件の如し-人-

 ああ、ここはどこだろう。

 彼岸か此岸か裏通り、欄干の上、歩道橋。道路の脇か、或いは踏切、雑居ビル。電車の運転を見合わせております。ああ、ああ、ここはどこだろう。白く濁った水が入った蓮池に、濃い緑の葉がぽかり浮かんでは上に乗せた金剛石を鈍く輝かせている。限りなく白に近い桜色をしたそれは中心を覆うように太い茎を伸ばし、精錬としながらも朧げな光を放っている。大きな花弁を広げて彼女は天を見つめ、そこに降り立つ御仏の影を追う。永遠にも似た刹那の時間。暗く何一つとして存在しない無の夢において、たったひとつの希望でありながらたったひとつの《そこで産まれた》光であった。何者にも左右されず、何者かによってもたらされたものではない、そこで産まれそこで朽ち果てる光であった。女の指のように長く淡く白く、薄雲に隠れた月のように優しく美しく、彼女はただただそこに存在していた。

 一輪の花、それだけが、その荒涼とした闇の中、矮小とした己の中、広大な池の中、それだけが、それただひとつだけが、生を全うしていた。

 生を希望としていた。




「こんにちは」

 顔全体に巻かれた包帯で全くと言っていいほど口を動かすことができない。さもありなん、左頬がじくじくと痛む。肌一枚引っ剥がされた痛みだ。

 久方振りの日光は目に痛く、ただでさえ細い目を閉じさせる。光の中では何の役にも立たない瞳だ、閉じていようと開いていようと特に代わり映えもしないが。太陽、太陽。太陽など、この玉の緒がある限りはお目見えにかかれぬものだと思っていたが。予想外、いや予知外だ。

 綿の布団は上等なもののようで、大量生産されたもののような手触りではなかった。縫い目は明らかに手縫い、裁縫器ミシンのものではない。寝かされている状態を確認して、ゆるり起き上がる。蹄が敷布団を踏んで、重い体を持ち上げようとした。

「こんにちは」

 ん。

 声だ。人の声だ。人の声だ、人の声だ。きょろり見渡すが、どこにも見えない。どこからしているものだろう。すると腹のあたりにぼふん、感触がした。ぐいと腹の裏側を見るように首を鎖骨から回すと、

「こんにちは」

 きょろり、藍色の瞳が


「こんにちは」


 射抜く瞳。伏せ目がちな瞼の中、藍色が目一杯に詰まっている。中心へ向かって藍色は薄くなり、それが黒を際立たせた。僅かな白が両脇に寄せられて、藍色に侵食され縮こまっている。それはただ一つ、このくだんを一心に見つめ、目を逸らすことが無い。まるで己が未来など初めから分かりきっているような瞳だ。まるで全てを見通した瞳だ。まるで、まるで、まるで。

 何もかもを許容することで何もかもを拒絶した瞳だ。

「こんにちは」

 ひたすらに繰り返す。そのちいさな口が、薄い唇が、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返す。それ以外の言葉を知らないかのように。とても単調で、向けられた側の返答を諦めている。諦めながらも、相手の意図を汲み取ろうとしている。何度も何度も繰り返す。幼い子供でありながら、聡明さを奥に感じる。その聡明さと同居する、ぶれない瞳、ぶれない意志。無表情と相まって不自然を際立たせている。

 物事を知らないのか、それとも言葉を知らないのか。

 どちらもなのか。

「こんにちは」

 不憫になった訳ではない。

 腰を布団の上におろし、前脚を畳んだ。脇から抱きしめていたその藍色の瞳の主は、よろめきながら同じく布団の上にぺたんと座り込む。

「主」

 呼びかけると目を僅かに開いた。こんにちは、と言いかけた口が止まり、ぎゅっと閉じる。決して、決して不憫になったのではない。そんなことではない。瞬きすらせずぶれることないその瞳が、敵意もなにも、感情と言えるものを感じさせない、意思のみを込めた瞳が、異形に恐れることなく見つめ続けるその藍色が、

「名はなんと云いゃる」


 ––––––ただただ、恐ろしかった。


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