第163話
夕闇と共に沈黙がしばらく歩人と杏奈を包むが、先に口を開いたのは杏奈であった。
「歩人、辛いとは思うけど、黙っていても何の解決にもならないわ」
「ど、どうしてそんな事を言うの、母さんは?」
歩人の言葉に、杏奈は顔色一つ変える事もなく、歩人の決断を待っているように思えた。
「このままでは、あなたの親しい人間は全て死ぬのよ」
それを聞いた歩人は思わず耳をふさぎ、その場に座り込む。
「僕に、そんな事は出来ないよ」
杏奈は何も言わずに歩人を見つめていたが、明らかに失望したような表情で大きく息をついた。
「そう、なら勝手になさい」
「ま、待って母さん!」
杏奈は歩人が呼び止めるのも聞かず、その場から去ろうとするが、同時に歩人は杏奈といる方向とは逆である自身の背後に人の気配を感じる。
「おい」
その言葉に振り返ると、そこに立っている人物に歩人は驚きを隠せなかった。
「ミュ、ミューゼルさん?」
「歩人、今お前の目の前にいる奴は、本当にお前の母親か?」
「な、何を言ってるの?」
歩人は明らかに困惑するが、その一方で杏奈がミューゼルを見て、明らかに驚いている事に違和感を覚える。
「あなたは、何故ここにいるの?」
杏奈の問いかけに対し、ミューゼルは鼻で笑ってみせる。
「流石に、あんたには理解出来なさそうだから説明してやるが、俺は歩人の中に残る思念が、この場で形を成したものだ」
「思念だと?」
その口調は杏奈らしからぬもので、それを聞いたミューゼルは、今度は声を出して笑う。
「化けの皮が剥がれてきたか。ところで歩人、お前はここがどこか分かるか?」
「ここ?」
ミューゼルと杏奈のやり取りを目にして、困惑するばかりの歩人はミューゼルの問いに答える事は出来なかった。
「ここはお前の中だよ」
「僕の中?」
「正確には、お前の心の中だ」
歩人にはにわかに信じがたいものであったが、一方で杏奈の様子が明らかにおかしい事も承知している。
「じゃあ、この母さんは?」
「こいつは俺の記憶の中にはいないが、お前ならしっかり見れば、その正体が分かるんじゃないのか」
「しっかり見る?」
「何て言ったって、歩人の心の中だからな」
ミューゼルは歩人が良く知っている笑顔を見せると、歩人もそれまでの不安が解消されていくのが実感できた。
そして歩人は改めてアンナを見るが、それは次第に別の人物へと変化していく。
「ディー?」
その場に姿をさらすことになったディーは、恨めしそうな表情を見せ舌打ちをするが、その視線はミューゼルに向かう。
「貴様さえいなければな」
「そいつは生憎だったな。しかし俺も居たくて居る訳じゃないんだがな」
ミューゼルが頭を掻きながら皮肉っぽい笑みを浮かべると、ディーは困惑したような表情を浮かべる。
「俺は、歩人にとって傷みたいなものさ」
その間、歩人はディーに向けて術を放つべく魔力を集中させていたが、それに気付いたディーはすぐに姿を消した。
「随分と呆気ないな。まあ、ここが歩人の心の中である以上、お前が負ける要素はないだろうがな」
「そ、そうなんですか?」
「ここは、歩人の思い通りに出来る世界だからな」
「思い通りに」
そう呟いた歩人は、そのまま考え込む。
「お前が望むなら、一生ここで過ごす事も出来るだろうが、お前しか存在しない世界でもあるから、決しておススメはしないがな」
それは歩人にとって居心地の良いものに思えたものの、その反面、考えただけで虚しさを覚えた。
「まあ、たまに今みたいに入ってこようとする奴はいるだろうが」
「どうして、ディーは母さんの姿で?」
「お前を油断させる為に、お前に近い人間に成りすましたんだろうよ」
「何をするつもりだったんだろう」
「恐らく、お前に絶望を与える事でお前の心を壊わし、そこに付け込もうとしたんだろうな」
ミューゼルの説明に歩人は思わず身震いするが、同時に自分が今話しているミューゼルに対しての疑問も浮かんでくる。
「じゃ、じゃあミューゼルさんはどうしてここに? さっき思念がどうとか傷がどうとか」
それを聞いたミューゼルは顔をそらしつつ、考える素振りを見せるが、その表情からはどこか迷っているように見えた。
「ミューゼルさん?」
「いや、話しておくべきだな」
ミューゼルは小さく息を吐くと歩人に向き直る。
「俺がここにいるのは、歩人が俺の死を引きずっているからだ。言ってみれば罪悪感ってやつが俺をここに縛り付けている」
その言葉に歩人は何も言えず立ち尽くすが、ミューゼルは歩人の肩を強めに叩き歩人を驚かせる。
「最後の訓練だ」
ミューゼルは短剣を取り出し歩人に向かって鋭く突き出すと、歩人は驚きつつもそれまでのミューゼルとの訓練の経験もあって身体が反応し、寸でのところで短剣を避ける。
「ほら、ぼーっとするなよ」
そう言ってミューゼルは歩人に向けて次々と攻撃を仕掛けると、歩人は必死にそれをかわしていくが、それは頭で考えなくとも身体が反応している状態であった。
「俺達が初めて会った時の事を覚えているか?」
「は、はい!」
攻撃を仕掛けながらの問いかけに、歩人は焦りつつも返事をし攻撃を避ける。
「あの時、俺はお前を叩きのめしたが、正直なんてひ弱な奴だと思ったもんさ」
その言葉に歩人は苦笑いするしかなかった。
「でもな、自分が痛めつけられても、お前はお姫さんの事を手放そうとはしなかったな」
「あれは必死だったから」
歩人は少し頬を赤らめながら照れ臭そうに答えるが、その間もミューゼルの攻撃は続いており、歩人の身体が彼の攻撃に対して順応している事をうかがわせる。
「今でも同じ事が出来るか?」
「え?」
ミューゼルの問いに歩人は思わず動きを止めると、頬のあたりを短剣がかすめ、その痛みに思わず後方へ飛び退き、頬を触ると指が赤く染まった。
「歩人は何を考えて、奴らと戦っているんだ?」
「そ、それは、早く戦いを終わらせたいと」
「何の為にだ?」
「それは、この世界のみんなの為に」
それを聞いたミューゼルは何故か呆れたような表情を見せる。
「なるほどな、今のお前が以前とは比べ物にならない程の力を持っているのに、全く余裕が感じられないのはそういう事か」
「え、どういう事?」
次の瞬間、ミューゼルは歩人が反応できない程のスピードで歩人の頭をはたくと、その衝撃は大したことはなかったが、歩人は思わず頭をさする。
「お前がそんな器用な事出来る奴かよ」
その言葉に、歩人はあからさまに不満そうな表情を見せるが、ミューセルが気にする様子はなかった。
「お前は、姫さんの事だけ考えてればいいんだよ」
「え!?」
歩人の顔は瞬時に真っ赤に変わる。
「そんな他の奴等がどうとか、世界がどうとか、余計な事考えすぎなんだよ」
「だって」
「ましてや、お前は相手を憎んで戦えるような事が出来るタイプじゃないだろうが」
歩人は言い返せず、口をつぐんだままであった。
「そもそも、お前がこの世界に来たのは何の為だよ。あの姫さんをこっちに帰す為に身体張ったんだろうが」
そう言われ、歩人はレスティナがこっちの世界に帰れなくなるのではと思い、川に飛び込んで彼女を助けた時の事を思い出す。
「あ、あの時は、他に何も考えられなかったから」
「それで良いんだよ」
その時、不意にレスティナの歩人を呼ぶ声があたりに響き渡る。
「レスティナ?」
「ほら、噂をすればなんとやらだ」
「行けよ。そしてもう余計な事を考えるな」
歩人は頷きつつも、目の前のミューゼルの事が気になり改めて彼に向き直る。
「ミューゼルさんは?」
「俺もようやくここから解放されそうだな」
ミューゼルは笑顔でそう告げるが、その言葉にミューゼルとの別れを実感した歩人は思わず顔を歪ませると、ミューゼルは歩人の胸に自らの拳を軽く当てる。
「俺はここにいる。ただし、これからは歩人にとって、罪でも傷でもない存在としてな」
「ミューゼルさん」
覚悟を決めた歩人は、拳を力強く握りながらも静かに目を閉じた。
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