裏通り-下-
身の丈に合わないやけに大きな黒い雨傘を差したその姿は、すこし異様だった。重くはないのだろうか、と彼は思考する。しかしそれも直ぐにやめた、それをする意味がわからなかったからである。例えばの話、それが彼の親族の形見であったとしても、単に彼が大きな黒い傘を好むのだとしても、大きな黒い傘をさしていることに変わりはなく、そしてその傘が彼に害を及ぼすものとも思えなかったのだった。その傘は少年の肩、顔、制帽を雨から守るものでしかなく、少年の身の丈にあっていないことと、黒一色ということ以外これといった特徴のない極々一般的なものである。それに彼の横で傘をさす少年が身の丈に合わない傘をさしていることが違和感だと思われるような状況であるわけでもなかった。
大きな傘の下にある顔は覗けない。しかし足取り、声の抑揚、呼吸音、どれを取っても取り乱している様子がない。興奮してもよいものだが、と彼は淡々と横に広がる黒い円を見ていた。
歪な形をした建物が軋みながら体をくねらせる。扉を叩けば誘い込まれることだろう。部を弁えた奴等しかここにはいないが、しかしたちの悪いものがいないとも限らない。
「例え化けていても、宵の春、ではないようだな」
「よいのはる」
少年は彼の言葉を繰り返す。傘がほんの少し前のめりになった。足元の砂利を避けて、少年の足音が跳ねる。雨音の混ざった。
「雨、やみません」
「止まぬ雨だ」
「やまないのですか」
「ああ、此処の雨は止まない」
不快か、と彼は少年に訊く。少年はいいえ、と簡潔に首を振る。それと同時に少年の傘も左右に回った。
「この雨は、綺麗な色を、しています」
「ほう。気になるな」
彼は少年の歩幅に合わせて歩く。少年はきょろきょろと辺りをしきりに気にする。《隘路》を探している。その度に傘が回る。くるりくるりと雨を弾き、しとど濡れる。
「不思議な色、です。淡くて、この街に、馴染むような色です。ほんの少し、濁っている。白の絵の具を、混ぜたような、色です。それが少し、僕は」
ぼくは、とつぶやいて。
少年は押し黙った。口の中で反芻されているであろう言葉は彼の外へと出て来ない。あくまで彼の中で、何度も何度も繰り返される。彼の口から出ることはない、彼の口から出ることはない。
「君が傘を持っていて良かった」
少年は傘を彼の方へ傾けた。
「なぜですか」
彼は少年の傘に隠れた顔を見通すように、ほんの少し口の両端をあげる。少年はそれを見てなのか、歩みを止めた。彼も少年に合わせて歩みを止める。少年と彼は誰一人として通らない大通りの端で動かなくなる。白い運動靴に雨が染みて、重そうな灰色になっていた。
「私にとって良いものが、君にとっても良いものとは限らないだろう」
ぱららり、ぱらり。
こんこんことん、しとしと、ぴたり。
とっとっとっとっ。
だった一つ、たった一つ。ただ、雨が降っているだけだというのに。少年の耳を支配する。柔らかく撫でる女の手のように、微笑む聖母のように。目に見えるもの全てが役目を果たさなくなる。耳だけがその場を覆い尽くす。黒く大きな傘が、少年の手からするりと抜けだした。彼は傘をぎりぎりのところで受け止め、少年が濡れないようにする。
そんなことは、と。
少年は口を開いた。「そんなことは、」そう言ってから、「そうです」言い直す。曖昧な返事だ。ぼやけて霞んで消える街並み。爪に丸く浮いたまま、壊れない水滴。
「君は真面目だな」
「そうでしょうか」
「使いようによっては、悪くはならない」
「だと、いいのですが」
少年は歩き出す。
彼はゆっくりと少年の後を追った。
「会いたいか」
彼の言葉に、少年は。
「会いたいです」
見慣れた黒い大きな傘。おや、と首を捻り声をかける。
「迷路」
くるりと傘が翻った。大きな藍色の目が見開かれて更に大きくなる。口が動く。隘路はおういと手を挙げた。
ふっ、と。
目の前が暗く––––––
がくんと体が揺れたのを、なんとか後ろに転げないように足に力を入れた。空が暗い、雨も止んでいる。ばつ、と、傘が開いたまま地面に落ちた。
「迷路?」
肋骨の下あたりにしがみつく迷路の肩を叩きながら、「おうい」呼びかける。聞こえていないかのように、微動だにしない。
「隘路」
「うん」
「隘路」
「うん」
とても、とても小さな声。消え入る声で、わずかに迷路は言った。
怖かった、と。
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