歴史教師と時空の落とし穴(17)

千馬章吾

17

 気が付けば、また別の風景だ。雰囲気が似ている。まだ原始時代こと紀元前にいる事は間違い無さそうだった。

(そう言えば、さっきの男の人も、もしかして見習いの御医者様?あの長老医様の弟子かしら?知的な風格で体力もありそうだったしね。さて…………。ここは何処かしら、と。)

 この時代では、村では長老の他に、尊長と言う者もいた筈だ。あの男性が、もしかしたら尊長なのかも知れない。尊敬されているからこそ、尊長になれるのだ。村長をしつつ尊長と言う事になろう。村によって違うかも知れないが、大概はそうであろう。

 向こうに見えるのは、またも遺跡だった。綺麗だ。

(きっと、旧石器時代に来たのね。群馬県の、岩宿遺跡。じゃあここは群馬県、と。でもこの時代なら何県でも山や火山や森なんかが多いのは同じよね。そんなには変わらないわね。それにしても時間移動は、あああ、もう、どんどん下がってるぅ…………。これ以上に不安になってどうしようって言うのかしら…………。)

 またも嫌な匂いのする汗が出始める。暑さによる皮脂汗と、冷や汗が混ざったようで本当にこれは変な感じだ。

「(頭の中だけで考えあぐねると、マスマス気が滅入って来ちゃう。どうせ誰もいないし、声に出そうかな、っと。)岩宿遺跡って、一九四九年、相沢忠洋が関東ローム層(更新世後期の地層に火山灰が堆積して形成)から打製石器(黒曜石の石片)を発見したのね。旧石器文化の存在が証明されたのだったわね。大昔から、凄い人が沢山いるなあ。この遺跡も当初は立派に建てられてる。だから、今ここで見ているのは、”遺跡”とは呼ばないわね。砦とか寺院とか監視塔とか、ね。縄文時代の青森県の三内丸山遺跡は、大集落だったのが現代では大きな遺跡だしね。」

 日本列島における人類文化の始まりは、第二次世界大戦前までは縄文時代からと考えられていた。しかし、一九四六年相沢忠洋により、群馬県岩宿の関東ローム層から土器を伴わず打製石器が発見された事から、縄文時代以前に遡る事が確認され、日本ではこの時代を先土器時代と呼ぶ。この時期、日本列島は大陸と陸続きで、動物などと共に人類も渡来した。今から一万年前、地質学で言う完新(沖積)世になると、地球の温暖化により氷河が融(と)け、海水面が約百メートル上昇し、日本列島は大陸から孤立した。気候の変化は動植物相に変化をもたらし、狩猟技術の発達の中で、新しい縄文時代を迎えた。

 暦は取り敢えず、川の方へ向かって歩き出した。新鮮な水を飲みたいし、水を見れば少しは落ち着くからだった。

「マスマス不安…マスマス草臥れちゃう…マスマス帰りたくなって来た。マスマス…マスマス……マスマス………。ああ!!マス!マスだわ!」

 そう、マスだ。川の畔(ほとり)で、人が魚を焼いている。マス!よく見れば、鱒(ます)の魚だった!卑しいようだが、望遠鏡で見ていると鱒だと言う事がよく分かった。人間も、見たところは普通で和気藹々(あいあい)とした感じだった。多分大丈夫だろう、と思った。

「そうそう。鱒と言う魚は、川にもいたわよね。海の鱒はとっても好きで、よく食べるけど。でも、美味しそうな匂い。歩き回ったりショックを受けたりしてすぐに御腹が空いちゃうからね。」

魚を分けてくれるかくれないかは別として、今の暦にズバリと言う行き場は無いのd、兎に角行って見る事にした。

「あのう、こんにちは。」

暦は取り敢えずにこっと微笑んで右手の手の平を見せながら挨拶してみる。

「ぅむ。」

「ヤァヤァ。」

「ハィフ。」

 三人の男も、ゆっくりと振り向く。そして顔を見合わせた後は、三人とも微笑んだ。

焚き火の上で串刺しにして焼いている鱒は六匹だった。一人二匹ずつ分ける事にしていたのだろうか、と暦は思った。

「え?私に分けて下さるんですか?」

一番のっぽの男は、二匹の鱒を暦に差し出す。次に、もう一人の小太りの男は、暦の穿いている白いパンプスを何度も指差し、「鱒をやる代わりに、それを譲ってくれ。」と言う合図を手で示して来た。この時代では、当然ながら、特に珍しい靴なのだろう、と思ったに違いない。靴以外に、服もネックレスも、ストッキングも同じであろう。

「え?このパンプスですか?それはちょっと…靴ですから…ではあのう…こちらは…??」

暦は苦笑いをしつつも、首や手を振ったり、適当に手話をして意思疎通を図ろうとしていた。

 そして、ストッキングを急いで必死で脱いだ。丁度少し、伝線し掛けてもいたのだった。一か八かで、ストッキングを、原始人達に差し出してみる。靴を渡してしまっては、やっぱり歩くのに困るからだった。暦は、これで駄目なら、鱒は諦めようかと思っていたのだ。ただでさえ、パンプスは高い物だったのだ。ストッキングぐらいならまだ値段的には釣り合わないかと、自分のいる世界での価値観だ。それも、やっぱり靴を失くせば後で後悔する事になるそうだった。歴史の、それも日本史の勉強をずっとして来た暦は、やっぱり広く見渡す以上に、深読みするのが得意な方だったのだ。またはそれ以前に臆病でもあった。

「グト!!」

とこう言って、のっぽの男は親指と人差し指で輪を作り、「グー!(良し!)」の合図をした。ストッキングを受け取った。これこそ、珍しいであろう。それで、誰が穿くのだろうか?持って帰って嫁さんのあげたり、他所の村で物々交換するとかなら分かるが、男の長老様に差し出したりして長老様が穿いたり、やっぱり男達で穿いたりするのは、想像するだけで身の毛が弥立(よだ)つ。嫌だったのだ。

 のっぽの男は、こんがりとよく焼けた鱒を、暦に二つ差し出した。自分に一つ、小太りの男に一つ、最後に、残った二匹は、もう一人、御向かいにいた痩せっぽっちの比較的身体の小さな男に差し上げた。多分、最年少で一番生まれながらの病弱な人なのだろうか、だからその人には魚二匹なのか、と思ったのだった。暦は優しさに心を打たれた。優しさは当然ながらも時に人の心を大きく打つものだったのだ。

 見ると、のっぽと小太りの二人の男は、鱒を食べる前に、暦の穿いていたストッキングに鼻を当てると、腰部分から爪先部分まで、捲(まく)る様にして満遍(まんべん)無く、匂いを嗅いで行った。

(イヤ、嫌ぁぁ…ヤメテ…相当の相当に蒸れてる…絶対臭いわ…あ、でも仕方ないわね。第一こちらの言葉は通じないばかりか、珍しい物なんだもの、ストッキングって。ううん。それ以前に、ナイロンやポリウレタンだって珍しいの当然よね。ま、ここは許してあげる。)

 二人の男は、匂いを嗅げば微かに顔をしかめた様子だったが、またすぐ笑顔に戻った。

 ここでさておくと、魚を食べる前に、暦はこう感付いた。ここで自分が来ていなければ、六匹の鱒は、そちらの痩せて病弱そうな男に、三匹か四匹、もしかしたらあげていたかも知れない、と。

 暦は、自分が貰った二匹の内の一匹を、その男に譲った。

(これで良いわよね。私は贅沢な御馳走も貰っちゃってるし、後で水を飲むし。)

 その男は頭を下げて目に涙を浮かべると、暦の右手の甲にキスをした。暦も頭を下げると、「素足にパンプス」と言う格好になった暦は、鱒の腹部分から口に運んだ。水を手で掬うと五杯ぐらいを口に含んだ。

(これ以上は、水腹になって御腹が出ちゃいそうだから、やめとこうっと。冷たくて綺麗だから、美味しい水、……よね。本当は味の無い水には美味しいとか言うのは、ある訳ないんでしょうけど、……もう一つの意味では美味しくなるわよね。そうそう。そうだ!足も洗っちゃおう!うわあ、やっぱり冷たくて気持ちいい………)

 暦は、パンプスを脱ぎ、両足を川に浸けた。そして顔も洗って、ハンカチで拭いたのだった。

 そして最後に暦はもう一度、三人の男に頭を下げる。

 暦は自分のバッグの中をまさぐると、奥の方に、もう一足、古いストッキングがあったのを見付けた。

(きゃあ、これって先週、私が残業の後、蒸れたのが嫌で気紛れで脱いで、捨てずに入れた分だわ!あのまま寝ちゃって、気付かずにくっ付いてたのね。ああーああ、でも良かった。パンプスだと、素足では正直足が痛くなっちゃうのよね。これもまだちょっぴり臭いけど、ええい、一応穿いちゃえ!ゴメンネ!てへ。アニミズム、アニミズム。服にだって、この時代じゃ自然物には霊魂、そう、心があるってね。だからストッキングにも謝ってっと。よいしょ。)

 暦は、まだ伝線していないが古くて汚れたパンストを穿き直した。

(これで、足も痛くならないわね。また蒸れたら脱ごうっと。)

 その時、三人の男は目を大きくして、驚いた様子で暦の背後を指差した。

「え??」

 暦は振り向いた先にあったものとは………………………真っ黒な時空間の穴だ!それも、これまでとは比べ物にならない程巨大だった!

(今度こそ、帰れるのかな…?だとイイんだけど…?)

「ひゃあ!さよならあ、皆さん!アリガトオオォォ……。」

吸い込まれたのは、暦一人だ。

(これより下って、人類が誕生する頃とか二百年前?地球の誕生?でもそれじゃ四十六億年以上は前になるわね。もう、イヤ、イヤ、嫌~~っっっっっ!でも皆には、有難う、だわね。そして、御免なさい……。……………そう言えば、………今度はなかなかね。帰れるのなら良いんだけど……。本当に長いわね。)

 今度ばかりは、なかなか時空間を抜けられない様だった。比較的早く抜けられるいつもよりは何十倍になるのだろうか……暦は、このまま時空間の中で睡眠でも取れそうだった。そう思いきや、清美は時空間の中を漂ったままで、本当に眠ってしまった。



どれぐらい眠っただろうか。六時間~八時間ぐらいの睡眠だろうか。気気持ち良かった。そして目を開けると、真っ白い光が見えた。

「ふう、よく寝た…。あら!きゃあ、空中!落ちるうう!でもここは、地球、よね。」



(色々ナモンヲ食ッテ寝テ元気ニナッテ何ヨリジャ、ククク。コレデ、良イ”アリツキ”ニナロウゾ。ククククク。)



「また、変な声が自分の頭の中で……え?え?キャアアアアアアアア!!」

「ガオオオゥゥ!!アーーーーーーーーンッッ。」

「キャアアア!!何、何、ウッ!!ウウ!!ギャアアアア!!」



 暦が真っ逆様に落ちたのは、不運にも……………最強にして最凶最大なる肉食恐竜こと、ティラノサウルスの口の中だった………。スーツを着た男の人がいてその人にぶつかったような気がしたが、咄嗟の事なので暦には分からなかった。暦は一口でティラノサウルスの餌、いや、ティラノサウルスの小さな御馳走になってしまったのだった。ティラノサウルスは、口腔内では身体をゆっくりとズタズタに噛み砕いて食べたようだ。口元から血が滴っている。美味だったのだろうか。

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歴史教師と時空の落とし穴(17) 千馬章吾 @shogo

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