失せ物ひとつ、道路に堪え。
明日天気に
昨日の鈍色とは打って変わった、突き抜ける青だった。
起き上がる。背の中からぱきぱき音がした。そろそろあつくなってきます、とテレビの中で名前も知らない誰かが話す。三日月に似た形の緑をくるくる指して、燦々回る太陽を置いていく。ぐにゃんと歪んだ何重にもなる円の中心には「高」の文字。それを横切る長い線。へにょん。とんがっているのが上側に、丸いのが下側に。へにょん。そのうち、緑の三日月の絵は無くなってしまった。お日様や傘の並んだ一覧表に切り変わる。
「隘路、隘路、これから、暑い、だそうです」
縁側で何かの鉢に水を撒く、隘路に声をかけた。
「ん」
短な言葉が聞こえる。
「隘路、隘路、隘路は暑いは好きですか」
「さあ、どうだろう。寒いよりは暑いが好ましいとは思う」
「隘路、隘路、隘路は寒いが嫌いですか」
「好ましくは無いな。寒いは独りだ」
「ひとり」
足をぱたぱたしてから、よいしょとたっちして、縁側の大きな下駄に足を入れる。と、かこんと音。
「隘路、隘路、隘路は」
「迷路」
出ようとした音は思いがけないもう一つの音で遮られてしまった。「はい」応える。
「暇なのか」
はてと小首を傾げて、足をぶうらり投げ出した。暇、暇、暇というのは不思議だけれど、宿題は残っているから暇とは言えない。投げ出したら図らずも右の親指に下駄の鼻緒が引っかかっており、下駄本体はひゅうと弧を描いて松の木の根方に転がっていった。ころんころんと二回周って、鼻緒を地面につけて止まる。左足が置かれた下駄が物悲しそうに片割れを眺めている。
「暇、は、ありません」
暇ではない、と思う。暇では無いけれど、退屈ではある、とも思う。
「迷路」
「はい」
隘路は立ち上がって、僕を見た。
「偶には外に出るも良かろ」
この街はほんの少しおかしい。でもこの街のおかしいというのは、この街での当たり前で、つまりこの街で生まれ育ち、この街から一歩も、外に出たことがない僕からすれば。………おかしさ、というのは、この街以外の場所の当然。それは例えば、黒くて固い地面であったり、やけに強い光の電球であったり、空が狭くなるほど並び立つ背の高い建物であったり。テレビの中で息づく様々な当然は、ここにはない。
この街にあるのは掠れた看板と、赤錆のついた建物。黒に覆われていない地面。砂埃。繁華街に行けば黒い道路も、あるらしいけれど、行ったことはない。
橋を渡った先の町、お気に入りの場所、側溝。側溝で緋鯉が泳いでいる。白に赤の丸が描かれている模様の鯉、黒と赤と白の斑らの鯉、金色の鯉、黒の鯉、様々な色や大きさのそれらが体を揺らせて水面に綺麗な丸を作った。尾が水を叩けば、花が咲く。散った透明の花びらは、直ぐに水に溶けた。それを見届けてから、隘路は歩き出す。その後ろをついて、歩く。隘路が歩幅を合わせる。
ふと、隘路の袖を引いた。
「隘路、隘路」
「隘路は一回」
「隘路」
「ん」
「隘路は、たばこ、食べますか」
「煙草は身体に悪い故、滅多に嗜む事はない。然し、煙草は物忌に効きゃる。如何した」
太い黒字で看板に《たばこ》の文字。日焼けした赤色と、黄ばんだ白の上に乗っかった《たばこ》は、ほんの少しお辞儀をしている。腰を折り頭を下げれば、隘路が僕の脇に手を差し込んで持ち上げた。
「隘路、歩けます」
「迷路」
低い。
ずしんと響く、低い声。
耳元で隘路が囁く。一瞬、ほんの一瞬。隘路の額がほんのりと、紫に、発光して見えた。気のせい、だと、思う。隘路は、隘路の目は、開いているのか閉じているのかわからないほどに細い。薄くて、細い。その中から僅かな瞳の色。瞼が生んだ黒色で、白目が覆われてしまっている。だからこそ、瞳の色が、強く、靭く。
「息を止めゃれ」
口を、手で掴む。ぎゅっと体を固くする。目がくっつきそうなほど、強く閉じる。隘路にしがみつく。隘路の着物の合わせに、鼻先を突っ込む。隘路のゆっくりとした歩みが、やけに長い。
つ、と。
通り過ぎた。
薄く目を開ける。
ふうわり。ふうわり。ふうわり。
たばこ、の、看板の、立てかけられていた屋根の上に、異様な紫の煙がぼうっ、ぼうっ。布。旗。旗印。赤の旗印。無地の旗。赤。纏わりつく紫煙。
ひっ、と。背中が冷たくなった。
「もういい」
「ぷあ」
けふけふと噎せこめば、隘路が労うように背中を撫でる。
「隘路、旗、旗、煙、烟り」
「ん、迷路はあれが旗に見えゃったか」
「赤の旗、煙、紫」
「あれはな、とぶらいよ」
「とぶらい」
葬い。弔い。死。死者。葬儀。葬列。
「念はおもい故な、惑わす」
「惑い」
「案ずるな。直ぐに消えゃる、只な」
今はそっとしておくがよかろ。
「隘路、隘路、隘路は」
「何ぞ」
「隘路はひとり、ありましたか」
隘路はひょいと僕の体を抱え直した。
「さあ、如何であろ。忘れてしもうたな」
じくじくじく。
蒸し暑い季節がやってくる。
明日天気になあれ。
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