歴史教師と時空の落とし穴(10)

千馬章吾

10

 気が付けば、夜だった。また時空転移だろう。ほんの僅かな時間と空間の移動かも知れない。第六感として暦にはそう思えた。勘は割と鋭いのだ。真っ暗かと思えば、天気が悪い。しかも、雷雨だ!一瞬、感覚が鈍っていたが、雷雨に打たれているのだとすぐに分かった!凄い雨だ。更に、これはこれは凄まじい雷が、何度も天を割いている。こんなに激しい雷は、暦は久し振りに見た。近くに屋根があった。何処でも良いからと、急いでその下で雨宿りする事にした。

暦は、雷は小学校低学年まではとても恐かったが、小学三年生、つまり中学年ぐらいになって歴史、それも日本史や理科を習い始めてからは、菅原道真の事や菅原道真が死後、雷神になったと言う伝説、雷などの放電現象が分厚い積乱雲によって起こる原理について学んでからは、徐々にだが、雷と言うものを寧ろ好きになったと言って良い。暦は、清楚で大人しいにしては、周りの子より強い子だったそうだ。そう臆病でも泣き虫でもなかった。男子から蜘蛛を見せられた時は、守宮(やもり)やミミズを手で持って見せたり投げ付けて仕返しをして懲らしめた事があるぐらいなのだ。

 良く見ると、そこは宮中の清涼殿である事がすぐに分かった。腰元らしい一人の女がもう一人の女と何か話していた。

「こ、これは、道真様の祟りかも知れません。」

「道真様…。嗚呼、道真さまは、あのまま大宰府で没されたのですね………。」

「道真様は、あのままお亡くなりになった後、雷神様になられたと…………。」

「ええ、恐らく……私はそんな気がしてなりませぬ。」

 日本の雷神は、菅原道真の怨霊であると言う逸話がある。道真の政争の相手は左大臣・藤原時平である。時平は、道真が醍醐天皇に対して謀叛を企んでいると訴え、醍醐天皇がこれを受けて、道真の大宰府への左遷を決定した。正式には道真は、右大臣から太宰五権帥に左遷された。

その後間も無く、道真の故郷周辺が激しい雷雨に襲われ、特に清涼殿には突如落雷があった。そこで大納言以下数名が死亡。醍醐天皇はこの為に体調を崩し、そのまま崩御。後に道真の怨霊が引き起こしたと噂される。

延長八年六月二十六日の、「清涼殿落雷事件」だ。


 このままここに居ては危険だと、暦は思った。自分は関係無いが、落ちて来ないとも限らない、と思ったのだ。暦は、一気にこの場で心を集中させて手と手の皺を合わせて祈った。ここぞ命ばかりは助けて欲しい、と。

 落雷だ!!暦は時空間の中に吸い込まれた直後、凄まじい音と人の悲鳴のような声を聞いたような気がした。



「クワバラ、クワバラ……。」

と無意識に暦はこう唱えていた。

 どうやら今回ばかり、場所は変わったが、時間は変わっていないようだ。転送しただけで、時間移動は恐らく出来ていない事だけは明らかだった。天気が変わっていない事と、周囲の建物や風景を少し見れば分かる事だった。

 落雷は、向こうの方で幾度か起こっていた。先程の清涼殿の方に違いない、と暦は思った。「御愁傷様です。」と暦はまた手を合わせ、そして拝んだ。

雷の音はどんどん遠さかって行く。ここに落雷が落ちるような気配は無かった。良く見れば、ここは道真の領地ではないのか。それも「桑原」と言う名の道真の領地なのだ。

 そう。ここにだけは落雷が不思議と起こらなかった。その事から、雷避けの御呪(おまじな)いとして、「クワバラ、クワバラ。」と呟(つぶや)くのが流行した。

 道真を心から慕っていた暦を、道真が助けてくれたのだろうか、と暦自身は思ったものだった。

(キャッ!また転移ね!またさっきみたいに場所だけ移動かな?雷が完全に止んでからにして欲しいなあ。嗚呼、それにしましても道真様。心より御慕い申しております。)

 気が付けば、宮殿の屋上?…と言うより寧ろ、………これは宮殿の屋根の上か?

 雨も雷も止みかけだ。目の前に誰かいた!刀を立てている!暦には気が付いていない。

 藤原時平だ。

(時平めぇぇ!この私が許せないわ!よし、ここで道真様に変わって…………えい!えいっっ!)

「ふっ…道真めが……うげっ!ぐぐぐ!ぐるじぃ…ダズゲデ…だ、誰だぁぁあああ!あああああ!」

「このっ!このっ!」

 暦は、右腕で時平の首を思い切り力一杯ぐぐっと締め上げ、左腕で頭部全体を上から被せて覆うように閉め付けている。

「何奴だあ?放せ!止めてくれええ!」

「よくも私の道真様を!ええい!時平!覚悟!身を持って償ええ!」

「ぐげええ!助けてくれぇぇ!く!苦しいよお!げへっ、げへっ。」

(もう、このまま歴史を変えちゃおうかしら…。どうせこの時代の人間じゃないし、この時代にカメラだって無いから、証拠はそう残りはしないし…この時平を、このまま……。)

 やっぱりやり過ぎかな、と思った暦は左足のパンプスを脱ぎ、左手で持ったパンプスを、時平の鼻に押し付ける。

「ひいぃぃ!この匂いは何だよ!酸(す)っぺえよ!酸っぱ臭(くせ)えよ!死ぬ!死ぬ!ごめんよお、俺が悪かった!」

「そう。反省してるんならいいけど、でも、でも、道真様はもう還らないのよ!こいつめぇぇ!」

 パンプスを履き直すと、今度は思い切り時平の頬を抓(つね)る、抓る。

「痛(いて)ええぇぇぇぇ!!」

 平成の美人日本史教師である暦が如何程に鬼の形相をしていようが、罵声を幾らとも浴びせようが、突然後方から締め上げられたままの時平にはこちらの顔が全く見えないのだ。


「もう良い。許してやれ。もう良いのじゃよ。わしはもう大丈夫じゃて。」


(え?)


 気が付けば、暦は、先程の「桑原」に戻されていた。夜明けのようだった。雨は完全に治まっていた。大皿一杯の三色団子と、湯飲みに入った御茶がある。暦は、有難くそれを頂いた。そしてすぐに、巨大な時空間の裂け目が、また現れた。じわじわと暦は吸い込まれて行く。



 ここは?場所は分からない。御寺と良く似た広い建物だ。その敷地内、現代では大きな庭と呼んでいる。ここは屋敷になるのだろう。嘗ての御偉い方が住んでいるに決まっている、と暦は思った。

廊下に座布団を敷いて女性が低い机に向かって座り、何か書き物をしている。取り敢えず近くに行って道ぐらいは聞く事にした。泊めて貰ったりと世話になれば勿論嬉しいのだが、悪いから遠慮したいと暦は思っていた。

「めぐりえひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな。」

(あれは確か、小倉百人一首の……入選した……あ!もしかして?そう!きっと!きっとそうよ!)

 正しく紫式部だ!と暦には分かった。「源氏物語」等を書いた、平安時代中期の女性作家にして歌人でもあった、あの紫式部だ。確か、生没年とかが今でもはっきりはしないのであったと暦はその事も思い出した。ここは、どうやら彼女の暮らしている屋敷だったのだ。(紫式部様…御会い出来て光栄ですわ………。)

 レズではないが、暦はまたもときめく。紫式部も大好きな歴史上人物の一人だった。

「そこにおるのは誰じゃ?何をしておる?」

「こんにちは。私、柊暦と申します。あのう、すみません。……実は……道に迷ってしまって。(ランダムに時を駆けさせられているのだから、時空に迷子になっちゃってるんだけど、ここで本当の事放す訳には………幾ら物分かりの良い聡明な式部様でも…こればかりは………ああーーあ…。)」

「ほほう。そうなのか。御気の毒に。わらわは紫式部と申す。おぬしは何処から来たのじゃ?ここは、藤原北家と言う屋敷じゃ。わらわの生家でもあるぞ。さて、客人は手厚く持て成さなければならぬな。」

「あの私、東京、東京府……いえ、あの、武蔵国と言う所から来たのですが……。」

「ほう、武蔵国か。さぞ遠方から来られたんじゃのう。そちは今日とてもう御疲れではないか?もう夕方じゃ。間も無く日は暮れる。この辺りの夜道も危険じゃ故、良ければ休んで行くか?地図なら幾分かあるから御渡ししてやっても良いぞ。要るか?」

「はい。有難う御座います。紫式部様。」

手足を揃えて、ぺこりと暦は頭を下げる。

「いやいや、礼等良いわ。柊暦殿とやら。」

式部は微笑む。

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