第三話 襲撃その一
土曜日は所属している剣道部の部活があった。それが終わって正親がバスから降りたのは昼下がりだ。疲労を抱えながら自宅の玄関に向かって歩を進める。空は曇っていて日差しは無いが、湿度が高く蒸し暑い。彼の額が汗で僅かに湿る。
――家に帰ったら冷蔵庫にあるアイスを食べよう。
重かった正親の足取りが軽くなる。
すると菜々花の叫び声が弾丸のように彼の耳に突き刺さる。穏やかな風景が一瞬で緊迫した物に変わる。彼は走って玄関の前に行く。
――何があったんだ!?
燕の鳴き声がいつもと違う。まるで警戒音だ。
「お兄ちゃん、蛇!」
玄関ポーチの白い壁にくすんだ緑色の蛇が這っている。体長は菜々花の身長くらいありそうだ。多少の凹凸はあるが垂直の壁に巧みに登って行く蛇。
親鳥達は狂ったように飛び回っている。蛇と燕の巣の距離は少しずつ近付いていた。
「お兄ちゃん、助けて」
菜々花は涙目で正親を見上げる。毒があるかもしれない蛇と戦う勇気は彼女には無いだろう。
――このままじゃ、雛が食べられる!
正親は抜刀するように黒い袋から竹刀を取り出すと袋を投げ捨てる。竹刀袋は宙を舞い、石畳の上に落下した。
彼は剣先を蛇の胴体へ向ける。
――よし。
正親は軽く息を吸うと竹刀を振り上げる。袈裟斬りのように竹刀を斜め下に振り下ろす。曲線を描くように動く竹刀の残像が見える。壁に貼り付いていた蛇は剣先に当たり、石畳の上に叩き付けられる。
蛇は正親に背を向けるとうねりながら慌てて退散しようとしていた。
正親は身に付けていた重りが外されたような気がした。少し汗ばんでいる体を冷やすように初夏の風が吹く。
――少しやり過ぎたかもしれない。ごめんな、蛇。
姿が小さくなった蛇に正親は心の中で声を掛ける。
正親は燕の巣を見上げる。親鳥の警告音は止まっていて、今は巣で子供達を守っていた。正親の目と親鳥のそれが合ったような気がした。
「お兄ちゃん、ありがとう」
正親を見上げる菜々花の太陽のような笑顔が玄関を明るく照らす。
正親はアイスを食べる事を忘れてキッチンの隅に立て掛けてあったダンボール箱を引っ張ってくる。リビングの床に座ると鋏で小さく切っていく。ダンボールを切るのは力が要り、正親の手は痛い。
「お兄ちゃん、何してるの?」
ソファーに座ってカップに入ったバニラアイスを食べている菜々花は立ち上がって彼の方に来た。
「これを燕の巣の下に置いて毎日取り替える」
「何で?」
菜々花はしゃがみ込むと首を傾げる。
「蛇は匂いで燕を見付けるらしい。糞の匂いで燕が居る事が分かるから毎日ダンボールを取り替えて蛇が来ないようにする。ほら、今は何日かに一度玄関の前を掃除して糞を取り除いてるだろ? あれじゃ見付かるから毎日掃除しやすいようにするんだ」
正親はインターネットで仕入れたばかりの知識を菜々花に話す。
「じゃあ、私も手伝う!」
菜々花はカップアイスをテーブルに置いた。そして、電話台に置かれたペン立てに刺さっている鋏を取ってくる。
彼女はぎこちない手付きでダンボールを切っていく。正親の瞳に彼女の真剣そうな横顔が映る。
「これだけ沢山あれば大丈夫だね」
菜々花はダンボールの束をから一枚取り、ガムテープを持って玄関へ向かう。
玄関を掃除すると巣の下にダンボールを置き、風で飛ばされないようにガムテープで固定する。
「あとはする事ある?」
菜々花は正親を見上げている。
「明日、買い物行くだろ? その時に蛇が来なくなる薬を買ってきてほしい。忌避剤って言うんだ。それをホームセンターで売ってると思うから」
正親は屈んで菜々花と目の高さを合わせる。これもインターネットで調べた情報だ。
「キヒザイ? うん、分かった。お母さんとお姉ちゃんと一緒に買ってくる」
菜々花は素直に首を縦に振る。
日曜日のホームセンターは家族連れで賑わっている。菜々花と凛は母と一緒に買い物に来ていた。正親は部活に父はゴルフの打ちっ放しに行っているので一緒に来ていない。
「お母さん、蛇が来なくなる薬を買ってってお兄ちゃんが言ってた。えーと、キヒザイだったかな」
カートを押している母にぴったりくっついて歩く菜々花は正親に昨日言われた事を母に告げる。
「正親が? そうね、蛇にまた狙われるかもしれないもんね」
母は一瞬驚いてカートを押すのを止めたが頷くとまたすぐにカートを押し始める。
「蛇はしつこいからねー」
菜々花の隣で凛の間延びした声が発せられる。
「じゃあ、私が菜々花と一緒に忌避剤を見てくる」
凛は菜々花に手招きをすると忌避剤が売られているコーナーに向かって歩き出す。
忌避剤のコーナーには様々な動物の忌避剤が置かれていた。鼠にモグラ、犬や猫まである。菜々花は物珍しそうに棚に陳列された商品を見ている。
「あった!」
菜々花は蛇のイラストが書かれた忌避剤を手に取ると凛に渡す。
「お母さんの所に戻ろう」
菜々花は大きく頷く。
「何で蛇は燕を食べようとするの?」
菜々花は隣を歩く凛の顔を見上げる。何処か不満げだ。
「それは自然の摂理だからだよ」
「シゼンノセツリ……?」
菜々花は聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「人だって動物の肉を食べるよね? 菜々花が朝食べたベーコンも豚肉で出来ている。燕だって虫を食べる。蛇は燕を食べる。皆、何かを食べて生きているんだよ」
菜々花は無言で頷く。
「だから蛇を責めちゃ駄目なんだよ。蛇も生きるために燕を食べているんだから。でも、菜々花は燕を助けたいんだね。人が燕を助ける。それも自然の摂理かもしれないね」
そんな会話をしているうちに母の元へ辿り着いた。カートに置かれた籠に凛は忌避剤を入れた。
第三話まで読んで頂き、ありがとうございました。
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