと知り合って一週間で同棲を決めたのだが、その前に彼女の部屋をじっくりと見るべきだった。そうすれば、取り繕って見せまいとしていた彼女の嫌な面をきっと見つけられたことだろう。そうすれば、あんな終わり方をすることはなかったし、もしかしたら始まらずにすんだかもしれない。
でも、そのことはもういい。そんなことより、サリナが口にした「本当のお互いを知り合える」って言葉が重要だ。だって、サリナは本当の僕を知りたがっていて、僕に本当の自分を知ってほしいと願っているってことだから。
その日の夕方、スカイツリーの近くのピザ屋で待ち合わせた。二人とも一週間分の荷物をまとめたキャリーバックを持っていたので、はるばるやって来た観光客にしか見えなかっただろう。店員さんが「どちらからいらしたの?」なんて聞いてきたので、僕たちは顔を見合わせて笑ってしまった。
今朝と違い、バッチリきめてきたサリナは眩しいくらいにきれいだった。比べて僕はいたって普通の男だった。身長も体重もきっと日本男子の平均だろう。なぜ僕なのか? その疑問は置いておく。きっとあの場所にいたってことが答えで、それがきっと今後の二人にとって正解になる。
でもその答えの一端はすぐに明らかになった。食事の途中でサリナが前の彼氏について話を始めた時に、僕に惹かれて当たり前だと客観的にも思えた。
彼女はその男から暴力を受けていた。そいつは街のチンピラでバカみたいに体を鍛えていたのだという。詳しくは訊かないけどどうせロクな仕事にもついてないのだろう。
付き合う前は優しかった――。そんな話はいくらでも耳にする。きっと手に入れた瞬間に所有欲が湧いて態度が変わってしまうのだろう。
「付き合う前にもっとお互いを知るべきだったんだよね。それってぜったいに必要なことだと思わない?」
ワイングラスを持ち上げるサリナの指は細くて長くて湿り気を感じた。ネイルの類に頓着がないようだけど、それはそんなことで魅力をかさ増しする必要がないからだ。
ミキはバカみたいに全部の爪を派手に飾っていた。黒縁のメガネは伊達眼鏡で写真受けをよくするためだと知ったのは同棲を始めたあとだ。あの派手な爪と真っ黒なメガネが頭に浮かんで僕は吐き気を催した。そして我慢しきれずにトイレに駆け込んでしまった。
「それじゃ、また九時に電話ね」
店を出た僕たちはお互いの家の鍵を交換し、それぞれの方向に分かれた。
サリナは曳舟駅徒歩15分にあるフローレンスハイツ103に、僕は錦糸町駅徒歩7分にあるパークハウスの807号室へ。
ほろ酔いの頭にサリナの言葉が浮かぶ。
「タケシ君で本当によかった。あの日、あの時に、あの場所にいてくれてありがとう」
振り返ると、サリナもちょうど振り返って僕を見た。小さくバイバイと見えたので僕はにっこりと笑みを返す。サリナの後ろにそびえ立つ巨大な電波塔は七色の光を順々に放っていて、僕たちの前途を祝ってくれているようだった。
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