第37話 の雨って・その1
石垣島地方が梅雨明けをした。
連日、信じられないような太陽が照りつけ。
青空には大きな綿菓子のような雲が大量生産されている。
そんな夜、俺は尚斗の緊急招集により『居酒屋 瑚南』で仕事をしていた。
「尚。予約は何時なんだ?」
「7時頃かな」
「相変わらず、曖昧だな」
仕事を始める時間と予約の時間は殆ど同じ時間だった。
急に仕事に行く事になったと美緒に告げると妙に素っ気無い態度だったのが気になるが、今は仕事に集中していた。
ドアが開く音がして声を掛ける。
「いらっしゃい……ませ?」
勢い良く元気に声を掛けたがその声が尻すぼみになり疑問系に変った。
振り返りカウンターに冷ややかな視線を送るとと尚斗が両手を顔の前で合わせて申し訳なさそうな顔をしていた。
瑚南オリジナルのTシャツを着て501&漁サンに黒いショートカフェエプロンを着けた俺の顔を怪訝そうな顔で見ている美緒が入り口に立っていた。
美緒の後ろには夏実が何食わぬ涼しい顔をして、秋香は美夕を抱っこしながら笑顔で手を振っている。
殿しんがりには茉冬が不機嫌そうな顔で俺の事を睨みつけていた。
『ヤラレタ』それが正直な気持ちだった。
尚斗を責めても仕方が無い、夏実に尚斗が逆らえる訳が無いのだから。
「予約のお客で良いんだな、尚斗? 座敷の方へどうぞ」
この状況下では腹を括るしかなかった、それ以前に俺にはオタオタ動揺する理由など微塵も無かった。
秋香から夏実へ、そして夏実から尚斗か尚斗から夏実へと美緒の事が伝わった事が容易に想像がついた。
夏実と秋香は生ビールを茉冬はサンピン茶、そして美緒はオレンジジュースを頼み。
飲み物が揃うと乾杯をしていた。
「それじゃ、乾杯しようか。乾杯!」
秋香の音頭で宴会がスタートした。
「それぞれ、食べたい物をじゃんじゃん注文しなさいね。岡谷君の奢りだから」
「はいはい、お好きなように」
夏実が遠慮なくそんな冗談とも本気ともつかない事を言っている。
「もう、茉冬はいつまでそんな顔をしているの? いい加減にしなさいよね」
秋香が不機嫌そうな茉冬を窘めると美緒が気まずそうに茉冬に話しかけた。
「茉冬さんはそんなに岡谷さんの事が……」
「俺が家庭を捨てたんだから仕方が無いだろ。許してもらおう何て思ってないよ」
「そ、そんなぁ」
「気にしちゃ駄目だよ、美緒ちゃん。本当に茉冬は子どもなんだから」
「子どもで良いもん。ふんだ!」
そんなやり取りを夏実は気にもしないでジョッキに口をつけていた。
料理の注文を受けて調理場に入る。
調理場から座敷の様子は伺えなかったが、気にしないで調理の手伝いを始める。
「まだ、茉冬はお母さんと岡谷のお兄ちゃんが別れた事を根に持ってるの? 小さい頃は外ではお父さんって呼んでたくせに」
「良いじゃんか、子どもだったんだから。今はそんな事無いからね」
「でも、岡谷のお兄ちゃんと一緒だった時間の方がお父さんより長いんだよ。茉冬の場合は」
なんだかこの場所に居て良いのか不安で堪らなかった。
パパの事を色々と聞きたかったけれどそんな事を言い出せるような雰囲気じゃなかった。
「ほら、茉冬の所為で美緒ちゃんが困った顔をしているじゃん。妹が可哀想でしょ」
「妹?」
茉冬さんが不思議そうな顔で秋香さんの顔を見ていた。
「そうだよ、だって美緒ちゃんは岡谷のお兄ちゃんの子どもかもしれないんだよ。それにもう岡谷のお兄ちゃんは美緒ちゃんの事を本当の娘だって認めてるんだよ。そうじゃなきゃ『パパ』なんて恥ずかしがって絶対に呼ばせないはずじゃん。だから美緒ちゃんは私達の妹なの」
「ええ、それって……」
茉冬さんより私の方が秋香さんの言葉に驚いてしまった。
「それはそうかもね岡谷君はそんな所があるからね。誰にでもそんな呼ばせ方はしないかもね」
「そうなんですか? 夏実さん。でも、家庭を捨てたって……」
「本当に相変わらず思いつきでポンポン言うから駄目なのよ。ちょうど良い時期だったのかもね。春介が進学するかもしれないと言われた時に、奨学金の事で籍を抜いて欲しいって言ったら二つ返事で了承してくれたの。本当に良いのか確認したら紙切れ一枚で春介が学校に行けるのならそれで良いって言ってたわ」
「紙切れ一枚?」
「そう、離婚届の事よ」
夏実さんの話に正直驚いてしまった。
そんな事で簡単に籍を抜いたりするものなのかな。
「それだけで別れたんですか?」
「別れたのはその後でかな」
「それじゃ、何で結婚したんですか? パパと」
あまりにも素っ気無い夏実さんの言葉と態度に私は少し腹を立てた。
すると夏実さんが秋香さんと茉冬さんの顔を見渡しながら話し始めた。
「もう、15年位前になるのかなぁ。ママが危篤の知らせを受けて石垣島に逃げ帰ってきて、ママの葬儀なんかを全て取り仕切ってもう内地には帰らないつもりで石垣島に居ようと思ったの」
「逃げ帰ってきた?」
「そう、DVでね」
夏実さんがあっさりとした顔で凄い事を話している。
ドメステックバイオレンスなんて私の周りでは有り得ない話だった。
「それで、尚斗の紹介で飲み屋で働く事になったの。内地でも夜の仕事をしてたから、その方が割が良いしね。そこで岡谷君と知り合ったの、そこのマスターが家族ぐるみの付き合いが好きな人でね。マスターの家族と従業員の家族、それに極親しいお客さんと日曜日にバンナ公園に行ったりして良く遊んだりしてたの。そのお客さんが岡谷君ともう1人三鷹君。私と岡谷君と三鷹君は同い年で楽しかったなぁ。皆で飲みに行ったりして」
秋香さんと茉冬さんは少し神妙な顔で夏実さんの話を聞いていた。
「それで、付き合い始めたんですか?」
「そうね、ちょうど今頃の時期だったかな。もう直ぐ夏休みが始まろうとしていた時に旦那に言われたの。とりあえず子ども達を自分の所によこせって。どうするか迷っているうちに旦那が片道分のチケットを送ってきて行かせない訳にはいかなくなってね」
「行かせたんですか? そんな人の所に」
「そんな人か。それでもこの子達の一応は父親だからね」
「ゴメンなさい」
「気にしなくて良いの。あの時は不安でしょうがなかった。子ども達がもう戻ってこないかもしれない、もう2度と会えないかもしれないって思うと押し潰されそうだった。そんな時に側に居たのが岡谷君だった、岡谷君もその時はかなり荒れていたんだと思う。多分、美緒ちゃんのママと別れたのがその頃じゃないのかな」
「えっ、ママと」
「だって美緒ちゃんは14歳でしょ。そう考えるのが普通じゃないの?」
「そうですね。パパも辛い思いをしてたんだ」
「あのね、人は誰にでも辛い事や苦しい事があるんだよ。そして誰かに寄りかかりたい時もね、そしてお互いが同じような気持ちだったらどうなると思う?」
「私なら受け入れちゃうかも」
「そんな事があったんだ。知らなかった」
秋香さんがしんみりとした顔つきで夏実さんの顔を見た。
「だって、誰にも話してないもの。知っているのは岡谷君だけかな」
それから夏実さんは包み隠さず色んな事を話してくれた。
旦那から脅された時もパパは動じなかった事。
急にアパートから出て行かなければいけない事態になり秋香さんや茉冬さんに春介さんがやっと慣れた学校を移るのが嫌だと言った時に、ウチに来ておけとパパが言って一緒に住み始めた事。
離婚するのに2年近くを費やしたけれど何も言わずにいてくれたと夏実さんが話してくれた。
「一緒に暮らす前に私の親代わりの叔母さんと叔父さんの所に挨拶に行ってくれた。そして親父にはなれないけれど必ず守るって言ってくれたかなぁ」
「夏実さんのパパは?」
「高校の時にね。だからあまり頼れる所が無いんだよね。でね、岡谷君の両親に一緒に住んでいるのがばれちゃって、ちょうど離婚してから半年が過ぎた頃だったから籍だけ入れようって。岡谷君の両親に石垣島まで来てもらって皆で顔合わせして」
「反対されなかったんですか?」
「呆れられてたのかも。3人の子持ちと結婚するって言ったら普通は猛反対されるよね。その辺の事は岡谷君しか判らない」
するとパパが調理場から料理を運んできた。
「妹がクッション代わりになってくれたんだよ。お袋にばれた時に妹が隠しきれずに話したんだ、妹には手紙のやり取りで全て打ち明けていたからね。多分、親父達とどうしたら良いか話し合いをしたんだろ、その場に俺が居たら血の雨が降ってたかもしれないけどな」
「血の雨って……パパ」
「お袋は瞬間湯沸かし器で激情型だからな」
「お母さん譲りなんだ岡谷君の性格って」
「まぁ、良いじゃないか。これでも食べてくれ、特別メニューだ」
パパがだし巻き玉子を持ってきてくれた。いつもと違って綺麗な黄緑色のものが入っていた。
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