失せ物いつつ、戀路に軋め。

書、宿り木

 腕の中の重さはしっとりとした心地よさを感じさせるものだ。雨の匂いが漂う少しくすんだ臙脂色の風呂敷は、それ故生み出す美しさを兼ね備えている。眼を凝らせば金糸の刺繍が細やかに施され、指の腹でなぞれば吸い付くような触り心地がした。

 端同士を摘んでつくられた結び目を解く。固そうに見えたが、案外するりと動き、中の秘め事をいとも容易く曝け出した。僕のほんの少しの安堵を汲み取ったのか、重なった風呂敷の合わせの下からが顔を覗かせる。

「ひゃっき……やぎょう?」

「やこう、だ」

「やこう」

 乾いた紙、檜皮色の表紙。

 百鬼夜行図。

 綴じられたそれはある一種の優しさを持っていた。三冊の和本が丁寧に揃えられそこに置かれている。

「隘路、隘路」

「ん」

「これはどこから」

「知己から借りてきた」

「ちき」

「知り合い」

 なるほど、と頷く。顎を引く。目の端に、と、と、と、朝顔。と、と、と。

 中心から縁へ向かって薄紫の色が濃くなっていく、その花弁。その微笑みは健やかで、そして何処か寂しそうにも見える。寂寥を湛えたやさしみ。あとほんの数時間で無くなる色彩。茶色に変色しその可憐な表情を薄め小さくなる。

 面影は残る。

「他は何が欲しい」

 ほか、と。声には出さず、口を動かす。

 知りたい、知りたいと何度も何度もしつこく繰り返した僕を、隘路はそうかと首を縦に振り、ならば迷路が勉学に励んでいる合間に借りてこようと一声告げた。帰ってきた僕が目の当たりにした、この包み。それは確かに、ここに存在していた。

 本の裏表紙をめくる。すると朱の判が二つ押されていた。許可無しの持ち出し厳禁、としっかりとした硬い大きな判と、もう一つは、花がほころぶような細い判、花足部、と。

「はな、あし?」

「かたりべ、と呼ぶ」

「かたりべ、………語り部」

「ん」

「図書館、それとも、本屋さん」

「いいや。貸本屋だ」

「かしほんや」

 聞き慣れない言葉の渦。どれも耳に馴染みがない。夜行、知己、貸本屋。

 僕の知らない言葉、

 僕の知らない事象。

「次返すのは二週間後。読めゃるな」

「はい」

 こくりと頷けば、ん、と、隘路が唸るような肯定の音を漏らす。どこか満足そうなその声色を耳朶に垂らしてから、僕はまず一冊目のおもて表紙に人差し指を挟み込んだ。

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