73 早苗と淳一と吟二の話

 祐介が次に訪れたのは、早苗夫人の寝室であった。早苗夫人はぐったりとベッドの上で休んでいた。

「少しお話をお聞きしてもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ……」

「事件前に、最後にアトリエに行かれたのはいつですか?」

「わたしですか? 事件の起こる前日の夜のことですわ……」

 何か疑われているらしいことを察したのか、早苗夫人は、少し怪訝な表情を浮かべて言った。

「それは何時ごろのことですか?」

「午後十時頃だったかしら……」

「なぜアトリエへ?」

「重五郎さんが、アトリエに置いてきた本を取ってきてほしいと言ったからです……」

「ほう、どんな本です?」

「セザンヌの、画集でしたわ……」

 セザンヌという話である。確かに根来の話によれば、アトリエには印象派を真似したような絵画が並んでいたらしい。そういう点からも重五郎が、セザンヌが好きだったことは、ごく自然なことと言えるのである。

「なるほど。セザンヌでしたか。その翌日は、朝からお出かけになったそうですね」

「そうですね。朝六時頃に家を出て高崎の方へ行きましたわ。知り合いのご婦人とお食事をして、夕方六時にはここに帰って参りましたわ」

「そうですか……」

「その後、あの人は誰かに……」

 早苗夫人は、怯えたような口調でそう呟いた。

「あまり、そのことをお考えになってはいけませんよ……」

「そうですね……」

「ところで、怪人の絵は本当に心当たりありませんか?」

「いやですね、わたしは嘘なんかつきませんよ……」

 早苗夫人が不満げに言って祐介をことを少し睨んだので、祐介はそれ以上突っ込んで聞かなかった。


            *


 祐介が次に訪れたのは、淳一の部屋であった。

「淳一さん、あなたが、事件前に最後にアトリエに訪れたのはいつでしょうか」

「アトリエですか。確か当日の午後一時頃ですかね。わたしは、少し散歩しようと思って手袋をつけて玄関から出たのですが、元気のない父のことが少し気に心配になって、アトリエへと行ってみたんです。父は、アトリエの中でカーテンを閉めて部屋を暗くして、少し仮眠を取っていました。わたしは電気をつけて、少し喋ってから外に出ました」

 重五郎は仮眠と取っていたのだ。絵を描くと称して、実際は何もしていなかったのである。それとも、まだ絵の構想が出来上がらなかったのだろうか。

「その時はどうでしたか。重五郎さんの様子は……」

「特に……。でも何か思いつめているようではありました」

「そうですか……、絵は描いていましたか?」

「さあ……そこまで注意して見ませんでした」

「分かりました」

 祐介は静かに頷いた。


            *


 次に祐介が会ったのは吟二であった。吟二には指の怪我について是非とも聞いておきたかったのである。吟二は次のように説明した。

「人差し指の怪我をしたのは事件のあった日の朝の、そうですね、九時頃のことです。古いギターを弾こうとしたら弦が切れましてね。その時に指を傷つけてしまったんです。昼まで絆創膏をつけていましたが、昼をすぎたら絆創膏が嫌になって外してしまいました。血も止まっていましたし、絵を描くのに、絆創膏がついていると何かと不自由なので……もっとも、その日は結局、絵は描きませんでしたが……」

「あなたは事件前、アトリエに二回以上訪れていますね……?」

「よくご存知ですね。刑事さんから聞いたんですか。ひとつは当日の朝の八時頃のことですよ。父がどんな絵を描いているか気になりましてね。ひとりでアトリエに行ってみたんです」

「その時はスイッチは押さなかったのですか?」

「何のスイッチですか?」

「電灯の、です」

「押しましたよ、じゃなきゃカーテンのせいで真っ暗ですよ」

「人差し指で……?」

「そうです」

「手袋はなさっていましたか?」

「いえ……」

 祐介は少し満足そうに頷くと、

「分かりました、次に訪れたのは何時頃ですか?」

「確か午後三時頃です……アトリエに行くと父はカーテンを閉め切って、仮眠を取っていて、わたしが電灯をつけると、起き上がってきました。特に大したことは喋りませんでしたが……」

「重五郎さんは、何か絵を描いていましたか?」

「見当たりませんでした。その後、描き始めたのではないですか?」

 祐介はそれを聞いて、静かに頷いた。

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