第2話

九月半ばになっても降り注ぐ熱を帯びた陽光は、

まだ夏が終わってないことを体感させた。

十四階建てマンションの六階、

ダイニングキッチンのテーブルで、

亜希子は制服姿で

ミルクとバターをたっぷり塗ったトースト、

それとスクランブルエッグにパクついていた。


「今頃になってもこの暑さだなんて、

これも地球温暖化の影響かしら」


強い日差しに目を細めながら、

レースのカーテン越しに外を見て

母親の由実が言った。


「今日は打ち合わせで遅くなるから、

帰ったら冷蔵庫の中のハンバーグ温めて食べてて。

それとサラダも作ってるからそれも一緒にね」


「わかってる」


いつものことだという感じで亜希子は答えた。


由実とこの2LDKのマンションで、

二人きりの生活を始めてもう四年になる。

亜希子の両親は、彼女が中学二年生の時に離婚した。

離婚する夫婦がめずらしくないご時世とはいえ、

自分自身に起きてみるとやはり衝撃的な出来事だった。


父親である山村希一は大手広告代理店の営業部長で、

母親の由実は希一とは別会社で

マーケティング・コンサルタントをしていた。

互いに同じ業界で同じような仕事をしていたため、

夫婦で共有する時間も取れず、すれ違いが多かった。


中学の頃の亜希子自身も、家族三人で遊びに行ったり、

食事をしたりした記憶はほとんどない。

父と母の間に流れる希薄さは、

彼女なりに敏感に感じ取っていた。


離婚を決定づけたのは、

父の希一に「女性」ができたことだった。

それも単なる浮気ではなかった。

希一は由実に離婚を求め、しかるのち、

その女性と再婚したからだ。


相手の女性は希一の会社の取引先の秘書らしかった。

妻である由実と過ごす時間より、

その秘書との時間の方が長かったということか―――。


かつて由実と結婚した時も似たようなきっかけだった。

当時、とある企業の新商品のマーケティングを任された希一は、

由実が勤めていたデザイン会社に企画・立案を依頼した。

その時、その仕事を担当することになった彼女と知り合い、

仕事の打ち合わせをしているうちに

付き合うようになって結婚したのだ。


(パパは淋しがりやなのかも・・・)


亜希子は今でもそう思っている。

それに対して由実の方は違った。


もともと男勝りで、さばさばした性格の由実は、

希一に離婚を切り出された時もあっさりとそれを承諾した。

そして亜希子の親権を主張し、

慰謝料と養育費の確約を取ると、離婚届に判を押した。


相反する性格の二人であったが、

共通していたことがひとつあった。


それは一人娘である亜希子の気持ちを

まったく考えていないことだった・・・。

「すこし口紅キツいかな?」


由実が亜希子の前にかがみ、唇を突き出す。


「う~ん、ちょっとグロスが強すぎるかも」


「でもこれが流行ってんのよ。知らなかった?」


(だったら訊かなきゃいいじゃない)


亜希子は口をとがらせた。


由実は仕事でもプライベートでも

オシャレを欠かさない。それに美人だ。

とても四六歳には見えず、

十歳以上若く見られることもしばしばだった。

そんな母親を亜希子は内心、誇りに思っている。


今も経営コンサルティング会社の課長をやっている、

いわゆるキャリアウーマンで、

女優のような美貌のシングルマザー。

流行りのドラマの中にしか存在しないような女性なのだ。


亜希子も美人ではあったが、由実のような派手さはなかった。

どちらかというと父親似で、

おとなしめの和風美人といったところか。

それに今は黒ぶちのメガネをかけていて、

彼女をことさら地味に見せていた。

由実も娘がそんなダサいメガネをしていることが不満で、

コンタクトを強くすすめているのだが、

亜希子がそれを頑強に拒否していた。

彼女がそのメガネにこだわるのは

特別な理由があったのだが、

そのことを由実には打ち明けてはいない。


「それじゃ、ママ行ってくるわね」


パタパタと玄関へと向かう。亜希子も見送りに後をついていく。

今日はディオールのスーツに

プラダのショルダーバッグだ。香水はエスカーダ。

エルメスのハイヒールを履くと身長は百七十センチ近くなる。


「いってらっしゃぁ~い」


亜希子がけだるく手を振る。それをチラと振り向き、

口元で微笑みながら由実は出かけて行った。


亜希子も手早く朝食を済ませると、

カップとソーサーを流し台へと運んだ。

バッグを肩にかけると手鏡で髪形を簡単にチェックする。

腕時計をつけ、時報代わりに付けっぱなしにしていた、

テレビのスイッチをオフにしようとリモコンに手をのばす。


壮年の人気タレントが司会をしている、

朝の情報番組が映っていた。

その中の各局別の

ニュース・コーナーで事故のニュースが流れる。

何気なく亜希子は手を止めた。


『XX本線で12日深夜、

午前0時4分発○○線下り列車に、

ホームから人が転落しはねられ、

死亡するという人身事故がありました。

死亡したのは私立高校に通う、

菅野好恵さん17歳と判明しました。

この事故で同列車は発車が1時間ほど遅れ・・・』


亜希子の手はリモコンに触れようとしたまま、

凍りついたように固まっていた。


スガノ・・・ヨシエ・・・


この名は亜希子の記憶に深く刻み込まれている。

忘れることは決してない名前。


あれは四年前、まだ両親と家族3人で

暮らしていた頃の忌まわしき思い出。

思い出すたびに胸が締め付けられる。


亜希子の動悸が激しくなった・・・

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る