第37話 彼女を
凛子さんの誤解を解こうとしたが冷たく拒絶されてしまった。
これ以上は勤務に差し支えるので仕事が終わってから事情をきちんと打ち明けようと思っていた。
営業1課の自分のデスクに戻ると藤堂がいつもの様に声をかけてきた。
「野神、どうしたんだ?」
「んにゃ、別に」
「別にと言う顔じゃないけどな」
相変わらず藤堂には敵わなかった。
後からと言うとそれだけで藤堂は理解してくれたようだった。
仕事を再開してパソコンに向う。
大きなプロジェクトが動き出し仕事量は増えるばかりで、とりあえず目の前の仕事から手をつけていくしかなかった。
しばらくして仕事が波に乗ってきた時にあり得ない事が起きた。
デスクの上に置いた携帯がけたたましく警報を発し液晶は赤く点滅を続けている。
それは自宅マンションに誰かが侵入した知らせだった。
営業一課全員の視線が一気に俺に集まった。
「野神、何事だ?」
「藤堂。誰かがマンションに侵入した」
「そんな事があるのか? あんなにセキュリティーが万全なのに」
「間違いない。出てくる」
「待て!」
藤堂の呼び止めを無視して携帯を掴んで会社を飛び出した。
階段を一気に駆け下りて外に飛び出すと冷たい冬の雨が降り注いでいた。
物音一つしない赤い非常灯だけの部屋で座り込んでいるとまるで潜水艦で深海に閉じ込められてしまったかの様な気分になってきた。
しばらくすると部屋の電気だけが点いて静かに玄関が開く音が聞こえた。
そして足音を忍ばせながら瑞貴君が革靴を履いたまま現れた。
瑞貴君の髪からは雨水が滴り落ちてスーツの肩も濡れていて強張った表情をしている。
その顔は米軍基地で襲われた時とは比べも似にならないほどの怖い顔だった。
「み、瑞貴君」
「はぁ~ 凛子さんだったのか。どうして」
私の顔を見た瞬間に瑞貴君の体から力が抜けて力な微笑を浮かべた。
「すいませんでした。僕が勝手な事をしたばかりに」
「谷野か。お前はもういい、社に戻れ!」
「瑞貴君、そんな言い方は無いでしょ」
「それじゃ、どうしろと? 今は勤務中じゃないんですか?」
それは瑞貴君が私に初めて見せた怒りの感情だった。
直ぐに力ない表情に戻ったけれど不安が止め処もなく溢れ出しそうになるのを何とか堪えていた。
谷野君は瑞貴君に強い口調で言われ会社に戻ってしまった。
すると部屋の中は圏外になっていた筈なのに瑞貴君の携帯が聞きなれない着信音を鳴り響かせた。
「Hello?」
瑞貴君が突然英語で話し始めた。
とても短い会話で内容までは聞き取れなかったけれどはっきりと瑞貴君の口は『万が一の時の覚悟は出来ている』と告げていた。
瑞貴君が携帯を切ると同時に窓のシャッターが開放していく。
「仕事に戻りましょう」
瑞貴君の平然とした言葉に堪えていた不安が堰を切ったように溢れだしてしまった。
「仕事に戻りましょうじゃないでしょ。今の電話はなんなの?」
「この部屋の持ち主、つまり僕の友達に警報を解除してもらったんです」
「それじゃ、覚悟ってなに?」
「全て仕事が終わった後に話します。今は勤務中だからと言ったのは凛子さんですよ」
「そうだけど、あの時と今じゃ状況が全く違うでしょ。このまま戻ったって仕事になるわけ無いじゃない!」
「お願いです。ほんの少しで良いですから時間をください」
「そんな言葉は信じられない! 一体何をしようとしているの! あなたは何者なの? 私の知っている瑞貴君じゃない!」
「凛子さん。手を……」
「嫌だ、怖い。触らないで!」
瑞貴君が揺れる瞳で私に差し出した手を思わず振り払ってしまって怖くなってしまった。
得体の知れない瑞貴君のなかにある大きな何かを知るのが怖くて。
違う、それを知ってしまった時に受け入れられなかった時の自分が怖かった。
全てを失ってしまいそうでマンションから飛び出してしまった。
また全てを失ってしまうかもしれない。
それでも可能性を求めて凛子さんに打ち明けようと手を差し出すと完全に拒否されてしまい。
凛子さんがマンションから飛び出してしまった。
追い掛けようとしたが体に力が入らず床に崩れ落ちてしまう。
息が苦しい、再び過呼吸症候群の発作に襲われる。
凛子さんを失う訳にはいかない頭の中では判っていても体が全く自由にならなかった。
何とか震える手で携帯を掴み藤堂のナンバーをコールする。
「野神、何しているんだ?」
「と、藤堂。り、凛子 を探して くれ」
「お前、大丈夫なのか?」
「俺は くっぅぅぅ」
「発作だな。直ぐに行く。マンションだな」
「来るな! 彼女を」
携帯を放り出してのた打ち回ると背中にジャリっと何かが当たる。
見るとカップか何かの割れた破片だった。
恐らく凛子さんが慌てて落としたのだろう、そして床に落ちている別の物が目に入った。
それはお茶の時にレモンなんかを切るためにキッチンに置いてあったペティナイフだった。
ナイフを何とか掴み力任せに振り下ろした。
一か八かのショック療法だった。
左手にはタオルをきつく巻きつけて街を彷徨っていた。
降り続いていた雨は霙に変り身も心も冷え切り意識が朦朧とし始めていた。
日が落ちて暗くなり始め街に明かりが灯り始める。
左手からは血が止め処なく滴っている事さえ気がつかなかった。
どこをどう歩いたのか繁華街の外れにあるホテル街に来ている事に気付いたのは、どれくらい歩いた後だろう。
タクシーが止まり何となく顔を上げると探し続けていた凛子さんの姿がタクシーの向こうに見え隣には谷野の姿が、谷野に肩を抱かれるようにして2人はタクシーに乗り込み何処かに走り去った。
何とか繋ぎとめていた糸がぷっつりと途切れた瞬間だった。
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