アメザイク

長妻 雅子

第1話

夜空に、虹色の雨が降る。


美しいピアノの音を奏でながら、虹色の雨が降る。


僕は虹色に濡れながら、家路へと急ぐ。


やがて、穏やかなピアノの音は激しいドラムの音へと変わり

虹は鋭い槍へと変貌を遂げ、容赦なく降り注ぐ。

槍の雨はザァザァと大きな音を立て、容赦無く僕の足元目掛けて延々と突き刺さっていく。

ああ…あと数分歩けば帰れるのに…。

仕方なく僕は、近くの高架下の公園へ行き

槍が再び虹へと変わるまで、休むことにした。



ここならしばらくの間、槍を凌ぐのにちょうどいい。

もう少ししたら家に帰れるだろう…それまであのベンチに座って…


ベンチには既に先客がいた…ピンク色のストールを羽織った女性。

彼女の長い髪の間からは、真珠のような大粒の涙があふれ出ていた。

「あの…」

僕は彼女に話しかけた。

ゆっくりと、彼女は顔を上げる…


色白の、美しい女性ひとだった…。


その時に、下心が全くなかったと言えば嘘になる…。

でも、こんな美しい女性が…僕でよければ何とかしてあげたいと思ってしまった。

何もならないかもしれない。でも、何とかなるかもしれない。

けど…その美しさに、僕はハッと息を呑み立ち尽くした。


「あの…」


二度目に声をかけた時、彼女は立ち上がって僕の方へ歩いてきた。

僕の目を見つめ、真っ直ぐに。

泣きながら花のような匂いを漂わせて、僕に近づいてきた彼女。

大きな黒い瞳に吸い込まれ、僕は動けなくなってしまった。


花の香りの女性ひとは、大樹のようにその場に根が生えてしまった僕の首に手を回し、まるで蔦のように絡みついてくる。

その香りに誘われ、僕はもう一度彼女に話しかける。


「あの…キスしてもいいですか」


唐突に、口をついてとんでもないことを口走ってしまった。

蜂が綺麗な花に吸い寄せられ蜜を吸うように、僕は彼女の唇に触れたいと思ってしまったのだ。

彼女が僕の目を見つめたまま、しばらく時が過ぎる。

彼女は小さな声で言った。


「…いいですよ…」


僕と彼女は見つめ合ったまま、自然と唇を触れ合わせる。


公園の外は、相変わらず槍のような雨。

その音にかき消され、時が過ぎていく。



雨はやみかけ、元の優しい音へと変わりかけていた。


僕たちはいつの間にかベンチで互いの手を握り合い座っていた。

彼女はずっと、涙を流したまま。

嗚咽は僕のとなりで優しい雨音とハーモニーを奏でている。

雨も嗚咽も、当分止みそうにない。

僕はその理由を聞きたかったが、ずっと聞かずにいた。

…今は何も聞かなくていい。気の済むまで泣かせておいてあげよう。

雨はいつか止むものだし。


どれくらいの時間が経っただろう。

雨の演奏会は終了し、街には他の場所で槍の雨を凌いでいた人々で溢れ始めた。

「ごめんなさい」

彼女は我に返り、僕にそう告げて去っていった。

「あの…」

美しい花はあっという間に僕の手を話し、夜道へと駆け抜けて行ってしまった。


夢のような時間が過ぎ、現実へと引き戻される。

ああ…携帯…LINEの通知が何件も…

“雨降ってるね”

”今何してる?”

“どうしたの?”

…帰ったら返事しなくちゃ…。





夢のような時間だった。いいえ、夢だったのかもしれない。

でも…帰らなきゃ…いけない…。

帰らなきゃ…またあの人に叩かれてしまう…いいえ…帰ってもきっと…。

どっちにしても、私に待っているのは…。


ドアを開けると…


「おかえり。何処に行ってたの?」

「怒ってないからさ、言ってよ。ねえ何処に行ってたの?」

ああ…お願い、許して…。

「…言えよ!!」


また悪夢の繰り返し…。


帰るところはここしかないから。

でも、出来ることなら…




ここから、逃げたい。





お願い…助けて。

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