第18話 ラビットロール①

 人型魔獣と遭遇した時、注意すべき点は魔獣ならではの凶暴性や持って生まれた身体能力の高さではない。知能の高さだ。

 人間のように言語を用いる魔獣も居れば、独自の武器を生み出したりする程の知識を持つ魔獣も居る。だが真に恐ろしいのは、人型魔獣は自分達の肉体特性を把握し、それに見合う戦略や戦術を頭の中で構築していると言う点だ。それ故に彼等と勝負する際は、彼等よりも二手三手を見据えた戦い、俗に言う『頭脳戦』を如何に制するかが鍵となる。

 メリルとアクリルの親子の前に立ち塞がるラビットロールは、人型魔獣の中では比較的に野性味の強い魔獣だが、トロールらしさとも呼べる狡猾さも健在だ。逃げようとしても、そう易々と逃がしてはくれないだろうが、それでもメリル達に残された手は逃走以外にはなかった。


「お、おかーしゃん……!」

「アクリル! 走るわよ!」

「う、うん…!」


 メリルは娘を小脇に抱え上げ、目先に居るラビットロールから踵を返した。アクリルを怖がらせないよう配慮したいのは山々だったが、流石に魔獣と言う脅威と相対しては恐怖と緊張で心が追い詰められてしまい、その余裕の無さは娘に投げ掛ける岩石のように固い言葉の音色が如実に物語っていた。

 一方のラビットロールも獲物がみすみす背中を見せて逃げようとする様を、黙って看過してやるほど寛大ではなかった。


「ギシャアアアアアア!!!」


 踵の無い足で地面をドンッと力強く蹴り上げ、ラビットロールは弾丸のような跳躍でメリル達を追い駆ける。いや、厳密に言えば追い駆けるまでもなかった。

 メリルとラビットロールの間には50m以上の開きが存在していたのだが、ラビットロールはそんな距離の差なんて物ともせず、自慢の脚力で二人に追い付くどころか余裕で追い越し、先回りして二人の逃げ道を意図も容易く遮ってしまう。

 先回りされたメリルは直ぐに方向転換して駆け出すも、再び追い付かれては行く手を遮られてしまう。


「ギシャシャシャシャ!!」


 ラビットロールが愉悦に満ちた笑い声を上げ、凶悪な笑みとも生理的に受け付けない醜い笑みとも呼べる、どちらにせよ好意を持てない笑顔を見せた。

 そこでメリルはラビットロールの心境を察した。この魔獣は自分達を弄んで楽しんでいるのだと。熟練の戦士が無力なスライムを剣先で軽く突いて苛めるのと同じで、ラビットロールは無様に逃げ惑うメリル達を玩具と見做し、存分に遊んでは飽きて興味を無くしたら食い殺す気なのだ。

 命を弄ぶ性質の悪い遊びにメリルは怒りを覚えたが、彼我の力量を考えれば向こうの傲慢な態度もある意味で当然かもしれない。だが、彼女とてラビットロールの遊びに付き合ってやるつもりなど更々無かった。


「光魔法【フラッシュ】!」

「ガアアアアア!!?」


 ラビットロールに向けて突き出したメリルの人差し指の先端から眩い光が溢れ、緑に溢れた山の木々や、色彩豊かな花畑が暴力的な白に埋め尽くされる。

 【フラッシュ】は攻撃力皆無の低ランク魔法だが、魔力の込め具合によっては暗がりを照らすライトにも、スタングレネードのような強力な閃光にもなる汎用性の高さが売りだ。またメリルのような魔力の少ない一般人でも、一度覚えてしまえば簡単に使えるという扱い易さも利点の一つだ。

 焼き付くような強光を浴びせ掛けられたラビットロールは、光量の許容量を超えて痛みを訴える眼球を守るように、両手で顔を覆い隠しながら身体を内側へ折り曲げて蹲った。事前に目を瞑って光を免れていたメリルは、ラビットロールの動きが止まるや背を向けて走り出した。

 走っている最中も肩越しからチラチラと警戒の籠った視線を後ろに投げ掛けるが、フラッシュの後遺症に苦しむラビットロールは逃げる二人を追い駆けるどころではなかった。

 この隙にメリルは花畑を全力で駆け抜け、後少しで台地を抜けて鬱蒼と生茂る山林に辿り着くと言う所まで来た―――その時だ。


「おかあしゃん!」

「!!」


 腕の中に居るアクリルが必死な声で母親を呼んだ直後、背後から濃密な影が圧し掛かってきた。メリルがバッと後ろへ振り返ると、ラビットロールが此方に向かって我武者羅に突っ込んでくる姿が目に飛び込んできた。

 メリルは咄嗟に体を横へ投げ出してラビットロールの攻撃を躱したものの、その弾みで腕の中に居たアクリルを手放してしまう。アクリルは花弁を盛大に巻き上げながら転がるが、幸いにも花畑そのものがクッションになってくれたらしく直ぐに何事も無かったかのようにパッと起き上がった。


「アクリル! 大丈夫!?」

「う、うん。へーき! おかーしゃんは!?」

「あたしも……大丈夫よ!」


 そうは言ったものの、実を言うとメリルの足首に鈍い痛みが宿っていた。恐らく今の攻撃を咄嗟に躱した際に足を挫いてしまったのだろう。痛みに耐えながら俯せの身体を起き上がらせると、遠くの方でラビットロールの背中が見えた。

 自分達を探しているのか、頭を頻りに左右に振っている。だが、未だに目が使えないのか自分が通り過ぎた進路上に居るメリルとアクリルの存在には気付いていないようだ。

 今の内に逃げなくては。痛んだ足を庇いつつゆっくりと立ち上がろうとして、足元に生えた雑草を踏み締めて物音を立ててしまう。途端、ラビットロールのウサギ耳がピクンッと反応し、メリルの居る方向へギュルンッと勢い良く首が回った。


(しまった――!)


 そこでメリルは気付いた。ラビットロールが目ではなく、耳で獲物の位置を把握している事実に。恐らくフラッシュの後遺症が抜け切らないので、その応急処置として自慢の聴覚を活かした獲物の探知を試みたのだろう。

 そしてラビットロールは一瞬でメリルの隣に到達し、頭を……もといウサギ耳をアンテナのように動かしてメリル達の居所を探ろうとする。

 勿論、メリルは動かない。少しでも動いて音を出せば、その時点でアウトだ。けれども、幼いアクリルにはメリルみたいに状況を察するだけの知恵は育っていなかった。


「お、おかーしゃん……」

「グルッ!」


 強力な不安に押し潰され、アクリルは今にも泣き出しそうな面持ちで少し離れた場所に居る母を求めてしまう。娘の声にラビットロールが敏感に反応した瞬間、メリルの心臓が止まり掛けた。


(アクリル! 喋っちゃ駄目! 動いても駄目よ!)


 アクリルを見詰めながら必死に首を振り、口パクで音を出さないよう訴えるが、幼子にそれを理解させるのは無理があった。そして遂に目前の恐怖に耐え切れなくなったアクリルの感情はガラス細工のように呆気無く決壊し、大粒の涙を零しながら大声を上げて泣き始めた。


「うっ、うぅっ、うえええええええ!!」


 火が付いたかのような泣き出したアクリルの声にラビットロールが気付かぬ筈がなく、唸り声を上げながら声のする方へと足を向けた。だが、向きを変えた矢先に軽い衝撃が走り、ラビットロールが徐に目線を下げると一人の女性が自分の足にしがみ付いていた。


「アクリル! 逃げなさい!!」


 アクリルを逃がすべくラビットロールの動きを少しでも食い止めようとするメリルだが、一般の主婦が魔獣の相手になるどころか足止めなんて出来る筈が無かった。終いにはシッシッと鬱陶しい蠅を追い払うかのように指先であしらわれてしまい、草花の絨毯に倒れ込む。


「きゃっ!」

「おがーじゃん!!!」

「アクリル! 逃げて!! 逃げるのよ!」


 メリルは倒れながらもアクリルに逃げるよう必死に訴えるがしかし、魔獣を前にした恐怖に縛られたアクリルは銅像のように立ち尽くすばかりで一歩も動けなかった。

 その頃にはラビットロールもフラッシュの後遺症から立ち直っており、元に戻った視野で捉えた小さい獲物を見るや、腹を空かした肉食動物さながらに舌なめずりし、残忍な笑みを深めた。


「アクリル!」


 娘を守りたい一心で再度立ち上がろうとするメリルだったが、激痛を訴える足首が彼女の動きに歯止めを掛けた。思わず痛みの元凶である右足首を見遣ると、熟したトマトのように痛々しく腫れ上がっていた。

 見ているだけで痛みが何倍にも膨れ上がりそうだが、メリルは役立ずになった自分の足を忌々しそうに睨み付け、「こんな時に……!」と悪態を吐き捨てる。痛覚は人体の異常を知らせる重要な感覚だが、今は自分の動きを妨げる厄介なものでしかなかった。

 そして視線をラビットロールの方へ戻すと、人間の子供なんて一撃で粉砕してしまいそうな鋭い赤爪を振り上げ、アクリルの頭上に振り下ろさんとしていた。既にアクリルはギュッと強く瞼を閉じており、動く意思すら無くしていた。


「アクリルゥー!!」

  

ドガンッ!!


 血を吐くような絶叫にも似たメリルの叫びを合図に、ラビットロールが拳を振り下ろす。凄まじい衝突音が花畑に響き渡り―――ラビットロールの巨体が吹き飛ばされ、花弁を巻き上げながら転がっていく。


「え?」


 少し前まで娘を失う恐怖と絶望に押し潰され掛けていたメリルも、予想とは大きく異なるどころか斜め上を行く展開にポカンと口を開けて呆けてしまっている。聡明な彼女ですら、今の状況に理解が追い付いていないようだ。

 アクリルも一向に拳が襲って来ない事を不思議に思ったらしく、恐る恐る涙に濡れそぼった目を開けると、そこには幼い彼女も見覚えのある魔獣の背中があった。


「シェルちゃん?」


 姫を守るナイツのようにアクリルを背に庇っているのは、真っ白い貝殻が自慢の海の魔獣―――シェル貝原であった。



(全く……私は何でこうも厄介事に見舞われるんでしょうね……)


 ラビットロールなる魔獣に全力で体当たりを決めて親子のピンチを救った直後、私の胸中に灯っていた想いは燃え上がるような正義感でもなければ、親子を甚振る魔獣への怒りでもない。只々、ここ最近身の回りに起きる厄介事の発生率に対する呆れであった。

 今更だからブチ撒けてしまうと、あの親子がラビットロールと遭遇した時、私は傍観に徹して事の成り行きを見守るつもりだった。即ち二人を助ける気もなければ、最悪見殺しにする事も辞さないと言っても過言ではない。

 他人が聞けば「ピンチに追い遣られた親子を助けもせずに見捨てるなんて、血も涙もない冷血漢め!」と糾弾するだろうが、此処で思い出して欲しい。今の私は人間ではなくシェルであり、それも脱走中の身だ。そう、人間に姿を見られたり捕まったりするのは非常にマズいのだ。

 捕まれば専属の道具を使って解体されてしまうのは言わずもがな。貝殻は人間の盾や防具に回され、本体私自身は人間の食卓に上げられてしまう。それだけは何としてでも回避しなければならない。

 そしてもう一つ、二人を助けてもメリットなんて無いという事実だ。仮に私が熱血正義漢よろしく二人を助ける為に飛び出したとしても、向こうからすれば新たに別の魔獣が加わっただけで余計に危機感と緊張感を募らせるだけだ。

 向こうを警戒させるだけならば兎も角、『ラビットロールだけでなく私達も食べる気なんでしょ!? エロ同人みたいに!』と強い敵愾心を抱かれては元も子もない。因みに私は捕食プレイというハード且つアブノーマルなプレイに興味ない。

 では、どうするか? 答えはシンプル! 何もせずに素通りするだ。今の私は人間に追われる恐れのある身。態々助けて自分の首を絞めるよりも、このままスルーして海を目指すのが最良なのだ。あくまでも私個人にとってはだが。

 御二人には悪いが、これもすべては異世界を生き抜くためだ。そう二人に内心で謝罪する振りをして、自分に言い聞かせながら花畑を迂回しようと方向転換し掛けた時だった。


「うええええええええ!!」


 アクリルの激しい泣き声が花畑中に響き渡り、その場から離れようとしていた私は思わず足を止めてしまう。二人を見捨てようとしていた私の心にアクリルの泣き声が突き刺さり、その傷口から罪悪感が溢れ出てくるのだ。

 此処で罪悪感を押し殺し、彼女を見捨てるのは簡単だ。しかし、それを選択したら最後、恐らく私は罪悪感によって心を殺され、残りの余生を生きていく事になるであろう。いや、この場合は正真正銘の畜生に堕ちると言った方が適語かもしれない。

 助けてもメリットは無いだの、人間に捕まりたくないだのと何だかんだ言っておきながら……心の根底にある本音はアクリルを助けたいと叫んでいた。けれども今

の自分の立場が、それは出来ないと正論を押し付けてくるのだ。


(くそ、一体どうすれば良いんだ!?)


 この上なく難しい選択肢を突き付けられ、板挟みに遭って苦しんでいる私の脳裏にある人間に言われた言葉が降って来た。


『アンタに足りないのはやる気や行動力以前に、自分の本心と素直に向き合う気持ちよ! やろうと思えばやれるのに、アンタは何時もああだこうだ言い訳をして、挙句安全牌を出して逃げる! そんなんだから何時までも経っても成長出来ないんでしょ!!』


 前世の私はチャレンジ精神と呼ばれるものが乏しいどころか著しく欠けており、何をするにしても自分の負うリスクを考えてしまい、結局は自他共に害も無ければ利益も無い、安全牌と呼ばれる方法をチョイスしてしまう億劫でつまらない男だった。

 そんな男に対して上記の辛辣な酷評を下したのが、私の幼馴染である女性だった。

 彼女は強い人間だった。失敗を恐れないタフネスな精神力、率先して活動を起こす行動力、そして人を見る確かな目に優秀な頭脳。歯に衣着せぬ口振りや勝気な性格が玉に瑕だが、それでも彼女の周りには大勢の人間が集まっていた。私もその一人だった。

 何をするにしても常に自分と向き合う姿勢を貫く彼女の姿に、私は憧れという感情を抱いた。もしかしたら恋慕ではないのかと自分自身に問うた事もあったが、彼女の隣に立つ自分を想像するだけでも恐れ多く、とてもじゃないが恋慕の感情なんて抱けなかった。

 そんな憧れの対象である彼女から突き付けられた容赦ない評価は、私の心に深く突き刺さったものだ。けれども、彼女の指摘は確実に的を射抜いていたのでグウの音も出なかったが。

 そう、私は逃げ続けていた。リスクの少ない選択をする事で挑戦から逃げ、周囲の考えや圧倒的多数の意見に顔色を窺い、自分の本心から何度も目を背けた。その結果、メリハリの無い寂しい人生を送り、仕舞いには三流の推理ドラマみたいな冒頭射殺という結末を迎えてしまった。

 では、異世界の貝に転生した後も同じような事を繰り返すのか? 本心を見て見ぬ振りをし、自分の望まぬ結末になっても「仕方がない」の一言で片付けるのか? 姿は違えど、折角転生したのに前世と同じつまらない生き方をして良いのか?


(自分の本心と素直に向き合う気持ち……か)


 彼女に言われた台詞が心の古傷に痛むが、おかげで迷いは吹っ切れた。アクリルに向かって爪を振り下ろさんとしていたラビットロールに体当たりを敢行し、これで後戻りできなくなった。けれども、不思議と私の心は冴え渡っていた。

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