エインヘリャル物語 〜橘啓吾列伝〜
真面目 雲水
プロローグ
零 源流 前編
コトリ、と
東京都下の某所、かつての甲州街道から少し外れた閑静な住宅街の一角、古びた日本家屋である。
十帖余りの坪庭へ突き出た縁側に座り、
この老人、名を
後ろで引き結んだ
ぷかり、と月旦の口から出た紫煙は輪を描きながら空中へと消えていく。月旦はただ目を細めてそれを見送った。
年老いた月旦の眼差しは、奥深く吸い込まれるかのような光を静かに
この老人、小さいながらも一流派を継承している達人である。
その矮躯からは想像だにもできぬ
(ままならぬものよ)
月旦は
代々、彼の家系はおよそ平穏無事な生き方に無縁である。
父や祖父もそうであったし、息子もそうであった。
ならばこそ、年老いた老人が憂慮するのは孫のことである。
孫、
その憎らしい運命はかつての幼い少年に牙を剥き、忌まわしい事件を引き起こしたのだ。
両親を失った啓吾が彼の元へとやって来たとき、生来の天真爛漫さはどこにもなく、物静かな思慮深い少年に変貌していたものである。
その頃の月旦は可愛い孫が自分を見上げた目が、
「なにやら、背筋がぞっとする」
ような深淵を覗き込んでいるような気分になったという。
だが不思議と嫌な気分はしなかった。
その啓吾の姿が、狂おしいまでに愛と繋がりを求め、それでいて誰かに拒絶されることを恐れている
それから、長い
老人は老人なりの家族として出来ることを思いつく限りに啓吾に示した。その月旦の愛情に
その成長がなにより彼には嬉しかったものである。
やがて少年は青年へと変わり、大学生になった。
健やかに育った
日々の修練で打ち合うたびに増していく手応え、そしてその剣筋に垣間見えるかつての息子の幻影。
懐かしくも仄悲しい、静かな情熱に満たされた時間が月旦にはかけがえのないものである。
ふと、感慨に耽る月旦の背に影がよぎる。
徐ろに振り向いた先にいるのは、愛しい孫の姿。月旦のそれと色違いで
「爺さん」
「ん、おお。もう朝飯の時間か」
「あぁ、もう出来てる。先に行ってるぞ」
「……のう、啓吾」
思わず月旦は愛孫を呼び止めていた。
啓吾が料理を作ってくれるようになって随分と経つ。
最初は美味いものを喰らって元気になってほしいという単純な企みだった。
自身がそれなりに包丁を遣うこともあって時には家で、時には行きつけの店で色々と孫に馳走した。
啓吾が興味を持てば料理のイロハも丁寧に教えてやった。
実のところ、ここにやってきて間がなかった啓吾にとっては何か役割が欲しかったのかもしれない。
そうと知りながらも月旦は彼の好きなようにさせたし、実際、孫に作ってもらった飯というものは思っていたよりもずっと良いものであった。
「いつも、ありがとう」
「……ばっ、やめてくれ。ガラでもないだろ」
「そうかのう」
月旦は呵々として笑いながら煙管を灰落しに打ち付けた。
精緻な
乱暴な口調とは裏腹に台所へと行ってしまった啓吾が照れたように口元を緩ませていたのがどうにも可愛いものである。
既に成人も済ませているというのに、あの純朴な青年は未だに褒められ慣れていないのだ。
《ほんに、わしのような老害にはもったいないほどによく出来た孫じゃて》
万感の思いに揺らぐ瞳に、月旦はそっと瞼を閉じた。
どこかでキジバトが鳴いている声が聞こえた。
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