第2話 好き・嫌い
校庭の向こうに見える私立青城中学校の校門をなんとなく眺めていた。
学校の前の通りに植栽されているプラタナスの葉がすっかり落ちて、曲がりくねった樹冠と白と緑の斑模様の樹幹が不思議な感じで見蕩れていた。
もう数ヶ月もすれば高校生になりこの校舎にも来なくなるんだと。
そんな感傷に浸る余地は無いか。
中学を卒業してこの校舎には通わなくなるけれど、隣接している青城高校に通うだけの事だから。
「ミーナ、ミーナ! ミーナってば」
「へぇ? 何?」
「何じゃないってば、授業中だよ」
私の背中をシャーペンで突っ突いて私の意識を現実に引き戻してくれたのは親友の大久保麻美(おおくぼまみ)だった。
麻美は中三にしては幼く見えるけど中身は……
「コラ! 神楽坂と大久保。授業中なのお喋りとは良い度胸だな。ちゃんと聞いていたんだろうな。神楽坂、これを訳してみろ」
「…………」
「ミーナ。ここだよ、ここ」
ムスっとした表情で私と麻美を睨みつけているのは英語教師の淀橋先生だった。
淀橋先生は夏休みが終わった頃に赴任してきた先生で良い意味でクールだけど、私はどちらかと言えば苦手な先生だった。
沈着冷静でとても機械的な感じがするといえば良いのだろうか、全て計算尽くで頭の中にはコンピューターが組み込まれているのではないかと思えるほどだった。
そのくせ顔つきは動物ぽく、何処と無く狐か鼠に似ていて眼鏡の奥で何を考えているのか判らない気がした。
目を細めていつもと変らない表情なのだけどいつもより3割増しで機嫌が悪い。
英語の授業を私が真面目に受けないのはいつもの事なのに。
麻美が教科書を指差して教えてくれた先生が私に和訳をさせようとしたのは『葉っぱのフレディー~いのちの旅~』と言うミュージカルにもなった物語の一場面だった。
「次の朝、初雪が降った。
風が吹いて、とうとうフレディーも 風に飛ばされた。
そんなに痛くは無かったよ。
彼が飛ばされたとき、彼は初めて自分が生まれた木の全体を見た。
彼は思い出した。ダニエルが言ったことを。
『人生はいつまでも続く』
フレディーは柔らかい雪の上に着地した。
そして目を閉じ、深い眠りについた。
フレディーは知らないが、木の中、そして地面の中には、 来春に生まれてくる葉っぱ達の命が宿っていた。
で良いですか? 淀橋先生」
「…………」
淀橋先生が苦々しい顔をしながら私の言葉を無視して、黒板に向って授業を続けようとしている姿を見てカチンと来た。
何故、私の問いに答えようとしないのか。
いつも麻美には一言多いんだよって言われるけれどここは譲れなかった。
「先生? 淀橋先生は生徒が問いに合っているか聞いているのに何故答えようとしないのですか?」
「正解だ、神楽坂。君に聞いた私が間違いだったよ。もう良いから座りなさい、それと授業もきちんと聞いて欲しいのだが」
「前向きに善処いたします」
政治家みたいに嫌味を込めて言うと淀橋先生は何事も無かったかの様に授業を再開した。
4時限目の授業が終わり昼休みになると周りのクラスメイト達は机をガタゴトと動かし仲が良い友達と食事をし始める。
私立だからなのか給食と言う物が無くお弁当を持ってくるか、学食で食べるか購買で何かを買うかの選択が出来る。
チャイムと同時に麻美が私の前に来て私の机で弁当を広げ出した。
「もう、ミーナは授業中なのにボーとしてさ」
「英語の授業をまともに受けないのは今日だけじゃないじゃん」
「そうだけどさ授業態度とか内申に響くよ」
「中学なんかテストで評価されるから良いんだよ」
「そう言われたちゃったら私には何も言えないよ。ミーナは成績優秀だもんね、英検も1級を持っているし、TOEFLでも凄いスコアを持っているんでしょ。だから英語の授業なんてつまらないんだよね」
「そう言う訳じゃなくって」
「まぁ、他の授業も似たようなもんか」
「もう」
そんな事を話しながら私もお弁当を広げると麻美の顔が今度は私のお弁当に釘付けになっている。
毎日の事なので気にしないでお弁当の蓋を開けると麻美の目がキラキラと輝いていた。
「うわぁ、今日も美味しそうだね」
「いつもと変らないじゃん」
「ええ、そうかな。毎日食べていると判らないのかな、この愛情がいっぱい詰まったお弁当の違いが」
「それは……」
「今日も大好きなパパの手作りお弁当か羨ましいな」
「しょうがないじゃんか、ママは居ないんだから」
私のママは私がまだ小さい頃に急性骨髄性白血病で永遠の別れをしてママの記憶は殆ど無い。
そして今の歳に成るまでパパが色んな人の力を借りながら私を育ててくれた。
そんなパパを……
「ミーナは大好きなんだよね」
「好きとかじゃない」
「それじゃ、嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど……」
「微妙な年頃だもんね、私達は。私だって親父が好きかって聞かれたら迷わず『嫌い』って答えるもん」
「それは仕方が無い事だってパパが言ってた。遺伝子の問題なんだって。男と女は遺伝子が違えば違うほど惹かれあい、似ている場合には拒む事が多いって。それは近親間の……」
そこまで言うと麻美が呆れた視線を私に投げかけて来ていた。
また、やってしまったのかも。
「ミーナはパパさんと普段どんな会話をしているの? 不思議だわ、普通はそんな会話はしないでしょ親子で。でもミーナのパパさんって素敵だよね、私の親父なんかと大違いだよ。背が高くってスマートで物腰が柔らかくてさ、それに若い! もてるんだろうな、アレだけ優しかったら」
「そうかな、パパはママ一途だからね」
「でも、こんな事を言うのはミーナのママに悪いけどもう10年以上経つんでしょ、再婚とか考えなかったのかなぁ」
「それは……」
私だって気になるし何度も聞いたことがある。
パパは身長も180センチくらいで痩せては居ないけどスマートで誰にでも優しい。
顔だって私的にはイケてる方だと思う。
でもその度に『バーカ』ってはぐらかしてまともに話を聞いてもらえなかった。
だから私はママ一途なんだって思っている。
「それにミーナのパパさんは料理も上手だしね」
「でも、それ以外はまるっきり駄目駄目だよ。片付けなんて出来ないし、キッチンだけはいつも綺麗だけど。それはゴチャゴチャした所で料理をしたくないからって理由でさ」
「普段のパパさんってどうなの? うちの親父なんかおっさん丸出しでさ、いつもジャージ姿で家でゴロゴロしててお母さんにいつも怒鳴られてるけど」
「う~ん、あんまり変らないよ。ソファーでゴロゴロしてて、時々一緒に買い物に連れて行ってくれて」
「はぁ? 買い物に一緒に行くの?」
「うん、ウィンドーショッピングして欲しい物があれば買ってくれて、食事してパパは少しだけお酒を飲んで帰ってくるの」
「ふうん、パパさんとデートしてるんだ」
「買い物だよ」
「あのね、男と女がそう言う事をするのをデートって言うの。判った?」
「う、うん」
本当はパパの事が大好きなの。
でも麻美の言うとおり私達の年頃は微妙でファザコンって言われてしまえばそうなのかも知れない。
時々だけどパパの仕草にドキってしてしまう時があるの。
それは私がパパを親子ではなく一人の男の人として見てしまうからかも知れない。
「そんなデートまでしちゃうパパさんの事を授業中に考えていたと?」
「そんなんじゃ無いけど、子どもの頃の事をちょっと思い出していただけ」
「もう、ミーナは『おもひでぽろぽろ』の『タエ子』みたいだな」
「おーい、神楽坂。お呼びだぞ」
お弁当を食べ終えてそんな話をしているとクラスメイトの男子に呼ばれて、教室の入り口を見ると見慣れない男子生徒が立っている。
『またか』そんな事を呟きながら心を沈ませて教室の入り口に向うと男子生徒が覚束ない態度で話しかけてきた。
「あの、神楽坂さんにお話があるんですが」
「何の話?」
「あの、ここじゃ」
「ここじゃ話せない話なんか私は聞く気はないし、私は誰とも付き合う気は無いから」
そう言うと男子生徒が下唇を噛み締めて走り去ってしまう。
クラスメート達から冷やかしの言葉が上がる。
「うひょ、また撃沈か」
「流石だな、月の女神」
「すげぇ、まだ命知らずが居たんだ」
そんなクラスメイトを一瞥して自分の席に戻ると直ぐに麻美が話しかけてきた。
「ミーナ、あんな断り方をしないで話だけでも聞いてあげれば良いのに」
「同じでしょ、断るんだから。なまじ話しなんかを聞いたら期待させているみたいじゃない」
「まぁ、結果は同じか。それにしても『もののけ姫』の『サン』みたいだよね。ツンデレというかクーデレと言うか」
「私の何処がデレているの?」
「ああ、ツンとクーは認めるんだ。デレはパパさんの隣に居る時じゃん! 本当に鈍いんだから、誰が見ても一目瞭然でしょ」
麻美の言葉に何もいえなくなり俯いてしまう。
少しだけ顔が赤くなるのを自分でも感じ、誤魔化す為に麻美に話を振ってみる。
「そ、そんな麻美の好きなタイプはどんな人なのよ」
「もちろん、『ユパ様』!」
「はぁ? 『ナウシカ』の?」
「うん、それに『マルコ・バゴット大尉』に『おソノさんの旦那さん』」
「あのね、『紅の豚』のポルコ・ロッソに『魔女の宅急便』のパン屋の旦那さんって。親父趣味?」
「酷いよ、年上の人が好きなの。普段は口数が少なくって、それでもいざと言う時に颯爽と助けてくれる年上の人だよ」
話の内容どおり大久保麻美はアニヲタと言うよりジブリフリークで外見と同じ様な中身をしている。
けれど色んな事を私に気付かせてくれる大親友だった。
「でも、ミーナはパパさんが側に居る間は恋愛なんて無理かもね」
「だって、パパは私を一生懸命に育ててくれたんだよ。脇目も振らず恋もせずに。私だってパパはもてると思ってるもん。それなのに私が恋愛に現を抜かしている訳にいかないじゃん」
「あのね、恋愛も私達の年ごろじゃ大切な事なんじゃない? まぁ、ミーナのパパさんは若く見えるもんね。どう見ても親子と言うより歳の離れた兄弟か恋人だよね」
「親子だもん、全然似てないけど。確かにパパはまだ32だけどさ」
「ふぇ? い、今なんて言ったの?」
「え? パパの歳が32だって」
私がパパの年齢を言うと麻美の動きがピタリと止まりまるでお地蔵様みたいになって口をパクパクさせている。
確かにパパは若いと思うけど……
「み、ミーナのママって何歳だったの?」
「パパの4つ年上だから生きてたら36かな」
「信じられない、と言う事はパパさんって未成年の時からミーナを育ててるって事なの?」
「う、うん。そう言う事になるのかな。色んな仕事をしてたって言ってたよ」
だからこそ私は恋愛なんてしていられない、それにパパは普段はだらしなく見えるけど会社では凄く格好良いんだから。
そんなパパに憧れて私は勉強も特に英語は頑張ってきたんだもん。
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