夕闇の君

心音

手紙

僅かに開いていた窓の隙間から、そよそよと秋風が迷い込み、教室の一番後ろの席で、必死に何かを書いている少女の髪を揺らしていた。


「……」


俺は、俺の席に堂々と座っている少女を見て、ただただどうすればいいのか分からないでいた。


……誰だよ、あの子。

てかあのシャーペン俺のじゃねーか……。


帰りたい。

切実に思った。しかし、机の中に入れっぱなしのノートを取らない限り、俺は明日数学の先生にこっぴどく叱られるのは目に見えている。


髪の毛は――茶髪、だろうか。夕焼けのせいではっきりとした色の区別がつかない。だが少なくとも黒では無いとは言える。

少女を形成するその顔はなかなか可愛らしい。宝石のように綺麗なアメジスト色の瞳。小さな鼻と口。唇は鮮やかなピンク色で見るからに柔らかそうだった。頬は夕焼けに染められてほんのりと紅くなっている。

可愛い。それ以外に形容できる言葉が見当たらなかった。


「うーむ……」


教室から顔を引っ込め、廊下の壁に寄り掛かり唸る。

見た感じ大人しそうな女の子だし、声を掛けても問題は無さそうだ。


「よしっ……ってヤバ」


掛け声を一つ、教室に足を踏み入れようとした瞬間、完全下校を知らせるチャイムが鳴り始めた。

致し方ない――そう思い教室に入った瞬間、俺は言葉を失った。


「は?」


やっとの思いで出てきた言葉は「は?」のたった一文字。

なんでここまで驚いたか。理由は簡単。




教室には誰も――いなかったのだ。




「……!」


俺が入った瞬間に、タイミングよく入れ違ったのかもしれない。そう思って廊下に出るが、右にも左にも少女の姿は無かった。

いくら唖然としていたとはいえ、時間はほんの数秒。俺のクラスの教室は廊下のど真ん中にある。だからこんな短時間で移動は不可能。


「……消えた、のか?」


自分の席の前に立ち、俺は吐き出すように呟く。

僅かに残る花のような甘い香り、位置がずれているイス、机の上に散らばったシャーペンと消しゴムのカス。そこには少女がいた形跡が確かに残っていた。


「……」


けど――少女が座っていはずの椅子は――冷たかった。



次の日の放課後、俺は図書室で調べ物をしていた。


「……これくらいでいいか」


集めた本をドサッと机に置いて、そのうちの一冊を手に取る。

内容はすべて幽霊に関して書かれたものだ。


「……」


分厚い本をペラペラと捲るが、書いてあることがややこしかった。

バカには到底理解出来ない内容で、読んでいても眠くなってくるだけだった。


「……寝るか」


完全下校30分前にアラームをセットして俺は机に突っ伏して眠りについた。


「……?」


不意に、誰かに身体を揺すられた。

誰だ。人の睡眠を邪魔する不届き者は。


「……」


目を開けて、見える限界まで視線を上げると、俺の肩を揺らす小さな手が目に入った。

手のサイズからして――恐らく女の子だろう。身体はまだ揺すられ続けている。いい加減鬱陶しくなり、俺は相手の手を掴んだ。


「!?」


その瞬間、何とも言えない悪寒が背筋を走った。握った手が氷のように冷たかったのだ。


「あっ……」


慌てて顔を上げると、俺の身体を揺すっていた張本人と目が合った。

アメジスト色の瞳に、微かに香る甘い花のような香り。間違いない、昨日俺が見た少女だ。


「お前……何者だ?」


「ゆ、幽霊……です」


「……」


窓から入り込んできた風が少女の髪を揺らし、夕焼けがそれを照らしていた。


「あ、あの……何か反応して欲しい、です。あとその――手、恥ずかしい……」


最初に口を開いたのは少女の方だった。

言われて初めて、まだ手を握ったままだったということを思い出した。

握った手はまだ――冷たいままだった。


「本当に……幽霊なのか?」


手を離し、少女に問い掛ける。

少女は静かに頷いた。


「……証明することは出来るか?」


「えと、こういうのはどうでしょうか」


言い終わると同時に少女の姿が消えた。


「――どうですか?」


「うお!?」


今度は後ろから声が聞こえてきて俺は驚いて振り返る。

そこにはいたずらっぽく笑う少女の姿があった。これはどうやら信じるしかないようだ。


「名前、あるのか?」


「生前の名前でしたらありますよ。陽向ひなたっていう名前です」


「へぇ、すごいな」


「? 何がすごいんですか?」


「俺の名前は陽影ひかげなんだよ」


「おお……正反対ですね」


照れているのかポリポリと頬を掻く。

正直、幽霊と話しているような感じは全くしない。


「俺の他に陽向のことが見える人はいるのか?」


「いないと……思いますよ。前まで結構コミュニケーションを取ろうと頑張っていたんですけどね」


「敬語を使っているから年下なのか?」


「はい! 私は一年生です」


「スリーサイズは?」


「上から85、54……って何言わせてるんですか!?」


一瞬にして陽向の顔が紅く染まった。


「悪い悪い。まさか素で答えてくるとは思ってなかったもんでな」


「生前は素直さが取り柄だったんですよ……」


がっくりと項垂れる陽向。

表情がコロコロ変わるから見てて面白く、ずっと見ていたいと思ってしまう。


「陽影さん? どうかしましたか? 私の顔なんかじっと見ちゃって」


「何でもないから気にするな」


「そう言われると逆に気になるんですけど」


「気にするな」


見とれていた。なんて、言えるわけない。

だって相手は――幽霊なのだから。


「――あの、陽影さん」


「ん?」


「また――明日も、会うことってできますか? その、今日はもう、時間が――ありませんから」


時計を見てみると、もう完全下校ギリギリの時間だった。


「構わないぞ。何処で待ち合わせする?」


「では、またここで。それでは陽影さん、また――明日です」


完全下校のチャイムが鳴る。

そこにはもう――陽向の姿は無かった。


「――また明日な」


小さくそう呟いて俺は図書室を後にした。



それから俺たちは毎日のように放課後は会っていた。

授業が終わって、ある程度時間が経ったら人のいないところで陽向と会う。場所は図書室だったり、教室だったり、屋上だったりと様々だ。

陽向と過ごす時間はとても心地よいものだった。いつしか俺の日常に陽向がいるのが当たり前になっていた。そして――俺は陽向のことを――好きになっていた。

陽向に会う度に心臓が高鳴る。陽向と話すだけで心が弾む。


「――陽影さん」


その日の待ち合わせ場所は俺のクラスだった。自分の席でスマホを弄っていた俺はその声に顔を上げた。


「よ、陽向」


「はい。こんばんはです、陽影さん」


ふにゃりと陽向は顔をほころぶ。

とても可愛らしい笑顔だ。


「今日はどうする?」


いつも通りそう訊ねると、陽向の表情が変わった。


「そうですね――では、私の話を聞いてくれませんか?」


陽向は真面目な表情になる。

ほんの少し頬が紅く染まっているように見えるのは夕焼けのせいだろう。

俺を見つめる陽向の瞳は潤んでいて、妙に緊張した空気が漂っていた。けど、俺は目線を逸らさず、しっかりと見据えた。


「私――陽影さんが、好きです」


紡がれたその言葉は俺の胸にスッと入り込んできた。

陽向の顔は空の夕陽のように赤く染まっていて、一生懸命伝えてくれたということが伝わってきた。そして、どうしようもなく――嬉しかった。

だから、俺も自分の気持ちを――陽向が好きだということを、伝えなければならない。


「――俺も、陽向のこと好きだ」


そう告げると陽向は目を見開いた。

そしてその瞳から大粒の涙が頬を伝って零れ落ちる。


「お、おい? 陽向……?」


「ご、ごめんなさい……嬉しくって、涙が止まらないんです……」


その言葉に胸がジーンと熱くなるのを感じる。すごく嬉しい。こんな可愛い子が俺のことを好きと言ってくれて、俺もその子の事が好きで――こんな幸せは他に無いと思った。



「――陽影さん」


俺と陽向は屋上にやって来ていた。

陽向がどうしても行きたいと言ったからだ。


「どうした?」


「はい。私今……すごく、幸せです。大好きな人の隣でこうしていられる。生前、こういうことにすごく憧れていたんです」


「そうだったのか」


そこで俺はずっと気になっていたことを聞いてみることにした。


「前に……俺の机で何か書いている時あっただろ? あの時、あそこで何書いていたんだ?」


一番最初に陽向のことを見た時のことだ。

あの時は本当にびっくりした。


「……手紙ですよ」


「手紙? 誰に?」


訊ね返すと陽向は空を見上げた。

夕陽でオレンジ色に染まった空。そよそよとふく風が少しずつ夜を運んできていた。


「――私の事を、見つけてくれた人にです」


そう言って陽向はポケットの中から綺麗に折りたたまれた便箋を取り出した。


「陽影さん。幽霊はどうしてこの世にいられるか……知っていますか?」


知らない。と、俺は首を振る。


「この世に未練があるからですよ。未練があるから、この世に残っているんです。未練が無くなれば――幽霊はこの世にいる意味がなくなる。そして私の未練は――」






「――恋が出来なかった。ってことなんです」






陽向は笑う。

けどその笑顔は先ほどまでの明るいものとは違う。悲しい色が満ちた儚い笑顔だった。

どくん、どくん――と、心臓の鼓動が突然加速する。


幽霊は未練があるからこの世に残っている。

未練が無くなったら、この世にいる意味がなくなる。


「ひ、陽向……お前、まさか……」


「……」


答えない。

答えない代わりにもう一度弱々しく笑った。

未練がなくなった幽霊がどうなるか――そんなの、答えは一つしかない。


「……消えてしまうのか?」


恋が出来なかった――その未練が無くなった今、考えられる可能性なんてそれしかない。

ビクンと、陽向の小さな身体が跳ねる。答えはそれだけで十分だった。


「陽向――ッ」


俺は陽向の元へ駆け寄り、その身体を強く抱きしめる。消えないでほしい。そんな願いを込めて強く強く抱きしめる。

陽向のほうも俺の背中に手を回して抱きしめてきた。


「私も、消えたくないです……! もっと……もっともっと! 陽影さんと一緒にいたい……! けど、分かるんです。もう……この世にはいられないって」


この細い腕のどこにそんな力があるのかと思ってしまうほど強い力で俺のことを抱きしめる陽向。


「未練が無くなれば――恋が出来ればいいと思ってた……。だから――だから!」


陽向が顔を上げる。

瞳から溢れた涙はとめどなく頬を伝って流れ落ちる。


「お別れが……好きな人と離れ離れになるのが、こんなにも悲しいなんて……知らなかった……! 知りたくなかった!!」


「陽向……!」


ふと、腕の中の感覚が薄くなったような気がした。微かに感じていた温かさも、少しずつ感じなくなっていた。

俺はハッとなって陽向の身体を見る。


「陽向……身体が……」


陽向の身体が文字通り薄くなっていて、無機質なアスファルトの地面が透けて見えていた。

自分の体の異変に陽向も気づいたらしく、泣いて赤くなった目をゴシゴシと擦り俺を見据える。


「陽向……」


その瞳には悲しい色は無かった。

覚悟を決めた――真っ直ぐな瞳は、俺のことをしっかりと見据えていた。


「陽影さん……私、陽影さんのこと大好きです。愛しています」


真剣な言葉だった。

なら俺もいつまでも悲しんでいるわけにはいかない。前を向かないといけない。


「愛してる、陽向。俺はお前に会えて幸せだ」


そうするのが当たり前というように、俺と陽向はキスをした。


「……んっ」


涙の味がするキス。とても悲しい味だ。

先ほどから陽向の身体は震えていた。今は泣くのを必死に堪えているのだ。だから俺も泣くわけにはいかない。


「陽影さん……」


唇を離して見つめ合う。

もう後ろが完全に見えてしまうほど陽向の身体は透けていた。


「これを……受け取ってください」


もうほとんど見えていない右手を持ち上げる。そこには先ほどの便箋がしっかりと握られていた。


「お前の気持ち、しっかりと受け取った」


「ありがとうございます……陽影さん」


陽向が微笑む。

俺の大好きな人の――最期の笑顔。


「陽影さん、私のことを見つけてくれて本当に、ありがとうございます。あなたのおかげで、私は恋を知ることができた」


笑顔を崩さないまま、陽向は言葉を続ける。


「人を好きになること。人を愛すること。陽影さんと出逢えたからこそ知ることができた。感謝してもしきれません……。本当に……本当に、ありがとうございました」


一陣の風が俺と陽向の間を通り抜ける。

その瞬間、陽向の姿が揺らめいた。






「――大好きです、陽影」






そして夜の帳が屋上に降りると同時に――陽向の姿は消えた。

目の前にはもう何も無い。愛した人の姿はそこにはもう無かった。


「ははっ……最後の最後で呼び捨てかよ……バカ……野郎」


堪えていた想いが涙になって溢れてくる。

好きだった。大好きだった――愛していた。

様々な感情がこぼれ落ちる。

けど、いつまでも立ち止まってはいられない。人は前に進まないといけないんだ。


「……じゃあな、陽向。俺もお前のことが……大好きだ」


俺は前に進む為の一歩を踏み出した。



拝啓、この手紙を読んでくれてるあなた。


あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世から消えていなくなっているかと思います。


そして、この手紙を読んでいるあなたはきっと私の恋人なんだと思います。


私が幽霊になったのは、恋をしたかった。という未練があったからです。

ようするに、恋をすれば私はこの世からいなくなってしまうのです。


だから、どうかお願いします。

私のことは忘れてください。

もういなくなってしまった私のことなんて忘れて、新しい恋をしてください。

そしてその恋した人をずっと、ずっと、命のある限り支えてあげてください。


あはは。しんみりさせちゃいましたね、ごめんなさい。

手紙を書くというのは幽霊の私にとって神経使うものなので、そろそろ締めたいと思います。


この手紙を読んでくれてるあなたに、

私の大好きなあなたに贈る最後のメッセージです。


私を見つけてくれてありがとう。


私の声を聞いてくれてありがとう。


私と一緒にいてくれてありがとう。


そして何より――






私を好きになってくれて――ありがとう。






言いたいことは以上です。

それではさようなら、私の大好きな人。

あなたの未来が、いつまでも光り輝いていることを、私は願っています。



End

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夕闇の君 心音 @rewrite2232

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