第39話 えっ……

 マンションを飛び出すとそこには社に戻ったはずの谷野君が立っていた。

 私は誰とも係わりたくなくて無視をして雨の中を歩き出した。

 私の後をしばらくしても谷野君は付いてきた。

 社に戻るように言っても自分の責任ですからの一点張りで私が社に戻らないのなら自分も戻らないと聞かなかった。


 どれだけ歩いたのだろう身体が冷え切った頃に腕をつかまれ近くにあったファミレスに連れ込まれてしまった。

 そして谷野君はどこかでタオルを買ってきて温かい飲物まで注文してくれた。

 濡れた体を拭いて温かい飲み物を飲んでも体の真ん中だけは温まらなかった。

 どれだけ何も喋らずに座っていたのか、外を何となく見ると一つの傘で仲良さそうにするカップル達が街を行きかっている。

 瑞貴君を信じる事が出来ないでいる自分が情けなく、何も言わないで居る谷野君に甘えている自分に腹が立ち店を飛び出し。

 無我夢中で霙の中を走り回り足がもつれそうになるといつの間にか谷野君に肩をつかまれてしまった。

 我に返り辺りを見るといつの間にかホテル街に迷い込んでいて谷野君に促されてタクシーで社に戻った。


 重い足取りで秘書課に行くと香蓮さんと花ちゃんが待ち構えていて誠心誠意頭を下げる事しか出来なかった。


「申し訳御座いませんでした」

「住倉の谷野君も戻ったのね」

「はい、無理矢理つき合わせてしまったみたいで」

「そう、その件はもう良いわ。なんとか会社には事情は説明しておいたから。明日にでも花が彼をマンションに案内する手はずになっているから」

「ありがとう御座います」

「花、凛子をシャワー室に連れて行って着替えさせなさい」

「判りました」


 まるで花ちゃんに監視されているみたいだった。

 それは仕方が無い事なのかもしれないプライベートな事で仕事を放棄して一時的とは言え行方不明になっていたのだから秘書としては失格だ。

 シャワーで冷えた体を温めると強張っていた心も少しだけ解れた気がした。


 予備のシャツとスーツに着替えて秘書室に戻ると香蓮さんがソファーに座り指を組んで今まで一度も見たことの無い強張った表情で一点を見つめ続けていた。


「凛子、話があるの。座りなさい」

「は、はい」


 香蓮さんのただならぬ雰囲気に恐る恐る香蓮さんの前に座ると、花ちゃんが私から視線を外して香蓮さんの横に腰掛けた。

 言い辛そうに香蓮さんの瞳が僅かに揺れている。

 何度と無く口を開きかけて溜息をついている。

 重い空気が3人に圧し掛かると香蓮さんが顔を少し上げて私の目を真っ直ぐに見据えた。


「野神君が生死の狭間を彷徨っているわ」

「えっ……」


 何を言われたのか全く理解できない、それでも体は直ぐに反応して血の気が引いていくのを感じる。


「出血多量と低体温でどうなるか判らないと藤堂君から連絡があったの。凛子がマンションを飛び出した直後に過呼吸症候群の発作に襲われて、藤堂君に必死に電話をしてきて凛子を探して欲しいと言ったそうよ。直ぐに藤堂君から連絡を受けて彼は凛子を探しに行き、私は花に野神君のマンションに行くように指示しての」

「香蓮さんに言われて直ぐに野神君のマンションに行ったけれど入れ違いだった。何故だか理由は判らないけれどセキュリティーシステムがダウンしていてすんなりと部屋に入れて、部屋に入ると血の着いたナイフと夥しい血の跡がキッチンとリビングにあったの」

「恐らく発作を止める為に自分自身で手にでもナイフを突き刺したのね。そして止血もそこそこにあなたを探す為に闇雲に霙の中に飛び出した。これは私の想像なんだけど凛子は谷野君とホテル街に居なかった?」

「え、どうしてそれを」

「一弥が野神君を発見したのもホテル街だったの」

「状況が状況なら最悪ね。野神君は2人を目撃してしまったのかもしれない、そして最後の糸が切れてしまった」

「私と谷野君は何も……」

「当たり前でしょ!」


 香蓮さんの激しい叱責が飛んできた。


「それで瑞貴君は?」

「かなり危ない状態ね。今は藤堂君が付き切りで容態を見ているわ。昏睡状態だそうよ」

「そんな、私も病院に」

「凛子を病院に行かせる訳には行かないの」

「どうしてですか? 私は瑞貴の恋人なのに、何で香蓮さんにそんな事を言われないといけないのですか!」

「それを本気で言っているの? 凛子」


 私が声を荒げて抗議すると香蓮さんは揺れる声で静かに言った。

 その声からは先ほどの怒りの感情は全く感じられなかった。


「どう言う意味ですか?」

「そのままよ。あなたは瑞貴君の事を信じられなかった、違う? なんで瑞貴君が急にあんな発作を起こしたのかしら」

「それは……」

「考えなかった? 違うわね、考えられなかった。凛子は良い意味でも悪い意味でも野神君の事になると周りが見えなくなってしまう。そして気付いた事があるの、野神君の発作はあなたが原因よ。野神君はあなたを失う事を極度に恐れている。それは凛子も知っていたはずでしょ」


 それは知っていた、瑞貴君はいつも私を守ってくれて優しくしてくれる。

 そんな瑞貴君ですら不安を抱え時々子どもの様に怯えていたから。

 香蓮さんに言われたばかりだった、年上の私がしっかりしなさいと。

 自分の事しか考えられないでいた自分に気付かされてしまった。

 初めて瑞貴君が発作を起こす前に瑞貴君が苦し紛れに言った言葉だけれど、それは以前に冗談交じりで瑞貴君が言っていた事と同じだった。

 その事に驚いてもしかしたら本当の事なんじゃないかと疑ってしまった。

 そんな私の感情に瑞貴君は敏感に反応してしまったのだ。

 子どもの頃から周りに気を使って生きて来なければいけなかった瑞貴君にとって容易い事だったのかもしれない。


 そして2度目は私が我を失い瑞貴君の事を拒絶してしまった。

 今の状態で瑞貴君の所に行き瑞貴君が発作を起こせば危険極まりない事は私にでも理解できた。

 全ては私自身の責任で瑞貴君を危険な目にあわせて、今回は命さえ危うい状態に追い込んでしまった。

 私には瑞貴君の側に居る資格は無いのかもしれない。

 それでも許して貰えるのなら……私は彼の側に居たい。

 今はそれすら許されない事に自分自身が情けなく、至らない事ばかりなのに笑顔で居てくれた瑞貴君の事を思うと涙が溢れ出した。



 しばらく仕事は休むように香蓮さんや花ちゃんに言われたけれどそれだけはしたくなかった。

 周りに迷惑を掛けた分はなんとしても自分自身で汚名返上したいし、独りで居れば必然と瑞貴君の事を考えてしまうから。

 自分に鞭を打ち仕事に集中した。

 それでも夜になり独りであのマンションに居るのは堪えられなかった。

 藤堂君が瑞貴君の所に詰めているので花ちゃんにマンションに泊りに来てもらい数日を乗り切る事ができた。

 そして香蓮さんに瑞貴君の意識がもどり容態が安定したと聞いたのは、良く晴れた澄み渡る青空の日だった。


「凛子、あの子の事も聞いてきたわよ」

「え、御堂美希の事ですか?」

「そう、沖縄に行った時に瑞貴君が言っていた亡くなった妹さんと一字違いの妹が彼女よ」

「それじゃ」

「野神君は嘘なんか付いて居なかった。あれはでまかせでもなく真実だったの。野神君は妾の子とは言え御堂財閥の事実上のご子息よ。まぁ本人はそんな事は思っていないでしょうけどね。それにそう言われるのを毛嫌いするでしょ」

「それとこれはあなたの将来に係わる事よ」


 その後の香蓮さんの話は殆ど耳に入らなかった。

 私が深く考えずに他人を部屋に招きいれてしまった結果、瑞貴君は私を守る為に日本を離れてしまう。

 それはある意味終身刑の様な査問を受けるために。

 私が立ち上がり秘書課を飛び出しても香蓮さんは何も言わなかった。


 タクシーを捕まえて病院へと急いだ。

 何を言っても許してくれないかもしれない。

 それでも瑞貴君に謝りたい。

 それ以上に瑞貴君の顔が見たかった。


 病院の前で物々しい黒塗りの車とすれ違った瞬間に瑞貴君の顔が見えた気がする。

 タクシーが病院の入り口に着くと藤堂君が立ち尽くしている。

 慌ててタクシーから飛び降りて藤堂君に詰め寄ると藤堂君は力なく首を横に振った。

 それは一目会う事も一言だけ謝りの言葉を告げる事も叶わず。

 私の世界から誰よりも大切な瑞貴君が消えた瞬間だった。

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