第200話 怨嗟と執念の井戸底

 ドス黒い液体に呑み込まれてから既に十分近くが経過しているが、依然として状況に変化が訪れる気配は見当たらない。これに呑み込まれた時は一巻の終わりかと覚悟したが、幸いにも即死魔法ではなかった。意識があるという点では良かったかもしれないが、だからと言って問題が皆無という訳でもない。


(少しずつ魔力を削られていますね……)


 このヘドロのような液体には魔力を奪う効果があるらしく、少しずつだが虚脱感にも似た気怠さが私の肉体に蓄積されつつあった。このままでは遅かれ早かれ魔力が尽き、そして生命力が危機に晒されるのは想像するに難しくない。

 そう考えると一刻も早く此処から脱出すべきであろう。因みに(特殊な魔法で生み出されたからか)液体の中では遊泳スキルは発動しないが、真下の地面を掘って脱出するという方法ならば可能だ。しかし、後者を選択した場合、二つの問題が浮上する。

 一つは私が地下から脱出した場合、この害悪な液体も私を追って外へ出てしまうという事だ。もしも外へ出たら、どんな害意を振り撒くか検討も付かない。もしかしたら既に地面を伝って、周囲に被害を及ぼしているのかもしれない。

 もう一つはアクリル達を始めとする生物が漆黒の液体に触れてしまった場合だ。豊富な魔力を持つ私やアクリルやクロニカルドなら多少は耐えられるかもしれないが、それ以外の人達は瞬く間に魔力を根こそぎ奪われてしまうだろう。

 私自身だけならば辛うじて耐えられるが、他の人達を巻き添えにする訳にはいかない。しかし、私が命を落とせば鉄壁のダムが崩壊し、害悪の詰まった液体は周囲に溢れ返ってしまう。


(さて、どうするべきですかね……)


 不気味な液体が充満するコロッセオの中に腰を下ろしたまま、板挟みの苦しみに頭を悩ませる私であった……。



「此処やな……」

「ほぉー! 見事な聖鉄の防壁じゃのう!!」

「恐らくガーシェルが築いた物であろう。こんなものを作れるのはヤツしか居らん」


 エルフ達の村へと戻ってきたヤクト達は、ガーシェルが築いた聖鉄の壁を見上げていた。断崖絶壁の如く聳える聖鉄の壁はドワーフ達からすれば垂涎ものに違いないだろうが、大半の人間の興味は聖鉄の向こう側に注がれていた。


「気を付けろ! 落ちて来るぞ!」


 表面張力が働いたコップの液体がちょっとした弾みで零れ落ちるかのように、聖鉄の向こう側から漆黒の液体が飛び出した。瞬時に反応したクロニカルドがドーム状の結界を展開すると、コーティングされた車体のように降り掛かった液体を弾き飛ばしてみせた。

 しかし、弾かれた漆黒が大地に降り掛かると、強酸をブチ撒けたかのような音と一緒に白煙を吐き出した。そして煙が掻き消えた後には、ドス黒く焼け爛れた大地だけが取り残されていた。


「何ちゅー呪いや。こりゃ触れるだけで即死なんて生易しいモンやあらへんで」

「ああ、そして厄介なことに己の結界でも完全に防ぎ切るのは骨が折れるみたいだ」


 そう言うとクロニカルドの結界が風船を割るかのように弾け飛び、焼けた地面の匂いが漂う外気が雪崩れ込んできた。香しいとは言い難い臭気に誰もが鼻を腕で覆い隠し、険しさの滲んだ顰め面で聖鉄の壁を――厳密には内部に充満している黄泉の水を――睨み付けた。


「当たれば即死。結界を張っても魔力を吸われて一回ポッキリ。こりゃ難儀だね」


 おどけた口調とは裏腹にジルヴァの表情は引き攣っており、それが事の深刻さを理解している表れでもあった。だが、そんな中でクロニカルドはある事実に気付いていた。


「ああ、しかし……一つ確かな点がある」

「と、言いますと?」と、オイゲンが興味深げに尋ねる。

「うむ、この呪いはやはり魔力を吸収する性質を持っている。しかし、アレを閉じ込めている鉄壁は何の変哲も無い。不思議だとは思わぬか?」

「おお!! そういや確かにそうだぜ!!」


 あの壁がガーシェルの生み出した魔法であるのならば、とうの昔に魔力を吸収されて無に還っている筈。しかし、未だに顕在しているという事は何かしらの理由があって呪いの影響を受けていない、もしくは進行が遅れていることを意味する。そしてクロニカルドは勿体ぶる事無く答えを出した。


「恐らく、この呪い――『黄泉の水』は聖属性との相性が最悪なのだろう。ならば、強力な聖魔法を食らわしてやれば呪いは浄化されて無力化させることも可能やもしれぬ」


 その仮説に「おお!」と期待の籠った声がチラホラと上がる。だが、そこへすかさず水を差すかのようにコーネリアが問題点を指摘した。


「御言葉ですが、この大規模な黄泉の水を浄化するには強大な聖魔法を一・二発食らわすだけでは足りないかもしれませんわ。ましてや、聖魔法を繰り出せる人間にも限りがありますわ。今からソレが可能な人間を呼びに行くのは到底不可能ですし、これらの問題を如何にして解決なさるおつもりで?」


 彼女が冷静に状況を分析して問題点を洗い出す度に、期待で盛り上がっていた空気が冷や水を浴びせ掛けられたかのように萎縮していく。またもや漠然とした不安が人々の間を取り巻くかに思われたがしかし、既にクロニカルドは打開策を考え出していた。


「それに関しては問題はない。只、その為に必要な人材が―――」

「みんなー!」


 その時、一生懸命に叫ぶ幼女の無垢な掛け声がクロニカルドの台詞を遮った。それに反応して一同が振り返れば、大きく右に膨らんだ聖鉄と森の合間を駆け抜けるアクリル達の姿があった。


「姫さん!? どうして此処に!?」

「ガーシェルちゃんが危ないから来たの!」

「ガーシェルが危ないって……どういう意味やねん?」


 理解に苦しむかのように眉を八の字に顰めるヤクトだったが、二人の会話に割り込んだキューラの台詞によって追及は叶わなかった。


「説明は後回しよ。それよりも私達の方でも隠形の結界に悪影響が出始めたの。何かによって魔力が吸い取られているみたいだけど……」そこで言葉を切ると、キューラは聖鉄の壁を見上げた。「原因はコレね」

「せや、何処ぞかの阿呆がやらかした性質の悪い呪いや」


 呪いという言葉にキューラは忌々しい表情を一瞬浮かべるも、直ぐに個人的な感情を封印して建設的な行動を模索した。


「……解決方法はあるの?」

「クロニカルド先生が言うには手立てが一応あるみたいやで」


 そう言ってヤクトが親指でクロニカルドを指し示せば、指された側もコクリと頷いて自信の程度を見せ付ける。


「それじゃ……どんな方法なのか聞いても良いかな?」

「本当にガーシェルちゃんも助けられるの?」


 どちらも疑問形ではあるが、片や状況の打破を期待し、片やガーシェルの安否を気に掛け、込められた思いも願いも異なっていた。しかし、趣旨の異なる二人の問い掛けに対しクロニカルドは「勿論だ」と断言した。


「丁度人材は揃った。この作戦の鍵は―――アクリル、お前を置いて他に居ない」


 クロニカルドに名指しされたアクリルは、きょとんとした顔を浮かべたまま首を傾げた。



 クロニカルドの作戦は単純にして大胆なものであった。

 先ずクロニカルドが空中浮遊の魔法で『黄泉の水』に満ちたコロッセオの遥か真上に移動し、コロッセオを中心に聖魔法の魔法陣を書き描く。この聖魔法は聖属性のアイテムを媒体とすることで効果の強弱が大きく変わるというものであり、それが強ければ強いほどに浄化する力が膨れ上がるのだ。

 では、今回は何を媒体とするのか? 答えはガーシェルを包み込んでいる聖鉄の貝殻並びにコロッセオを成している鉄壁だ。あそこまで巨大な聖鉄であれば効果は期待出来るのは勿論、上手く行けば汚染された森を回復させる事も可能かもしれない。

 しかし、決して問題が無い訳ではない。この魔法を発動させるには媒体となるアイテム……即ち、ガーシェルに直接魔力を注ぎ込む必要がある。因みにコロッセオの壁に関しては魔法陣の一部として組み込む予定なのでノーカンだ。

 しかし、黄泉の水に沈んだガーシェルを見付け出すのはおろか、そこに直接魔力を注ぎ込む事すら到底不可能だ。そこでクロニカルドは問題を解消すべく、ガーシェルと従魔契約を交わしているアクリルに白羽の矢を立てたのだ。

 最強と呼んでも過言ではないアクリルの弓矢の力を以てすれば、黄泉の水を貫いて底に沈んでいるであろうガーシェルに魔力を注ぎ込む事が出来る……そう考えたのだ。


「では、参るぞ。準備は良いな?」

「うん!」

「OKです」

「こっちも問題無いわよ」

「何時でも良いよー」


 クロニカルドが問い質すと、アクリル・ヘルゲン・キューラ・ジルヴァの順に返事が返ってくる。因みにオイゲンとジルヴァは万が一に備えた護衛役であり、キューラはアクリルの補佐役だ。それ以外の面々はクロニカルドが指定した魔法陣に入らぬようコロッセオの周りから退避している。


「よし、行くぞ。浮遊フライ!」


 クロニカルドが魔法を唱えると、水色の光がアクリル達の身体を覆うように包み込んだ。刹那、アクリル達の身体が綿毛のようにフワリと地面から浮き上がると、そのまま宙に向かって上昇していく。


「わー、すごーい!」

「燥ぐでない。今から重大な仕事をするのだぞ」


 無邪気なアクリルをクロニカルドが窘める間も、彼等は大空へと浮き上がっていき……やがてコロッセオを俯瞰出来るほどの高さにまで達した。そしてコロッセオの内部を覗き込んだ途端、誰もが嫌悪感を表情に滲ませた。


「わー、きたなーい」

「余り好ましい色じゃありませんね」

「寧ろ、不潔の象徴みたいな色合いね」


 コロッセオの内部は水飴のような強い粘り気を持つ漆黒の液体で埋め尽くされていた。小石一つ投げ込んだだけで黄泉の水が溢れ返ってしまいそうなまでにヒタヒタであり、彼等に残されている時間は然程無いと理解させるには十分であった。

 

「時間が無いな。一刻も早く事を終わらすぞ」

「分かりました。アクリルさんとキューラ女史の護衛は任せてください」

「じゃあ、ボクはクロニカルドの護衛をするね」


 クロニカルドとジルヴァが五人の輪から抜けるように飛び出し、コロッセオの直上へと移動する。てっきり呪い主からの妨害があるものだと思い込んでいたジルヴァは、思いの外すんなりと定位置に付けた事に対して肩透かしを受けたかのような不満顔を作った。


「何か意外とあっさりで気が抜けちゃうなー」

「ボヤくでない。そもそもコレは術者の死と引き換えに発動する魔法なのだ。最早其処に意思なんて残されておらん。仮にあったとしても、それは亡者の怨念でしかない」

「ふーん、そういうものか。ま、いっか。それよりもさっさと終わらせちゃおうか」

「言われるまでもない。……では、行くぞ!」


 天空に向かって掲げたクロニカルドの右掌に眩い光の球体が出現すると、ミラーボールのようにクルクルと回りながら無数の光線レーザーを地上目掛けて放った。

 凄まじいエネルギーを秘めた光の柱が大地を穿ち、巨大且つ複雑極まりない魔法陣を精密機械さながらの精緻さで描き上げていく。その様はレーザー加工を用いた芸術作品みたいに美しくもある。

 そしてあっという間にコロッセオを中心とした浄化の魔法陣が完成すると、クロニカルドは遠巻きに見守っていたアクリル達に定位置に来るようにと片腕でジェスチャーを送った。


「行きましょう、アクリルちゃん」

「うん!」


 それを見たキューラとアクリルは互いの手を取り合うと、空を蹴ってクロニカルド達の元へと向かった。森中に轟いていた戦闘音は既に止んでいるが、代わりに不気味なまでの静寂さと死が広まりつつあり、一刻も早く止めなければという強い気持ちが胸中に宿る。


「何だ?」


 不意に呟きを上げたのは二人を守る形で先行していたヘルゲンだ。コロッセオを満たす黄泉から嫌な気配を察知して視線を投げ落とすと、それまで平穏だった水面が不可視の嵐に揉まれるかのように突然荒れ狂いだした。


「皆さん、気を付けて下さい!!」


 ヘルゲンの呼び掛けで全員が黄泉の異変に気付いた直後、水面から無数の手が飛び出した。まるで地獄へ引き摺り込もうとするかのような亡者の手は天へと上り、互いに目的を共有し合ってるかの如く三人目掛けて襲い掛かった。


衝盾シールドバッシュ!」


 ヘルゲンが構えた盾の表面から、衝撃波の固まりが繰り出される。それを真っ向から受けた手は不可視の壁に激突したかのように拉げ、穢れた雨と化してコロッセオへと降り注ぐ。しかし、一つ潰したところで次々と他の手が群がるように襲い掛かり、流石のヘルゲンも全てを捌き切るのは不可能であった。


「多重結界(クロスバリア)!!」


 そこでヘルゲンは真四角のサンドイッチのような三重結界を至る場所(ランダム)に展開し、真下から襲ってくる手を食い止める仮初の防壁を構築した。黄泉の水の特性を引き継いだ手を完全に食い止めるのは難しいが、彼女達が行動を起こす上で必要となる時間を稼ぐには十分であった。


「今の内です! 行ってください!!」

「分かったわ! 行きましょう、アクリルちゃん!」

「うん!」


 正直に言えばヘルゲンの安否が気掛かりだったが、現状を考えると彼に感けて貴重な時間を潰すのは愚の骨頂にも等しい。後ろ髪を惹かれる思いでこの場を託した二人は、定位置で待つクロニカルドに向かって飛び立った。

 すると、それまでヘルゲン目掛けて殺到していた手が急に彼と彼の結界を迂回するように素通りし、その場から遠ざかりつつある二人の女性に魔の手を伸ばさんとし始めた。そこで初めて手の狙いが、二人の女性のどちらかである事が判明した。


「姉貴!」


 目にも止まらぬ速さで黄泉の手と二人の間に割り込んだジルヴァは、両手に握り締めたジャマダハルを思い切り振り抜いた。左手を振り抜けば紫電を纏ったレーザー刃が漆黒を打ち払い、右手を振り抜けば紅蓮に燃え盛る煉獄が夜闇を焦らす。

 それぞれの属性を付与した三日月状の斬撃が手を切り飛ばしていく様は圧巻であり、一見するとジルヴァが圧倒しているようにも見える。がしかし、魔力を吸い取るという厄介な特性のせいで一つの斬撃につき精々1~2本の手を切り払うのが限界であり、必然とジルヴァの攻撃の手数は嵩む一方であった。


「くそ、キリがない!」悪態を吐きながらもジルヴァは攻撃の手を緩めずに二人を見遣った。「此処はボクが食い止めるから! 二人はクロニカルドの所へ!!」

「頼んだわよ、愚弟!!」

「愚弟は余計だっつの!!」


 軽口を叩き合いながらもキューラは信頼の厚い弟に背中を預け、アクリルを連れて更に上へと向かった。そしてクロニカルドの所へ辿り着くと、そこで漸くアクリルと固く結んでいたキューラの手が解かれた。


「それじゃアクリルちゃん、頼んだわよ!」

「触手は己達に任せておけ! 貴様はガーシェルに呼び掛けるのだ!」

「うん、分かった!」


 クロニカルドがチラリと下に目線を飛ばすと、僅かではあるがヘルゲンとジルヴァの妨害を突破した手が迫りつつあった。それに対しクロニカルドは聖魔法で手を蹴散らし、キューラも得意とする弓矢でアクリルに近付けさせまいと奮闘する。

 二人の頑張りを目の当たりにしたアクリルは決意を固めた面持ちを浮かべながら、スッと瞼を下ろして心の奥底で繋がってる絆という名のバイパスに向けて呼び掛けた。


(ガーシェルちゃん! ガーシェルちゃん!)


 三度ほどガーシェルの名を呼んだ時、彼女の意識下で繋がっているバイパスに確かな手応えがあった。それは従魔とのテレパスが可能になっただけでなく、ガーシェルが生きているという意味でもあり、それ故に彼女は純粋な喜びに心を震わせた。


(ガーシェルちゃん!)


 ガーシェルとの繋がりを自覚してパッと目を見開いた途端、コロッセオ内に溜め込まれた黄泉が奇妙な波を打ち始めた。まるで子供の落書きに登場しそうな緩急の激しい波線を描き始め、やがて波と波の間隔が徐々に狭まり出し……最終的には一つの像を結んだ。

 それは水面を埋め尽くさんばかりの巨大な人面であった。まるで3Dプリンターのように立体的な人の顔が水面に浮かび上がり、そして天空に向かって恨み辛みを凝縮した……この世の物ではない咆哮を放った。


「アァァァァァクゥゥゥゥリィィィィルゥゥゥゥ!!!」

「ひっ!?」

「な、何よアレ!?」

「術者の怨念……とでも言うべき奴か? だが、ここまで明確な意思を宿しているとは……」


 地獄の底から叫んでいるかのような憎悪をたっぷりと染み込ませた悍ましい声は、アクリルの心を恐怖で揺さ振った。その巨大さと見目の不気味さも恐怖の一因ではあるが、それ以前にアクリルは人面の口から飛び出した声に聞き覚えがあった。

 エコーが掛かって聞き取り辛いが、その元となっている声はしわがれた老人のソレだ。それを理解した瞬間、アクリルの記憶に一人の人間が浮かび上がった。アクリルの短い人生で最も幸せに満ちていた日々を奪い取った張本人が……。


「い、いや……!!」

「アクリルちゃん!?」


 如何にアクリルが強大な魔力の持ち主であるとは言え、その精神は依然として未発達の幼子そのものだ。心に負ったトラウマの元凶を目の当たりにした途端、アクリルはガタガタと震える自分自身を抱え込むように身を縮こまらせてしまう。

 アクリルの異変に気付いたキューラは、攻撃の手を止めて彼女の方へと振り向いた。しかし、その瞬間を待ち望んでいたかのように一本の触手が女史の真横を通り抜け、アクリルに魔の手を伸ばさんとする。


「しまった!!」

「いかん! 間に合わん!!」


 二人が失態に気付いて表情を強張らせるも時既に遅し、触手を引き止める余裕は完全に失われていた。しかも、トラウマを刺激されて完全に塞ぎ込んでしまったアクリルは目前に迫っている触手の存在に気付いてもいない。


(助けて、ガーシェルちゃん―――!!)


 触手の指先がアクリルに触れんとした時、彼女は無意識に助けを求めた。そんな彼女の願いが届いたのか、黄泉の奥底から清浄なる光が噴き上がり――水面に浮かんでいたイゴールの顔と無数の手を吹き飛ばした。



 頭の何処かでアクリルの声が聞こえたかと思いきや、私に圧し掛かる漆黒が蠢き始めた。それまでは瓶壺に溜まった水底のような静寂さが満ちていたのに、突如として激しい潮流にも似たうねりが貝殻越しに伝わって来た。

 それと同時にコロッセオの外から甲高い戦闘音が聞こえてきた。ヤクト達が来てくれたのだろうか? となれば、この苦境から抜け出せるかもしれないという期待が胸中を過る―――筈なのだが、私の胸中を真っ先に過ったのは不安であった。

 何を隠そう、既に魔力の残量は半分以下にまで下回っており、このままでは十分と経たない内にガス欠となる。そうなれば私の魔法で築いたコロッセオが決壊し、周囲に居るであろうヤクト達やエルフの村に多大な被害が出てしまう。


 そうなる前に状況を好転させなければ……と、足りない頭を捻って策を絞り出そうとした時だった。


(助けて、ガーシェルちゃん―――!!)


 助けを求めるアクリルの声が脳裏に響き渡った。刹那、私の思考はシャットダウンされ、そして理性に厳重管理されていた筈の感情が爆発した。怒りや激情とは異なる、窮地に陥った主人を助けねばという従魔ならではの使命感。そして口より先に手が出るかのように、私は後先考えずに魔法を繰り出していた。


聖砲セイントカノン!』


 貝殻の頭頂部に設けられた火口から穢れを寄せ付けない清浄なる光が噴き出し、私の周りに充満していたドス黒い液体を一瞬にして浄化せしめた。そして一条の光は暗闇を切り拓くかのように上昇し続け、やがて暗闇を抜けて大空を突き刺す美しい塔と化した。

 ポッカリと刳り貫いたかのような穴の先に目を遣れば、周囲を埋め尽くす闇とは一線を画す美しい夜空が広がっている。そこにはクロニカルドとキューラ、そしてアクリルの姿が見えた。


『アクリルさん!!』


 普通ならば届かない距離だが、従魔契約によって結ばれた私達の心はソレを可能としていた。その証拠にキューラに抱き締められるようにして守られていたアクリルの頭がピクリと動き、ゆっくりと肩越しに振り返り私を見下ろした。


「ガーシェルちゃん!」


 向こうも私の姿を確認したのだろう、アクリルの表情に喜色に富んだ笑顔が咲き誇る。傍らに居たクロニカルドがアクリルの耳元で何かを告げると、彼女は何かを思い出したかのようにキューラの胸から慌てて抜け出し、何処からか取り出した弓矢を構えた。

 そして矢の先端に設けられた鋭利な鏃を、穴の奥底……つまるところ私に向けた。最初は「え?」と疑問を覚えたが、次いで頭の中にアクリルの声が響き渡った。


「ガーシェルちゃん! 動かないでね! それとスキルで防御してね!! 魔法の防御は駄目だよ!! 効果が薄れちゃうってクロせんせーが言っている!」

『え? ちょ、待っ―――』


 手っ取り早く終わらせたかったのか、アクリルは一方的に告げると此方の心情を無視して矢を放った。彼女の魔力を帯びて発射された矢は音速の壁を突き破り、大気中にソニックブームの輪を幾つも作りながら垂直に落下してくる。まるでSFに登場する『神の杖』のようだ。

 私の聖砲で抉じ開けた穴がレンズを絞るかのようにゆっくりと狭まり始めた。しかし、矢は針の穴を通すように閉ざされつつある一本道を突き進み、あっという間に私の直上に到達する。


『け、堅牢! 鈍重! え、ええっと後他に何が―――』


 アクリルに言われた通り現時点で用いられる防御スキルを全て発動させた直後、鏃が私の貝殻を叩いた。高貴な鐘の音色にも似た甲高い音が鳴り響き、次いで外界とを繋ぐ穴が暗闇に閉ざされる。


 そして―――神々しい光の奔流が足元から噴き上がり、周囲を埋め尽くす質量のある常闇を一掃した。

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