歴史教師と時空の落とし穴(6)

千馬章吾

6

暫く瞳を閉じて、再び開けて気が付くと、別な場所にいた。今度は、先程のような邪気は感じられず、平和そうな旧街道だ。

(さっきみたいな戦場では無さそうね。良かった。まだ江戸時代かな。)

 草臥れていたので、隅の大木に三角座りをするようにして屈み、休憩する事にした。雨上がりの後なのか、地面が濡れていたので陰になる所を探したのだった。

すると、誰かが通り掛かる。年老いている老人のようだが、何処かで見た事のあるような顔だった。

「五月雨を 集めて早し 最上川………云々…。これはなかなか良いのが出来よるわい。天気がええと気分もええのう。それで良い句が浮かぶんじゃろうなあ。ふぉっふぉっ。」

訳は、「降り続いた雨で、水嵩を増した最上川の流れが早くなっている。ここ酒田への船着き場である大石田(おおいしだ)で川の流れがおさまるのを待つ事としよう。」になる。

(あれは、松尾芭蕉さんね。間違い無いわ。素敵。でも声掛けようにも、掛けられないな。) 

芭蕉は、暦には気付いていないようだ。道の左側に大木があり、周りには茂みも多いので、気付かないのだろう。ただでさえ、芭蕉は作詩に夢中なのだ。

(これで、まだ江戸時代の元禄文化だと言う事が分かったわ。そう言えば、松尾芭蕉さんと言えば、他には「笈(おい)の小文」や「猿蓑」とか作られてたわね。好きだったから私何回かは熟読しちゃった。そうだ。この頃は、近松門左衛門さんが「曾根崎心中とかの浄瑠璃脚本書かれていたっけ。井原西鶴さんが「好色一代男」って言う浮世草子を…………。)

 この頃は、他には儒学三派と言うものがあった。幕府は朱子学を重んじたが、朱子学を批判する陽明学、古学も隆盛した。理気説を主張し、忠孝・礼儀を重視した朱子学は林羅山(京学派)と山崎(やまざき)闇(あん)斎(さい)(南学派)、知行合一を重んじ社会的実践論を主張した陽明学派は、中江藤樹と熊沢蕃山(くまざわばんざん)、古典研究により孔子・孟子の本来の儒学思想を学ぶ古学派は山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春台である。

(そうだ!近くに最上川があるんじゃないかしら!芭蕉さん、さよなら!気を付けてじっくりと元気に旅を続けて下さいね!私も今頑張って旅してます!)

 暦は取り敢えず頭を下げると、芭蕉が進む方とは反対側に走って行く。

 旧街道を抜けると、大きな川が広がっている。

(うわあ!綺麗!これが最上川ね。江戸時代だった頃のを見るのは感じが違うなあ。未来の平成とかよりは空気も澄んでるわね。この頃の自然は、本当に素敵だったわね。私は本当は勿論、生きてはないけど。)


ソウサ オマエハタシカニ イキテナドイナイ


(あら?何か聞こえたみたいだけれど、気のせいかしら?やっぱり、いつもより疲れてるのね?仕方無いわ。時空を駆ける旅だもの。それもランダムに……はあ……。)

 出来れば、この川で自分の下着やストッキングを洗っておきたいと思った。足浴もしたいけれど、いつワープになるかは分からない。

「せめて、手と顔と首だけでも洗っておきたいなあ。よし、そうしよう。」

 暦は川の畔(ほとり)でしゃがみ込むと急いで手を水に付けて顔や首を手早く濡らしながらしっかりと擦った。

(冷たくて気持ちイイ!ああ!)

 元禄文化は十八世紀初頭にかけて上方を中心に栄えた文化で、いわば上方商人の活力を背景に開花した町人文化だ。現実的な生き方と自由な人間性を基調にした。

 涼しくなったかと思えば、またワープだ。まあ丁度良いタイミングだろう。

 気が付けば、畳の上だ。広間だろうか。顔を上げれば、そこには装飾画。

 俵屋宗達の、「風神雷神図屏風」だ。

(風神雷神様だわ。近くに俵屋宗達様がいるのかしら。まだ元禄文化の時代かしら?じゃあ他の場所では、尾形密林様が「紅白梅図屏風」や「燕子花(かきつばた)図屏風」を、菱川師宣様が「見返り美人図」と言う浮世絵を描いていたわよね。こんな間近で見られるなんて。)

「ん?そこにおるのは誰じゃ?」

 振り向くと、そこには男性がいた。こちらへやって来る。

「私は俵屋宗達じゃ。御前さんはここで何をしておるのじゃ?ここは私の仕事部屋なんじゃが。」

「すみません、あの……。」

「訳をじっくり聞こうぞ。どうしたのじゃ?泥棒ではあるまいな?…む!何か臭うぞ…何じゃ、この臭いは…?納豆に酢を混ぜたような。」

と宗達は鼻の穴を膨らませながら冷静に言う。

(やだ、失礼しちゃう。それは、私の足の臭いよ。もう嫌ぁ、ワープしたいなあ。はあぁ。)

 溜息と付いて再び絵の方へ向き直ると、図屏風の中の風神と雷神の目がギロリとこちらを向いているように見えた!そして目が青く光った!絵の中へと吸い込まれるように暦は消えた。

 狭い宇宙空間のようなところを潜り抜けるように流された。願が叶ったかのように。

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