秀と母
浅賀秀郎(あさがひでお)
第一章
第1話 母と歩く谷中
2010年9月
まだ夏の暑さが残っている週末の土曜日。母の千恵子と父と谷中へ散歩に出かけた。幼い頃から母と散歩をするのが好きだった。特に谷中、根津、千駄木は近所なのでよく歩いた。何か目的があるわけでなく、ぶらぶら街を歩く。特に谷中は寺町であり、静かな雰囲気に癒される。季節ごと、道端にはいろんな花が咲いており、母が見つけては、すぐに花の名前が出て来る。花が大好きお花博士の母。父が知ったかぶりで間違えた花の名前を言うと、すぐに訂正して正解を言うやり取りが面白い。またそのタイミングが絶妙であった。母が花を見つけて喜ぶ姿を見るとなんだか嬉しかった。それだけで散歩が楽しかった。
母は静岡県志太郡大井川町(現在の焼津市)の出身。小柄だが健康で体は丈夫。スポーツが大好きで、学生時代はハードル走の選手として静岡の県大会で400mハードル走に代理で出場して三位に入賞したぐらい走るのが得意だった。
卒業後に図書館で働いた後、東京に住む会社員の父とお見合いをして結婚。東京へ上京して三人の息子を産んだ。三番目に産まれた男の子が秀郎(ひでお)と名付けられた。母が三十四歳の時に産んでくれた。干支は母と同じ亥年。猪突猛進。同じ干支だからなのか、母と気が合う。
普段は真面目な母だが、時に突拍子もない面白いことを言ったりやったりする。母が妹と姪と出かけたデパートで階段を降りようとした時、「ちょっと待って!これは上り用の階段だから降りちゃいけないんじゃない?」と言うと指摘され、間違えに気づいて自分で大笑い。ちなみに、もちろん階段は上り下り自由である。
静岡でのある法事の時、会食の場で酔っぱらった近所のおじさんに合わせて真室川音頭を歌い、合いの手まで入れたもんだから、おじさん気分よく裸踊りをしてしまい、みんなが大笑いしたという。そんな明るく楽しいサザエさんのような出来事が静岡の親戚一同からよく語り継がれる。それで自分も笑ってしまうという明るい母。
バラエティー番組「モヤモヤさまぁ~ず2」を見てお腹を抱え涙を流して笑う母。どんな時も明るく笑顔いっぱいの母。家の中を明るくしてくれる太陽のような存在。
兄二人が会社員として堅実な人生を歩んでいるのに対して、三男は俳優を目指すという不安定な道を選び、なかなかうまくいかずの人生を送っている。いつの間にかバイトばかりの日々にあって気分が落ち込んだ時も、明るい母にいつも元気をもらっていた。
母と一緒に谷中へよく散歩に出かけた。谷中は母と思い出の街だ。谷中と言えば、毎年八月末のお祭り、お諏訪様(諏訪神社)が楽しみだった。子供の頃から毎年、母と父と一緒に行った。
たくさんの屋台と人出。お神輿も出て賑やかだ。母が好きな大阪焼きを買って、父と三人でその場で食べるのが恒例の楽しみ。僕が大好きなたこ焼きは、母がお気に入りの屋台で買う。母は雰囲気重視。それが当たる。とても美味しいたこ焼き屋さん。毎年決まったそのお店で買うのも恒例の楽しみ。帰りはたまに昭和の雰囲気漂うかき氷屋に寄ったりもした。毎年同じことを繰り返しても楽しかった。
行事がない週末でも、母と谷中を散歩するのが楽しかった。散歩コースの最後は夕焼けだんだんを降りて、谷中銀座を通って帰ってくる。途中、僕は「肉のすずき」や「肉のサトー」でメンチカツを買って、酒屋「越後谷本店」でビールを買い、ビールケースに座って飲みながらメンチを食べる姿を自撮りしてブログに載せる。そんな僕の姿を笑って待っていてくれる明るい母。
ちなみに根津散歩コースの時は根津神社まで出かけて、甘味処「
とにかく子供の頃から母とよく谷中へ散歩に出かけた。子供の頃は谷中を何もない下町と感じていたが、大人になるにつれ谷中の良さが分かってきた。何よりも母と谷中を歩くことに、ささやかな幸せを感じていた。
何気ない週末の谷中を、いつもと同じように母と歩く。この日はなぜか母の後ろ姿を見て、「こうして一緒に散歩できる日が、いつまでも続くといいなぁ」とふと思いながら歩いていた。母、七十五歳。僕が三十九歳の時だった
また来週も一緒に谷中へ行けると思っていた。
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