蒼空銀月の図書館
しび
プロローグ 滅び行く世界にて
人の人生も。
世界の出来事も。その行く末も。
それら、全てにおいて。
「無駄ァ、無駄無駄、全てハ、無駄ダァァァァ――ッ!」
この世のあらゆることは無駄ばかり。とは、青年の女上司の言葉ではあったが、今相対する目の前の化け物は違う意味で喚き散らしているだけのことだった。
吸い込むだけで身体を悪くしそうな黒い霧を凝縮し、ナイフで切れ込みを入れたかのような赤く光る双眸と口。青年と女上司は何十年、何百年とこの化け物と戦い続けている。
実体がない故に滅ぼせない。滅びから生じた故に滅ぼせない――
そんな存在。
「……今回はこの辺で手打ちにしようぜ? レメゲトンよ」
特別な銘はなくとも幾多の修羅場を潜り抜けた愛用の剣を腰の鞘に収め、青年はうんざりと呻く。
滅びの結末に関しては既に決定事項であり、この場で青年と黒霧の化け物――レメゲトンが雌雄を決する意味は、個人的なことを除いては既にどこにもなかった。
青年の物理攻撃はレメゲトンに対して効果が薄い。だからこれ以上戦い続けるのは無駄。そもそも世界の行く末ももう決まってしまった。だからこれ以上戦い続けるのは無駄。
そう、無駄なのだ。
「お前の目的は達せられたはずだ。世界を滅亡に導いたお前のことを人々は恐れ戦き、これから先、幾度となく悪夢に怯えるだろう。俺もいつまでも落とせない洗濯物の染みのようにしつこいお前のことを忘れることもない――それでいいな?」
レメゲトンは霧を蠢かせ、逡巡しているようだ。
けして小さくはない代償を支払い続け、何度退けても復活してくるこの悪魔を手なずける唯一の方法を青年は知っている。
忘れなければいいのだ。この黒霧のことを。
ただ、永遠に。
「人形風情ガ……生意気な……ッ!」
「おっと。随分な物言いだが、だからこそ俺はお前の需要に最も応えてやれる優秀な存在なんだぜ?」
数十年。よほど長くて、一世紀。その程度で朽ちてしまう人間よりも遥かに存在していられる青年――そして、女上司もだが――は忘却を恐れるレメゲトンにとって、最も厄介な者であると同時に奴の望みに最も近い者。
「ク、ぅ……」
「迷うことはないと思うが」
「私ハお前ヲ忘れナイ……お前ハ私ヲ忘れナイ……」
「そうだ。文句はないだろう?」
「お前ハ……私ヲ、忘れナイ……私、ハ……お前……ヲ……」
「愛を語るようで、全く色気のない話だな」
青年は自らの考えを自嘲するように笑う。
「シャロウ・ヴィン――」
二者の間に横たわるのは、瓦礫にまみれ、荒廃し切った灰色の世界。
そこであらゆる生命は息絶え、進化は途絶える。滅びに抗い、僅かに生き残った者がどれだけいようとも、過去の栄華を取り戻すことはもうないだろう。
それは青年――シャロウが持てる最善を尽くしても救えなかったある世界の結末だった。
どこまでも続く無愛想な銀色の中は、どこか神々しい。
その中で、同じ色だというのに、けして風景に溶け込もうとしない銀糸のような髪の少女が立っていた。
風景の銀色は筒である。背伸びした程度では到底届きそうもない高い高い位置に天井がある。緩やかに曲線を描く床、あるいは壁を歩き続けられれば、いずれは天井に到達するだろう。
(分不相応の背伸びは我が身を滅ぼすけれど。愚かな人間のように)
他愛もないことを考えながら、歩を進める少女。一歩踏み出す度、かんっきんっと鉄琴のような美しい音色が筒内に木霊する。
それに追従するよう、壁から分離した立方体――メモリーキューブが少女の後ろを追従して、浮遊している。淡い緑の光に包まれた引き出しの中には、ぎっしりと本のようなものが詰まっていた。彼女はそれを冷めた目で一瞥した後、一切手を触れずに記述内容を知識として吸収する。
そこに記載されているのは、これから起こる、ある事象について。数多くある世界のどこかで、日常茶飯事のように起こる事柄だ。疲れたように嘆息する。もはや、飽きている。飽き過ぎている。
「滅亡、滅亡、滅亡……我が身を滅ぼすのがよっぽど好きみたいね。人間は」
そして、ここはまるで図書館のようでもある。だとすると、彼女は司書。この宇宙の記憶アカシック・クロニクルの管理人。
遥か昔には、彼女のことを魔女と呼ぶ者もいた。
ただ、その心は酷く薄汚れ、疲弊している。
「どうでもいい」
今更どこぞの世界が滅びようとも。
今更どんなに生命が死に絶えようとも。
非効率、非現実。幾度となく、際限なく、果てしなく繰り返されるそれは、もはやリソースの無駄遣い。
「ホント、どうでもいい。もう、あたしには、関係ない。無駄なことは止めよう。ね? シャロウ」
無駄な努力。無駄な労力。無駄な尽力。
灰色の世界で化け物と相対す使い魔シャロウ・ヴィンの姿を感じ取りながら、ここからではけして届くことのない嘆息を漏らした。
――宇宙の記憶アカシック・クロニクル。
それは書物とは言われているが、書物の形をしているとは限らない。
世界中のあらゆる出来事、あらゆる思想、あらゆる知識、あらゆる個人の感情。
それら全てを過去から未来に至るまで、隅々まで細大漏らさずに綴られた巨大なライブラリである。
人間たちの間ではその名が伝説混じりに伝わっているだけだ。
ビヴロストと呼ばれる世界一の橋を見つける事が出来れば、アカシック・クロニクルに辿り着ける。
そんなおとぎ話と共に。
そして――
次なる新しきこの蒼き世界。
「ガイダットッ!」
廊下の先は正規兵でも立ち入り制限されている区画だった。
すなわち、この国リタルダント・テレスの中枢、王の間に通じる中央通路。そこでいけ好かない中年オヤジの後ろ姿を見つけたシャロウは、あまり気乗りはしないながらもその背中を呼び止めた。
「……何か用か、小僧」
リタルダント・テレス騎士団の団長ガイダット・ハインライン。齢四十二。
アッシュブロンドの髪を後ろに撫で付けた、面長で精悍な顔つきは一部の婦人に人気なのだが、残念なことにこのオヤジは紳士的な見た目に反して口が大層悪い。普段は口数の少ない朴念仁と勘違いされているためか、二言三言言葉を交わせば、幻滅に至るというのが大体の相場らしい。
「そういう口の利き方だから、未だに独身なんだな」
「ふん、小僧に小僧と言って何が悪いのだ。貴様こそ、年配者に対する口の利き方を知らぬようだ」
シャロウはこの国に傭兵として雇われた身である。正規の騎士団であるガイダットとそうしょっちゅう顔を合わすわけではないが、合わせばいつもこの調子。容姿だけで色めき立ったご婦人が幻滅していく気持ちも分からないでもない。
「海賊がまたこの海域で目撃されたようだな」
「ちッ……地獄耳が」
まるで聞かれてはならぬことだったように、顔を顰め唾棄する騎士団長。
「特に被害届けが出ているような話は聞かないが、それでもそろそろ捨て置くことは出来ないんじゃないのか」
「貴様のような傭兵風情に心配されることではない」
「なんっ――」
「いいか、貴様らの出る幕ではないと言っているのだ。分かったら、とっとと失せろ」
話はこれまでといわんばかり、踵を返すガイダット。
「何言ってんだ、実際に被害が出てからじゃ遅いんだぞ! 後からじゃ後悔しか出来ないだろうがッ!」
かつん、と。
石床を叩くレギンスの音が唐突に途切れ、彼が振り返ってくる。その目は一瞬だけ血走って、一瞬だけ郷愁を見せて、何か様々な色を瞬時に醸し出した。
「後悔か。確かにそれだけでは何も生み出さないが、二度同じ過ちを繰り返さない糧にはなるやもしれぬな」
「はぁ?」
「……とにかく、決定事項だ。今は騎士団は動かせん。頭の悪い貴様には理解できんかもしれんがな。シャロウ・ヴィンよ」
ガイダットが去り、誰も居なくなった広間。
シャロウは人目憚らず、力の限り叫んだ。
「それじゃあ、記述通りになっちまうんだよ――ッ!」
「……どうしたね? 若いの」
直前まではなかったはずの気配。
突然、後ろから声を掛けられ、若干身震いを覚える。しゃがれた男の声だった。振り返ると、声の主であろう初老を迎えた好々爺と、見た目麗しい女性、揃いのローブ姿が肩を並べていた。
「じいさん。それに、サーシェさん……いや、なんでもない」
ダリアツォ・ゲルム。サーシェ・ゲルム。ふたりは親子である。そして、揃ってこのリタルダント・テレスの重役でもある。
「なんでもないようには見えなかったけれど」
また騎士団長さんと喧嘩でもしたのかしら。と、場当たり的に正解を持ち出されて、シャロウは口を噤んだ。
「――あら、図星?」
手の平を口に当てて、ころころと上品に笑うサーシェ。
「なるほど、ガイダットか。あの堅物はどうにかならぬもんかのぅ。更にあの口の悪さ。あれさえなければ、今頃、器量の良い嫁さんでも貰って――」
「どこまでも緩いお父様よりは遥かにマシだと思いますけれどね。私は」
娘に指摘されて、今度はダリアツォが言葉を失う。いつ見ても仲の良い父と娘のようで何よりだ。微笑ましくなる。
「シャロウ君、要件はなんだったのかしら。私が聞いてもよいけれど」
「い、いやいや、わざわざサーシェさんの手を煩わせるほどのものじゃないので。ありがとう、大丈夫です」
そう? と首を傾ぐサーシェ。
「困ったことがあれば、ワシらのところへ相談に来るといいぞ。アレよりは話を聞いてやれると思うのでな」
「ああ、ありがとう。じいさん」
ふたりに一礼して、足早に宮殿を後にするシャロウ。
それは確定された未来なのだが、さすがに易々と吹聴して回るわけにもいかない。いくら人当たりのよい彼らでも、ただでは済まないだろう。
もうすぐこの国は滅んでしまうだなんて。
リタルダント・テレス。
宇宙の記憶アカシック・クロニクルに滅亡を予言された無数のうちのひとつ――
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