第20話

「歩人様、歩人様」


 耳元に聞こえてきたその声に歩人が目を開けると、既に部屋には朝日が差し込んでおりその眩しさに目を細める。


「おはようございます、歩人様」


 薄目のまま声のする方に顔を動かすと、綺麗な女性が間近でこちらを覗き込んでおり、歩人は驚きのあまり飛び起きた。


「お、おはようございます歩人様、起こして申し訳ありません」


 驚く歩人を見て申し訳なさそうな表情を見せるクロエに、歩人も照れ臭そうに頭を掻く。


「おはようございます」


 歩人はとりあえず身体を起こすが、眠気には耐えきれず大きなあくびをしてしまうが、クロエが目の前にいる事を思い出し慌てて口を押えた。


「ごめんなさい」


 謝る歩人に対して、クロエはむしろ微笑んでおり、その様子に歩人も安心する。


「わたくしはこれから出かけますので、恐れ入りますが姫様の事をよろしくお願いします」


 そう言うとクロエは深々と頭を下げるが、昨夜の話で2人に対する追手がいると聞いた歩人は途端に険しい表情に変わる。


「どこに行く気ですか? 追手がいると言っていたのに」


「はい、向こうの世界に帰る手がかりを探る事と、当面の糧を手に入れる為の働き口も探そうと思っております」


「そ、そんなの、気にしなくても」


 歩人の言葉に、クロエは急に神妙な表情を見せる。


「そう言って頂けるのはありがたいですが、やはり我々」


 そこでクロエは口ごもり、思い直したように再び口を開く。


「いえ、今の姫様はあの身体ですから、正直負担ではないでしょうけど」


「クロエさん一人分くらい、どうにか誤魔化せると」


「そ、それは、無理かと」


 フォローのつもりで口にした言葉に対し、クロエは慌てた様子で否定する。


 会って間もないものの、今までの言動を見ていて常に冷静でいるイメージがある彼女が、そこまで慌てる事に歩人は意外な気がしていた。


「とにかく、我々にも体面というものがありますので、それは理解していただけると助かります」


「でも」


 心配のあまり表情を曇らせる歩人を見て、クロエは歩人の優しさに心の中で感謝しつつ笑顔を向ける。


「これは、姫様には内緒でお願いしたいのですが」


 その言葉に歩人はレスティナを見ると、彼女は相変わらずタオルにくるまれ幸せそうに寝息を立てており、とても2人の会話を聞いているようには思えなかった。


「この世界の事を知りたいというのもありますから、観光も兼ねております」


「でも」


 歩人が口を挟もうとするが、そのタイミングでクロエの右手の人差し指が歩人の唇に触れ、その感触に歩人は何も言えなくなってしまう。


「そもそも、向こうとしても状況も分からない見知らぬ土地で、下手に目立つような真似は避けたいはずですし」


 クロエはじっと歩人を見つめるが、まだ唇から指を放す様子はない。


「それに、わたくし1人なら気配を悟られないようにする位の事はたやすいですから、心配には及びませんよ」


「本当ですか?」


 クロエの指が唇から放れると同時に歩人がそう口にすると、クロエは今まで以上に口角を上げ自信に満ちた表情を見せる。


「ユークリッド最高の魔術師と称される、わたくしの実力をお疑いですか?」


 そんな態度で言われてしまうと否定する訳にもいかず、歩人は思わずため息を吐いた。


「わ、分かりました、信じます。でも決して無理はしないで、危なくなったらすぐに帰ってきてください」


 そこで歩人はより力強い視線をクロエに向けると、クロエも思わずたじろぐが、自身を落ち着かせるかのように自身の黒髪を撫でる。


「本当にお優しいのですね。歩人様は」


「え?」


「昨日出会ったばかりの人間に対して、そこまで真摯に接して下さる方はそうそうおりませんかと」


 クロエの言葉に顔が赤くなるのが自分で分かった歩人は、慌てて視線をクロエから外した。


「で、でも、その格好も目立つのでは?」


 気まずくなって話題を変えようと口にした歩人の言葉通り、クロエの格好は昨日と変わらず、こちらの世界ではコスプレとしか思えない格好である。


「それも問題ありません。こちらの方々の目には、皆と変わらぬ格好にしか映りませんから」


「そうなの?」


 歩人は思わずクロエの全身を見るが、やはり昨日と何ら変わりはなかった。


「本当に、歩人様には効かないのですね」


 そう言いながらクロエは思わず苦笑するが、そんな彼女を見て歩人も申し訳ないような気がしてしまう。


「そ、それって、やっぱり魔術ですか?」


「はい」


「随分、便利なんですね」


「便利ですよ。願望を実現させる為の術ですから」


 そう言って得意気な笑顔を見せるクロエを見て、今度は歩人もつられて笑顔になる。


「とは言え、この程度の事は難しくありませんよ。ちょっと思い込ませるだけですから」


 歩人はその言葉を聞いて、思わず怪訝そうな表情を見せる。


「ご心配されなくとも、悪用は致しませんよ。我々にも決まりと言うのはありますので」


「その決まりを破ったら、どうなるんですか?」


「重罪人として罰せられます」


「でも、それってクロエさん達の世界での事ですよね?」


 それを聞いたクロエは意味あり気な笑顔を見せるが、その笑みを見た歩人は背筋が寒くなるような思いがした。


「冗談ですよ」


「そ、そうですよね」


 そこで満面の笑顔を見せるクロエと、対照的にひきつった笑みを見せる歩人だが、その間に不思議な静寂が包み込む。


「それでは、そろそろ行きます。改めて姫様をお願いしますね」


「はい」


「そうそう、姫様は寝起きの機嫌が悪いので、決して近付かないようにして下さいね」


 言い終えるとクロエは忽然とその場から消え、歩人は思わずクロエがいた場所に手を伸ばすが、手は空を切るだけであった。

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