第8話
翌日。
そういうわけで、オレは身体が元に戻るまでの間フロントに厄介になることになった。仕事が始まる前には、普段食堂からちらとも出ないだろうセルマンと厨房長が顔を見せにきた。よほどオレが何かしでかさないか心配らしいが、そこらの野良猫風情と一緒にされては困る。毛を逆立ててそう言うと、あいつらは揃ってそれもそうかと納得して厨房に戻っていった。
オレはため息をついてその背中を見送ったのだが、長かったのはそこからだった。もともと猫好きらしい理子はなかなかオレを解放してくれなかったし、他のフロント連中もこぞってオレを撫でまわした。ちゃっかり薫も便乗してきて、オレはツッコミ役不在の状況をやり過ごすしかなかった。
ようやくまともに動けるようになったのは、従業員のモーニングの時間が始まるギリギリだった。皆が名残惜しそうに食堂へ向かう中、理子はオレを抱え上げてロビーの隅に向かった。
「はい、じゃあ猫マオくんの定位置はここね!」
猫もマオも同じ意味だとツッコむ気力も起きなくて、オレはされるがままにロビーの隅にある振り子時計の傍に降ろされる。そこにはご丁寧なことに細い木の枝を編んだ籠が用意されていた。中には小さめのブランケットが敷いてある。人間の時より格段に待遇が良い気がするのは気のせいじゃないと思う。
「はぁ……もう何も言わねぇ。」
いささか空しい気分になりつつもその中に収まると、理子はひとしきりオレの頭を撫でて食堂へと去っていった。
結った髪が尻尾みたいに揺れる後ろ姿を見送って、オレはふとフロントに残った従業員に視線を移した。そいつはマシュマロみてえな顔で、同じ後ろ姿を目で追っていた。
オレは収まったばかりの籠を出て、フロントのカウンターに飛び乗った。薫は特に驚いた様子も見せずにオレに視線を落とした。
「……行かなくていいのか?」
その少し茶色がかった瞳を覗き込みながら問うと、あいつは笑って言った。
「うん、俺はいいよ。後からで。」
そう、こいつは決まってこう言うのだ。今に始まったことではないが、どうしたってこいつは自分を後回しにする。それは見ようによっては美徳ではあったが、オレには納得がいかないものでもあった。
「……なぁ、薫。」
「うん?」
オレの呼びかけに、薫は走らせていた万年筆を止めて首を傾げる。その顔があまりにも普段通りで……なんとなく、踏み込んでほしくないと言っている気もして。
「………いや、……何でもねぇよ。」
オレは結局、これまたいつもと同じように口ごもる。文句のひとつやふたつ言おうと思うのに、最後には薫の放つ無言の圧に負けるのだ。我ながら情けない。
(……ち、後悔したって知らねぇからな。)
薫の想い人は、なかなかどうして鈍感だ。気づかないまま、なんてことも大いに考えられる。現に気がついていないわけだし。
ただ、そんなことになったとしても、きっとこのお人好しで優しすぎる友人は、笑って祝福するのだろう。自分の想いをそっとどこかにしまい込んで、鍵をかけて。
そんなことには、なるべくならなってほしくはないなと思いながらカウンターを飛び降りる。すると、数歩と行かないところで薫の声が降ってきた。
「ねぇ、マオ。」
「……んだよ。」
ガラの悪い返事で振り仰ぐと、あいつはカウンターに頬杖をついた。その口元にはやや苦い笑みが浮かんでいた。
「君ってさ、なんだかんだ優しいよね。ツンデレっていうのかな?」
オレは盛大なため息をついて、答えた。
「知るか、んなこと。」
薫は声を上げて笑った。
結局、あいつはフロント連中が帰ってくるまでひとりで雑務をこなして、モーニングの時間が終わる頃合いに食堂へと消えていった。
普段食堂にこもっている身としては、フロントの仕事は眺めている分には面白かった。
オレたちウェイターは、極論行きたくない客のところは避けることができるが、フロントだとそうもいかない。良い客もマナーのなっていない客も相手をしなくてはならないのはそれなりに大変なはずだが、理子も薫もそつなく客をさばいているし、クレームじみた文句の対応も非常に丁寧だった。さすがホテルの顔と呼ばれるだけはある。
暇な時間に飽きもせずオレをかまいに来た理子にそう言ってやると、あいつは馬鹿みたいに嬉しそうに笑った。薫の気も知らないで、能天気なやつだとオレは内心で呆れる。
そして、その拍子に何気なく視線を動かしたときだった。視界の隅で、見知った姿が動いた気がした。
(………リリー?)
肩口で揃えた黒髪姿は、他に該当者が思いつかない。昨日の思い詰めた表情が頭の中を過ぎり、オレは気づけば理子の手のひらをすり抜けて歩きだしていた。
「そこに日がな一日いるとボケる。ちょいと散歩だ。」
追いかけてこようとした理子には、そう適当な理由をつけ、オレは早足でロビーを後にした。
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