第十四章 覚醒と真相偏

第249話 夢か現か

「貝原! 起きろ!」

「どわ!」


 穏やかな睡魔を打ち破る怒声に不意を突かれ、思わず私は引っ繰り返るようにして椅子から転げ落ちてしまった。盛大な転倒音が部屋中に響き渡り、次いでクスクスと鈴を転がすような笑い声が鼓膜を擽った。

 腰を打ち付けた痛みに耐えながら目を開けると、教室に集まっていた生徒が一堂に私の方を盗み見ていた。そして先程の怒号の主である担任の教師は、腕組しながら床に尻餅を付いた私に呆れた眼差しを投げ落としていた。


「春眠暁を覚えずという言葉はあるが、新学期早々に居眠りするのは勘弁して貰いたいもんだな」

「す、すいません」


 私は申し訳なさそうに眉をへの字に曲げながら平謝りをし、恥ずかしさに居た堪れない思いで机に着席し直した。教師はそれ以上を追及することなく、さっさと教壇に戻って私のせいで中断した話の続きを再開させた。


「さて、先程も言ったようにこれから新学期だ。高校最後の年でもあり、大学受験に向けて既にスタートを切っている者も居るだろう。また就職に向けても――」


 教師の言葉を半分聞き流しながら、私はこっそりと窓の向こうを盗み見た。新しい出会いと始まりを象徴する桜の花弁が、穏やかな温風に乗って吹雪のように舞っていた。季節は春、学園生活最後の年が幕を開けたばかりだ。


「では、以上だ。今日はこれで終わりだが、だからと言って羽目を外すんじゃないぞ? 学年最後の年をみすみす棒に振っては元も子もないからな」


 学級委員長の締め括りの挨拶と共に先生が教室を後にすると、あっという間に室内は解放感に富んだ賑わいに満たされた。学年生活最後と言えども、新学期の始まりは誰もが楽しみや機体で胸を膨らませるものだ。


「よぉ、貝原」


 いそいそと下校の準備に取り掛かろうとした矢先、私の前に同級生であり問題児の里山が立ちはだかった。校則なんか知った事かと言わんばかりのだらけた服装、そしてこれまた校則に反した茶髪が目を引く典型的な不良だ。

 大人しい生徒や弱々しい生徒に対して因縁を付けては一方的に喧嘩を売るという誇りもへったくれもない男子で、私もしょっちゅう対象として目を付けられて痛め付けられていたものだ。


(うん?)


 そこで私は自分の回想に違和感を覚えた。痛め付けられていた……何故に過去形の表現を使うのだろうか? 今こうして現在進行形で彼との関係は続いていると言うのに。しかし、危うく思考の森に踏み入りそうになった私の意識は、彼の怒声によって再び現実へと引き戻された。


「おい、聞いてんのかよ!」

「え? ああ、ごめん。ぼーっとしてた」

「ああ、俺を前にしてボーっとしていただぁ? ふざけてんのかよ?」


 里山は憤然とした表情でグイッと顔を突き出し、至近距離から私を睨み付けた。私達の間で醸し出される不穏な空気を感知したのか、何時の間にか周囲は気まずい沈黙で静まり返っていた。

 当然、誰一人として私達の間に割って入ろうとしない。今の時代、身を挺して喧嘩を止めようとする殊勝な若者なんて存在しない。只一人、彼女を除いては。


「ちょっと、何してんのよ」


 不穏な空気に物怖じすることなく堂々と踏み込み、そのまま私と里山の間にズカズカと割って入ったのは望月という女性だった。ボーイッシュな黒髪と日に焼けた小麦色の肌が特徴的な女子で、その見た目の通り運動神経抜群のスポーツ特待生でもある。


「望月! 邪増すんじゃねぇ!」

「何が邪魔よ。新学期早々に揉め事起こす方がどうかと思うけど?」

「ああ!? テメェに関係あんのかよ!」

「無いわよ。でも、アンタが誰かに喧嘩売る権利も無いでしょ?」


 正論を返されたのか、我の強い望月の押しに根負けしたのか。里山は苛立たし気に舌打ちし、ガンッと私の机の脚を蹴り飛ばして教室を立ち去った。彼の気配が去ってホッとしたのも束の間、今度は望月が私の机に腰を下ろした。


「全く、アンタもアンタよ。貝原。何のほほんと受け答えしているのよ」

「いやー。まさか絡まれるとは思ってなかったからねぇ~」


 望月は呆れたように「ハァッ」と溜息を吐き、颯爽と私の机から腰を下ろした。落胆させてしまっただろうか。そう反省しながら頬を掻いていると、望月はツンッと澄ました顔を肩越しから投げ掛けた。


「やれやれ、相変わらずアンタは昔っから呑気な男だね。心配で目が離せないよ」


 私と望月は俗に言う幼馴染と言う関係だ。呑気を通り越して何かと手が掛かるドン臭い私と、やんちゃでお転婆だった彼女とは何故か妙に気が合い、何時しか私と彼女で二人一組として数えられるのが普通となっていた。


「ごめんごめん。でも、僕が断ったら周りに被害も出ていただろうし……」

「全く、アンタは御人好しだね。そんなんじゃ自分の運も手放しちゃうよ」

「ははは、返す言葉も無いや」


 不穏な空気が四散した事で何時の間にか教室は活気を取り戻していた。やがて望月が部活に参加する為に教室を後にし、程無くして私も荷物を纏めて教室を後にした。



「よぉ」


 桜の花吹雪で彩られた校庭を渡って校門を潜った時、不意に横合いから不機嫌な声が掛けられた。まさかと思い恐る恐る振り返れば、里山が校門脇の壁に凭れ掛かりながら私を睨んでいた。

 態々待ち伏せするとは……余程私に恨みでも持っていたのか? いや、彼が誰彼構わず喧嘩を売るのは昔からだ。私に狙いを絞ったのも、偶々と言うだけの事であろう。私は覚悟を決めて彼と向き合った。


「何か用かな?」

「ちょいと面貸せや」


 ヤンキーのような足取りで歩いていく彼の後を、私は黙々と追従するように付いていった。始業式という事で午前中にも拘らず、街中には私と同じような学生服を着た人間で溢れ返っていた。

 溢れ返ると言っても田舎の部類に入る地方なので、都会と比べると活気や賑わいは雲泥の差だが。と、そこでまたしても私は自分の思考の違和感に気付いた。何故、都会の活気や賑わいを知っているのだろうか。自分は都会に一度も行ったことが無い筈だが……。


「おい、こっちだ」


 ハッと慌てて前へ振り向けば、それまで街通りを進んでいた里山は建物の合間の路地へと進路を変えた。その後を追うこと三十秒後、私達は四方を建物に囲まれた数坪程の空き地に出た。

 背の高い武骨な鉄筋コンクリートの建造物が周囲を取り囲み、遥か頭上にある青空が一層と遠く感じられる。現代社会の。しかし、そんな私の長閑な考えは鞄と学ランの上着を乱暴に放り出した里山によって打ち砕かれた。


「さてと、ここなら思う存分やれんだろ」


 シュッシュッとシャドーボクシングのように素振りをする里山。もう既に人を殴る気満々であり、その動きに遠慮の文字は一切見当たらない。こうなってしまえば聞く耳を持たないと分かっていながらも、私は里山に尋ねずにはいられなかった。


「一応聞くけど、何で最近私に構うのかな?」

「ああ?」里山の蟀谷に怒りの青筋が浮かび上がる。「言う必要があるのかよ?」

「まぁ、興味本位ってヤツかな。最近私をターゲットにする回数が増えているし、そこに理由があるのかなーって」


 里山は不機嫌な眼差しで私を射抜くように睨んだ。そこから分かるのは私に対する怒りと嫉妬。しかし、彼との接点はほぼほぼ皆無であり、どうして理不尽な感情を向けられなければならないのかを知る由もなかった。


「強いて言えばウザいんだよ、お前」

「ウザい?」

「喧嘩を受ける度胸もねぇくせし、いざって時には望月が割って入って来る。何でアイツはお前を気にするんだよ? お前みたいな木偶の棒をよ!」


 自慢ではないが自分は他人の心の機微を汲み取るのは得意ではない。しかし、今回ばかりは手に取るように理解出来た。恐らく里山は望月に惚れているのだろう。だが、肝心の彼女は何かと私の世話を焼き、それが里山にとっては面白くないのだ。

 とは言え、何と言うべきか。正直に言えば私だって自分の力で何かを成し遂げたい。しかし、持ち前のドン臭さのせいで尽く空振りに終わり、結果として彼女の手を借りるという不本意なオチになってしまうのだ。

 自分が情けない男だと自覚している。しかし、ソレを打ち明けたからと言って不穏な空気が払拭されるという訳ではない。寧ろ、それに対して彼が苛立ちを抱いているのだから、余計に油に火を注ぐだけだ。

 兎に角、彼の自尊心を傷付けずに、良い感じに収まる言葉は見当たらないものか……。だが、そんな私の気遣いなど向こうが汲み取ってくれる筈がなく、寧ろ彼の目には私が黙りこくってシカトしているかのように映っていた。


「おい、黙っているんじゃねぇよ!」


 里山が腕を振り被って殴り掛かってきたが、不思議と私の目にはソレがスローモーションに映って見えた。身体をサッと横にずらして難無く躱すと、里山はショックを受けたかのように目を見開いた。

 しかし、一度目はまぐれだと思ったのか、その後も彼は立て続けに拳を繰り出してきた。だが、その拳は私に当たるどころか掠りもせず、虚しく空を切って空振りに終わるだけだった。


「テメェ、おちょくってんのか!」


 中々攻撃を当てられず焦りで業を煮やした里山は、野球選手のように肩を使って鋭いパンチを打ち出した。だが、私はソレを紙一重で躱すと伸び切った腕の下から拳を潜らせ、カウンターのアッパーカットを顎に叩き込んだ。

 里山の身体が頭一個分ほど浮き上がり、大きく後ろへ頭を反らしながら剥き出しの地面に叩き付けられた。人体の急所に拳が入った事も決定打になったのか、白目を向いたまま気絶してしまった。


「勝ったのか……?」


 私は呆然と自分の両手を見下ろした。どちらかと言うと虐められっ子だった自分が、まさか暴君として知られた里山に勝ってしまうなんて。そんな認識のせいか目の前で起こった事実を前にしても、現実として受け入れるには少なからず時間を要した。

 しかし、何故急にあんな芸当が出来たのだろうか。今までの自分は木偶の棒の如く、拳を受け続けるサンドバッグも良いところだったと言うのに。だが、どちらにせよ彼に勝利したという事実は私の心を奮い立たせた。


「これが自信ってヤツなのかな……?」


 グッと両手を握り締めて拳を作り、私は自分の強さに酔い痴れた。そして強さを自覚すると共に今まで自分に対して抱けなかった自信が烈火の如く燃え上がり、今なら何でも出来るかもしれないという勇気と希望が湧き上がる。

 そして私は路地に里山を残して空き地を立ち去った。今の私には目に飛び込む全てがキラキラと輝いて見え、根拠や理由も無いが人生が楽しくなるという確信が心の何処かに存在していた。



 アクリルはちょこんと身体を竦めるように正座をし、目の前で鎮座するガーシェルをジッと見詰めていた。貝殻を埋め尽くしていた深刻な亀裂は制御核を食した際に回復したのか何処にも見当たらず、聖鉄に含まれた神々しいまでの輝きも以前のままであった。

 にも拘らず、ガーシェルは未だに目覚める様子を見せない。時折アクリルが声を掛けるが、やはり結果は同じであった。もしや二度と目覚めないのでは……そんな不安が何度も脳裏を過り、その都度に彼女は頭を振るって不安を追い出した。


 現在、ガーシェルは北岳にある健闘寺の御堂に安置されていた。寺というだけあってアクリルの両脇には五段の雛壇があり、端から端まで木彫りの仏像がズラリと並んでいる。蝋燭が仏像を挟むように等間隔で立てられ、室内は温かな光で満ち溢れていた。


「ううん……」


 こっくりこっくりとアクリルの頭が船を漕ぎ始めた。既に此処へ来てから長い時間が経過しており、幼子である彼女の体力は限界を迎えていた。しかし、何時ガーシェルが起きても良いようにと、アクリルは眠気に耐えて家族の目覚めを待ち続けていた。


「姫さん」


 御堂に足を踏み入れたヤクトは、足音を極力殺しながらアクリルの傍へと近付いた。アクリルは眠たげな表情を右手に立った彼へと向けるも、直ぐに興味を無くしたかのようにガーシェルの方へ向いてしまう。

 その態度にヤクトは怒るでもなく理解を込めた大人の苦笑いを浮かべ、アクリルの隣にゆっくりとしゃがみ込んだ。そして眠たそうに船を漕ぐ彼女の頭を優しく撫でながら訪ねた。


「ガーシェルは起きたか?」

「ううん……」

「そうか。なら、俺っちが代わっちゃるさかい、そろそろ姫さんはお寝んねし。子供は寝なきゃ育たへんで?」


 何時もならばヤクトの好意や善意を素直に受け取るアクリルだが、この時ばかりは首を横に振って頑なな拒否を露わにした。但し、それは単なる彼女の我が儘ではなく、ガーシェルを思っての事だ。


「ううん、此処にアクリルが居ないとガーシェルちゃん困っちゃう。ガーシェルちゃんの家族はアクリルだけだから……」

「……そうか」


 と、そこでヤクトは懐から取り出した小瓶を床に置いた。蓋を外すと甘い香りを漂わせた桃色の気体がゆらゆらと立ち上り、アクリルの鼻を擽った。それまで辛うじて保っていた瞼のシャッターがドンドンと下がり、やがてアクリルは気を失うように眠りの世界に落ちてしまった。

 アクリルが堅い石畳に倒れ込む前に、ヤクトは流れるような動きで彼女をサッと御姫様抱っこのように抱き抱えた。そして左右を挟む仏像達に見守られながら、ヤクトは踵を返すように御堂を後にした。

 御堂を出るとヤクトの頭上には星々を鏤めた宵闇の夜空が広がっており、そこから舐めるように目線を落とせば北岳の町が一望出来た。既に町には一時的に避難した人間が戻って来ており、生活の営みをする輝きが蛍の群れのように点灯していた。


「ヤクト殿」


 健闘寺の門を潜ったところで横合いから声を掛けられ、それに反応してヤクトはパッと振り返った。門の脇には角麗とクロニカルド、そしてキューラ女史の三人が立ち尽くしていた。多少の感情表現の差異はあれど、皆表情に似通った不安を浮かべている。


「アクリル殿は寝られましたか?」

「ああ。カクレイのくれた安眠を誘う御香のおかげでな。効果覿面やで」


 そう言ってヤクトは角麗へアクリルを優しく手渡した。角麗は受け取ったアクリルに悲痛な視線を落とし、そのままヤクトの方へ顔を持ち上げた。


「ガーシェルは……どうですか?」

「いや……」ヤクトが虚しそうな溜息を吐きながら首を横に振る。「相変わらず起きる気配はあらへん。もう既に四日が経過しとるっちゅーのに」


 そう、トウハイが前代未聞の危機を乗り換えてから既に四日が経過していた。辛うじて首都『東果』が邪龍に蹂躙されるという最悪の展開こそ免れたものの、四大地方都市の一角である東照の消滅、そして今回の防衛戦における戦没者の埋葬等々やるべき事は山積していた。

 特に手痛かったのは十二神闘流の三人が命を落とした事だ。彼ら一人で一個師団に匹敵する戦力と言わしめており、単純計算だが三個師団分の戦力を失った事になる。加えて邪龍との戦いで命を落とした兵士はトウハイ軍全体の約五割強にも上り、戦力の低下は避けられない状態だ。


「ドレイク帝国が来る気配は?」

「今はありません」ヤクトの問いに角麗は首を横に振る。「しかし、前線の抵抗が弱まれば後方で何かが起こったと察するでしょう」

「確か東にある幾つかの島国と連携しているのだな?」

「はい」


 そこで角麗は東の方角を見遣り、それに釣られてヤクト達も彼女と同じ方角を見据えた。


「トウハイは主に三つの国家と連携しています。一つは近隣にある、私達とは異なる進化を遂げた獣人達が治める日照と呼ばれる海洋国家。その先にあるハイオーク達が統治しているヴィクレクト王国。更に人魚達が暮らす海中国家シャンディーです」

「海中国家だと?」クロニカルドが意外そうに目を丸くする。「そのような国が存在するのか? そしてハイオークの国もだと?」

「聞いた事があるわ」キューラが会話に割り込む「他にもエルフ達が暮らしていたグリュネル。そしてドワーフ達が暮らしていたガレオスって島国があったわよ。でも、どちらもドレイク帝国に占領されたけどね……」

「キューラ殿の言う通りです。そして今、ハイオーク達が暮らすヴィクレクトはドレイク帝国の侵略を受けています。あそこは広大な土地と芳醇な大地を抱えており、またハイオーク達の高度な農耕技術と相俟って、大国の台所を一つや二つ余裕で賄える高い食料自給率を誇ります」

「つまり自分達の兵糧を確保する為に目下侵略中という訳やな」

「その通りです。私達は亜人同盟を結んで何とかドレイク帝国の侵略を食い止めていますが、今回の邪龍との一戦でトウハイが受けた傷は余りにも大きい。もしも敵に打って出られたら援護するどころではありません」

「此方の疲弊が相手側にバレへん事を祈る他ないっちゅー訳か……」


 しかし、それが到底無理な話である事は誰もが理解していた。それぞれの国が兵力を出し合って漸く互角だったのに、一国が抜ければその分抵抗は弱まってしまう。ましてや最も多くの戦力を投入していたのがトウハイだ。その穴埋めが如何に難しいかは言うまでもない。

 その兆しをドレイク帝国がみすみす見逃すかと言えば答えは否だ。寧ろ長年に渡って侵略戦争を繰り広げてきた彼の国だ。敵の力が弱まったと見做すや、即刻攻勢に転じて一気に勝負へ持ち込むだろう。


「ところで――」クロニカルドは進展が見込めない話題を切り上げて別の話題を切り出す。「ガーシェルの事だ。キューラよ、お主から見てアレは何故に目覚めないのだ?」

「ヤクトちゃん達が言うには、ガーシェルちゃんは邪龍の制御核を食べたんだよね?」

「ああ。ひょっとしてアレに毒が含まれとったんか?」


 ヤクトの声に懸念が含まれるが、キューラは首を横に振って彼の憶測を否定した。しかし、依然として変わらぬ険しい表情から見るに、彼女の中に別の懸念がある事は誰の目からも明白であった。


「もしも制御核に何かしらの毒が含まれていても、ガーシェルちゃんのスキルならば耐えられる筈よ」

「では、一体何が原因なのだ?」

「考えられる可能性は……膨大な経験値を一気に獲得した事による自我の崩壊」

「自我の崩壊?」


 聞き覚えの無い単語にヤクト達は面食らったように目を丸くした。だが、キューラとて彼等がそういった反応を示す事を予想しており、そのまま立て続けに自分の説を語り始めた。


「魔獣は他の魔獣を喰らう事で魔力を得て、経験値を得て、そして各々の力量に見合った進化をする……これは分かるよね?」

「うむ、それは理解している」

「でも、だからと言って膨大な経験値を得れば良いって話じゃないの。急激な経験値は時として魔獣にとっては毒以上に危険なものになるのよ」

「どういうこっちゃ?」


 ヤクトの問いに答える前にキューラはチラッと角麗に抱き抱えられてるアクリルを見遣った。そして彼女が十二分に寝入っている事を遠巻きに確認すると、深刻な眼差しでヤクト達を一巡した。


「魔獣が進化するにはある程度のプロセス――戦闘と捕食のサイクルを踏まないといけないのよ。戦闘で肉体を鍛え上げて、捕食で経験値を積み重ねる。その繰り返しの末に漸く進化という次のステップへ踏むことが出来るの」

「強大な魔獣を食べたからと言って直ぐに進化出来る訳ではないのか?」

「そう。肉体の器が未熟だと、例え経験値があっても身体が進化に追い付かないのよ。最悪の場合、肉体が拒絶反応を起こす場合があるの」

「拒絶反応っちゅーと?」

「これは偶々見掛けたんだけど、死に掛けたSランクの魔獣にEランクのスライムが群がっていたの。そして魔獣の肉を喰べた途端に殆どのスライムが痙攣を引き起こしてショック死したのよ」

「ショック死……ですか?」

「ええ。恐らくだけど急激な進化に肉体が耐えられなかったのね。中にはソレを克服して一足飛びで強大な魔獣へ進化するのも居るかもしれないけど、これは仮説だから何とも言えないわ」

「では、ガーシェルが一時的に暴走したのも?」

「膨大な経験値を会得した事で理性の箍が外れたのでしょうね」


 ヤクト達の心に冷たい戦慄が落ち、そしてジワジワと全身に広がっていく。邪龍の血肉を喰らって暴走した時点で薄々嫌な予感を覚えていたが、キューラが告げた情報の全てが当て嵌まっているだけに、余計に現実味を増した絶望が重く圧し掛かる。


「ですが……死んではないのでしょう?」

「うん、あくまでも昏睡状態。だけど、このまま飲まず食わずの状態が続けば、何れは……」


 と、言い掛けてキューラは悔しそうに下唇を噛んで顔を俯いた。ガーシェルを救いたいという思いはあれど、従魔研究の第一人者にして魔獣研究の権威である彼女を以てしてもソレは不可能である。そう悟らせるには十分な反応であった。


 最早、彼等がガーシェルにしてやれる事はなかった。何一つとして――。

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