黒天使
藍上央理
第1話
逢魔が時のような薄闇のなかを、ひたひたと小走りに尼僧が走り抜けて行く。薄い水色のベールで頭を包み、長いスカートを両手で巻くしあげて。
シリウス系惑星M21を発祥の地とする、モータ教の尼僧であった。
三百年近く唯一神を信仰してきたモータ教は、キリスト教カトリックから枝分かれし、今ではオリジナルよりも存在の大きいものとなっていた。マリア神像を崇め、その神職者の大部分が女性である。頂点に立つのは、創始以来教祖であるオレフ=ナムステットという男だった。
教祖の趣味なのか、教会の外部周辺は凝ったゴシック建築で飾られている。硬質プラスチックのかけらも見えない。
ざらついた石畳みの上をシスターは何を慌てているのか、大急ぎで走って行く。
「シスター・ドナ!」
前方で別のシスターが手を振って、走って来るシスターの名を叫んだ。
「こっちよ!」
「待って、今行くわ」
息を乱してドナは駆け寄った。
「シスター・アースナ、これだけ急がせたのだから、それだけのことってことよね」
ドナは口元にハンカチをあて、アースナをチラリと見つめる。
「あなた、また送信機を忘れて街に出ていたでしょう? 伝えるのに苦労したのよ?」
アースナは唇をとがらせ、腰に手を当てて、言う。
「あら」
ドナは慌てて腰回りを探る。確かに送信機を身につけるのを忘れていた。
「ごめんなさい……まただわ」
「ま、いいわよ。オレフ様がお呼びなの。早く行って」
「え!?」
ドナは驚いて声を上げた。教祖じきじきのお呼びとは、一体何事だろうか。戸惑って立ちすくんでいると、アースナはドナの肩をこづいて、「はやく」と念を押した。
アースナと別れ、ドナは外見とは一転した冷たい硬質プラスチックの廊下を歩く。ドナは別に悪い尼僧と言う訳でもその反対でもない、ややおっちょこちょいな尼僧である。平凡な娘が、親の勧めで尼僧になることはそう珍しいことではなくなっていた。
教会の最上階に教祖オレフの部屋はある。そこへ行くためにはただ一つのエレベーターを使わなくてはならない。先細る教会の先頭へ、ドナは昇り詰めていった。
エレベーターの扉が開く前、ドナは両手を堅く握り合わせる。握り合わせた両手を胸に押し当て、激しい緊張をとどめようとする。その姿のまま、とうとう扉は開き、ドナはオレフの前に立った。
「シスター・ドナ?」
「は、はい」
遠目から見慣れたオレフの穏やかな顔をじっと見つめ、ドナはうなずく。
「別に悪い知らせではないですよ」
オレフはにこやかにほほ笑み、ドナに近づいた。
「落ちついて。わたしを見てごらん」
ドナはオレフの怜悧な顔を見上げる。銀色に光る白髪がドナの目を奪った。そんな彼女の視線に気付いたのか、オレフはすいと身をかわし、書斎机に向かい、書類を一部取り上げ、
「これを受け取りなさい。うれしい知らせです。さぁ」
ぐいと渡される書類を受け取り、ドナは戸惑いつつそれに目を通した。
しだいに目は見開かれ、指を口元に当てる。とても信じられぬという顔で、ドナはオレフを見上げた。
「辞令です。あなたの階級を上げ、マザー・ドナとします。明日から労働者地区7区の教会に移ってください」
「あ、あの、本当にあたしが? あたしに教会を任せてくださるんですか? 信じられません。なぜあたしがなんですか? まだ無理です。できません、とても」
ドナはうれしさと驚きの入り混じった声で言った。労働者地区7区は問題地区の一つであった。しかし、難しい地区を任されることは、その手腕を試されるということである。試練を恩恵と感じるように仕付けられた彼女たちにとって、率先してやりたがる仕事でもあった。
「あたしはこんな素晴らしいお仕事を任されるような事をまだ何ひとつしていません。オレフ様、何かのお間違いでは?」
「間違いなどありはしません。わたしの決定です。この前の礼拝でのあなたの説教を聴いて、心を打たれたのですよ」
「そんなたいしたことなんて、あたし……」
オレフはドナの肩に手をおき、
「素直に喜びなさい。これは神があなたに与えられた使命です」
使命という言葉は、ドナの心を震えさせた。言葉が詰まるような感動を覚え、思わずオレフに向かっておじきをしてしまった。
オレフに渡された書類をろくろく見もせずに自分のサインをすると、ドナはオレフの部屋を下がった。
ドナは同室のシスターたちに羨望の瞳で見つめられながら、少ない荷物をまとめ、翌朝早く教会を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます